「貴方が履いているその靴に、ルベル・ヘルバが残した跡があるの」

 ……と、彼女は言った。
 見たことのない女だった。茶色の髪は肩に触れるか触れないかというところで切りそろえられ、銀の双眸は三日月の先端を思わせる鋭さを帯びている。陶磁のように滑らかな肌、濡れた唇、整った鼻梁――いちいちパルティ(パーツ)を挙げる必要も無いほどその女性は美しかった。だからこそ、見覚えがないということは一度も出会ったことが無いということであると結論づけられる。
 喉を鳴らして溜まった唾を呑み込んだ。

「あの道を通った後、急いで服を取り替えたんでしょうね。でも、靴の方にまで頭が回らなかった――若しくは、替えの靴が無かったのかしら? どちらにせよ、貴方が森の中にある山小屋に行ったのは明白だけれど」

 服の中で汗が流れているのが分かった。分かっていた。けれどそこから何も出来ない。こんな人通りの多い場所で、よもやどうにか出来るはずが無い。

「あの山小屋では、明らかな証拠隠滅が行われていた。殺し屋との契約書が燃やされるというね。それを裏付けるように――、……知っていた? あそこの床にはね、泥の足跡があったのよ。まだ乾いていなかったから、今朝の雨によるものでしょうね。つまり、トゥッリオ・パンツェッタが逮捕された後――例のキノコの性質と泥の足跡という二つの証拠を鑑みるに、今日の朝。日が昇る前に、あの山小屋に何者かが出入りしたのは明確なの。
 わざわざあんなところに入って証拠隠滅する人間なんて一人しかいない――つまり、今朝山小屋に入った人間こそが殺しの依頼人になるわけだけど――」

 そこで彼女は長広舌をたったの一瞬断ち切って、

「……貴方のそのルベル・ヘルバの跡は、一体いつ(・・)付着したものでしょうね?」

 唇の端をほんの少しつり上げて、
 その女は小さく微笑った。
 刹那。

「――!」

 男は笑う。その背後に迫ったモノに。彼女の背後に現れた、赤いカップッチョ(フード)の死神に。



カップッチョの死神



 ガツッ、……という、何かが床を穿つ硬質な音が背後でした。反射的に振り返る。振り返って驚愕した。自分のすぐ真後ろに、氷山の一角を思わせる氷の山が出来上がっていたからだ。

「女の子に唐突に刃向けるなんざぁ感心しねぇぜ、パンツェッタよぉ」

 ……玄関ホールの一角から上がった声だった。背もたれの無いソファーベンチが並んだ辺り。多分休憩所か何かなのだろう。そこに一人、屹立している男がいる。教会治安部隊の軍服に身を包んだ、咥え煙草の金髪碧眼の男――。

「マリピエロ!」

 左側の通路から耳慣れた声が飛び込んだ。教会本部の、治安部隊棟の方からだ。普段は教会行政棟とやらで寝泊まりしているはずの真佳が何故そこから飛び出して来たのかはさくらには分からない、が――とりあえずまた危険な綱渡りをしたのだろうことは何となく知れた。
 やれやれ……結局こいつもこの(・・)場に居合わせるのか。

「おー、マナカ。二、三日ぶりだっけか? ちゃんと大人しくしてんだろうなぁ」
「いや、それは……って、何でさくらがここにいるのっ」
「サクラちゃん! よし俺は覚えたぞ」
「何がだっ」

 ……“大人しくしてたか”、
 という問いかけに含みがあるのに気がついた。どうやらマリピエロと呼ばれた彼、真佳の正体を知っている。マクシミリアヌスの仲間か何かだろうか。言動から察するにこの氷山もマリピエロの仕業と認めてもいいが――、さっき殺し屋に話しかけた際、わざわざ日本語を介したのがさくらの日本語を聞いてのことなら酷く気が回る奴だ。若しかしたらさくらの正体に感づいたかもしれない。まあ、別に困ることは無いけれど。それより今は、

「依頼人の正体が分かったから、ちょっと話をつけに来たのよ」
「話をつけにって……えええ、危ないことはしない約束じゃ、」
「中佐に報告に来たらそこで依頼人が確定しちゃったんだから仕方ないでしょ。このままだと逃げられる可能性もあったし」
「逃げられるって、」

 肩を竦めた。真佳の言葉を最後まで聞かずに視線の矛先をもとに戻す。彼らが入って来るその直前まで対峙していた、一人の男がそこにいる。

「――」

 一瞬……真佳が息を呑んだのが空気で分かった。

「……――ベルン、ハルドゥス……?」

 引きつった声でたった一言。知り合いだったのか……。まあ、その可能性が全く無かったわけでは無い。
 ウエイター服に身を包んだ、小ざっぱりした印象の男だ。どことなく幼い顔立ちをしているが態度の方は大人びている。ターゲットに正体がバレたにも関わらず、そいつは臆することなくこちらを見ていた。アイスブルーの透き通るような双眸で、真っ直ぐこっちを。
 ……色素の薄い、キャラメルラテを思わせる前髪を細長い指先でさらりと横に流してから、
 ――そいつは笑った。

「ご名答で御座います。僕が異世界人排除のためそこの殺し屋を雇いました。貴方が見つけたという泥の足跡も証拠隠滅の痕跡も、全て僕が犯したことです」

 異世界人、という囁きがそこここで上がっていることに気がついたが、さくらはきっぱりそれを無視した。それよりも気になる反応を見せたのが――

「……証拠隠滅……?」

 先ほど氷の柱を警戒して後方まで飛び退った赤いフードを被った少年。状況から考えて、どうやらこいつが真佳を狙った殺し屋と見てまず間違いなさそうだ。そして恐らく、さっきさくらをも殺そうと企んだ。

「そう。アンタらが契約を交わした際に作り上げられた、殺害を依頼する契約書。それの燃えカスがあったのよ。アンタが寝床にしてた山小屋にね」
「っ、」

 背後から突き刺さる睥睨の弾丸を胸中必死で受け流した。殺気……。お前には聞いていない、ということか。うなじにかかる氷の冷気を感じて笑う。汗が首筋を通り過ぎた。

「……そう驚くことではありません。貴方が約束通り彼女を殺してくれさえすれば、契約通りの金額をお支払いするつもりでした。神の名に誓ったことは僕は必ず守ります」

 ウエイター服の男はブレない笑顔でそう言った。

「――あれはあまりに危険でした。僕が依頼人であることを誰の目にも明らかにする危険な物。ですから、一旦隠滅を図ったまで」
「……それにしては、彼が捕まってから随分と間を置いたのね」言うと男は苦笑した。
「すぐに行動に移すと怪しまれてしまいますから。貴方はご存知無いかもしれませんが、本日はあの森で教会が育てている作物を収穫する週に一度の日……。僕があそこへ行っても怪しまれない、絶好の日だったんですよ?」

 ……何の気負いもなさそうに肩を竦めた男を見て米噛み辺りがちりりと疼いた。目を瞑る。一瞬だけ。一呼吸だけ。相手は犯行を認めていて、ここは教会本部の玄関ホール。軍服に身を包んだ人間がちらほらいるし、何よりここには真佳がいる。ベルンハルドゥスを拘束するのには十分すぎる環境――で、間違いない。
 なのに、
 ……この違和感は、何だ?

「おい、そこの二人ー。そいつ拘束しとけ。パンツェッタだよ、パンツェッタ。トゥッリオ・パンツェッタ! 斬られねーように気をつけろよ。――ったく、殺人の上に脱獄まで企てやがって」

 咥え煙草の不明瞭な声で指示を飛ばしたのはマリピエロだった。飛ばしながらさくらの脇を通り過ぎる。ツンと鼻を突く煙草のにおいが嗅覚に触れて薄れていく。
「は、……は!」戸惑いがちの敬礼で応じてそれまでそこいらに突っ立っていた治安部隊員が二人、軍服の裾を蹴散らしながらトゥッリオの元へ駆けて行った。殺し屋はそこから動かない。

「さーて、ベルンハルドゥス・コッラディーニ。さっきの話は自供と取るぞ。大人しくお縄に――」

 マリピエロの軍靴が硬質な音をカツカツ立ててベルンハルドゥスの方へ近寄って、

「ぅああああああ!!」

 ――靴音がやんだ。
 突如上がった叫声にマリピエロの歩みが止まっていた。息を呑む。息を呑んで振り返る。恐らくその場の全員が一斉に。
 ――びちゃっという音がした。マリピエロが立てた跫音とは対照的なぬめった音。真紅の絨毯に撒き散らされた生々しいほどの鮮血が分厚い氷越しにもはっきり分かる。斬られた――んだ。いや、ただ斬られただけじゃない。トゥッリオの前に蹲った軍人の左腕は、前腕を上から下へ真っ直ぐぶった切られていた。「あ……あ……」わざわざ骨を避けたに違いないと思われる位置に斬り込んでいることから、あれは多分貫通している。正確には、貫通していた。今や凶器は治安部隊員の腕の中には存在しない。
 トゥッリオが――何十人もの人間を殺めた殺し屋が、ちろりと上唇を舐めるのが見えた。返り血で髪と顔半分とを真っ赤に染めた、狂気的なその顔で。
 ……そのまま、
 こちらの視線を見留めた彼は、唇の端を異常なまでに持ちあげて――
 一人、
 嗤った。

「……どういうつもりだ、パンツェッタ」

 低い声音でもってマリピエロが言を発した。

「オレは殺し屋だ。依頼通り人を殺すのがオレの定めだ。依頼人が捕まろうと知ったことじゃない――」

 そこで彼は一呼吸置いてから、薄っすら微笑んだまま鉄の刀を翻した。硬い音が空気を揺らして聞こえた気がした。真っ赤な血に濡れた、全身七十センチほどの片刃の剣。

「――秋風真佳を殺す。それがオレの、」

 区切ると同時に片方の足で地を蹴って

「定めだッ!」

 蹲る男を乗り越え真紅の絨毯を踏みしめながら真っ直ぐこっちへ、
 ――真佳目掛けて飛んできた。

「ッ、構わん、撃ち殺せ! 俺が許可する!!」

 その場の全員の慌てたような銃口がマリピエロの指示を受けて殺し屋に標準を合わせると同時に、恐らくマリピエロの標準も殺し屋の方に向けられた。具現化された氷の刃と第二級魔力保持者の魔力とが疑いようのないほど一直線にトゥッリオへと切っ先を

「っ」
「真佳!」
「おい待て撃つな! 銃をあげろ!」

 ――渦中に突っ込まれたのは矛先だけでは無かった。
 真佳自身もまた、人々の隙を見て飛び込んだものの一つだったのだ。真佳のクナイとトゥッリオの刃とが交わり、跳ねる音がした。甲高い音。このままトゥッリオに向かって銃を発射しようものなら真佳の身体にも傷がつくのは必至。
 ……後ろでマリピエロが怪訝げに奥歯を噛んでいるのが容易に想像出来た。何にせよ、彼が咄嗟に発した中止命令には助かった。

「……真佳」

 刃が跳ねる勢いのまま飛び退ってきた彼女に向かってさくらは言う。真佳が少しだけ振り返った。

「どういうつもり?」

 尋く。

「……どういうつもりも何も」

 笑って、彼女はさくらの方から視軸を外しクナイを指先でくるくる回した。真佳がいつも持っているクナイ――とは、少し違う気がする。それよりも幾らか真新しいような。
 定位置に戻ったクナイを握り直すと同時、そいつはじっと真っ直ぐトゥッリオの方へ視線をやって

「決着、つけとこーと思って」

 何の気負いもなく言い切ったかと思ったら、殺し屋の眼前目掛けて地を蹴った。

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