何だか寒いところだなと真佳は思った。
 春だというのに足元には冷たい風が蔓延している。ドアノブを回したときには、その冷たさに思わずびっくりしてしまうほど。床から天井にかけて(これはそんなに高く無い)、天を突くように伸びた鉄格子は多分、それと同じ冷たさがあるのだろう。ぴちょん……ぴちょんと、水滴が地面を穿つ音がさっきからしきりに聞こえている。一定の間隔を空けて設けられた牢屋にはそれなりの広さがあるため、どこから水が漏れているのかは今の真佳には分からなかった。
 ――石造りの牢獄が、真佳が歩くのに合わせて――カツン、と鳴る。
 収容人数五人あまり。
 真佳らの世界で言うところの留置場に当たるこの地下室に、現在実際に収容されているのは一人だけだ。それは真佳も知っている。

「――やー、殺し屋さん。あれからずっと、留置場にはキミ一人だったよーではないですか。寂しくはなかったかい?」
「……」

 鉄格子のその奥で、トゥッリオ・パンツェッタが射るような視線でこっちを見た。


鉄の格子の向こう側



「そんなに敵対心を燃やさずとも。むしろ、敵愾の念を抱くのは私の方では無いですかね?」
「……なら勝手に恨めばいい。オレはあんたに恨むなとは言ってないし、ここに来てくれとも頼んでいない」
「あは、そう、その通り」

 鉄格子の一つを強く掴んだ。冷たい格子。ドアノブと同じ感覚だった。春だというのにここいら一帯は冬の空気を帯びている。まるで時間に忘れ去られてしまったように。
 ――鉄錆のにおいが鼻をついた。目を、細める。

「だから正直、敵対心云々の話はどーでもいいんだ。私はキミを恨んでいないし、私の意思でここにきた。キミが私をどう思ってるか、なんてゆーのも、恐らくはどーでもいいことの一つなんでしょう」
「……?」

 鉄格子のその隙間、室内の左に置かれたパイプベッドの上に座した殺し屋は、怪訝げに片眉を跳ね上げた。純粋な疑問だけじゃない。こいつは何を言い出す気だという、警戒心も多分にあった。
 視線をトゥッリオの顔から下方にシフト。両の手首に手錠が一本。長い袖を捲し上げられ晒された手首にそれがあった。トゥッリオ用に急遽作り上げられた特注品であると聞いている。トゥッリオの能力を考慮して作り上げられた、彼専用の手錠らしい。あの日、マクシミリアヌスの執務室で事情聴取した際に使われていた手錠とは魔術封じの性能が格段に違うとのことだ。第一級魔力保持者はこういうところでも特別視される。

「……私は一応国賓ってことになっている。あまり自覚は無いけれど、お偉方にとっては私は大事な異世界からのお客らしい。そんな私の殺害を試みたその時点で、キミの末路はほぼ確定したようなものだ。……でも、さっきも言ったように私はキミを恨んでいない。どちらかというと、生きていて欲しい」
「何が言いたい」

 実際に口に出して言われて、少し微笑う。鉄格子を掴む手を、少しだけ下に、ずらした。水滴が滴る音色を聴覚がずっと拾っている。

「依頼人の名前を吐け」

 短く言った。

「そうすれば私にもキミを救える。交渉の足がかりを掴むことが出来る。逃がすことは出来ないだろうけど、生かすことはきっと出来る」

 トゥッリオが小さく、鼻で笑った。

「大量殺人者をか?」
「――大量殺人者を、だよ」

 ベッドに座るトゥッリオを見下ろし言い切った。
 今彼を殺す引き金になっている真佳の身分を、逆に利用することは可能だろうと真佳は思った。彼の命が真佳の役に立てばいい。異世界人の役に立つと言うのなら、教会だってむざむざ彼を殺すような真似はしないだろう。例えば彼の能力とか。鉄の具現化は、上手くすれば真佳が戦闘に身を投じたとき多大な恩恵をもたらすはずだ。だから。

「やなこった」

 ……奥歯を強く噛み締めた。

「仮にオレがあんたの言う通り依頼人を吐いたところで、助かる見込みは万に一つも無いよ。オレは殺し屋だからさあ。あんた、オレが何人殺したか知らないだろう。小さな村なら軽く滅んでるくらいの人数を、オレは一人で殺したんだ。そのオレを教会が助ける? 発想が気違いじみてるよ。ま、どっちにしてもオレは依頼人の名前を言わないけどね」
「……生きたくないの」掠れた声で小さく問う。
「生きたいさ。でもオレは殺し屋なんだ、お姉さん」

 ……息を吐いた。熱い吐息が右手に触れる。
 殺し屋は重罪人であり、依頼人の情報を何があっても他人に提供しないもの。分かっている。痛いくらいに分かっている。けれどそれでも、出来るのならば足掻きたかった。……足掻きたかった、のだ。

「……オレの生まれ、お姉さんは知ってるかい?」

 唐突に変わった話の内容に疑問符を浮かべた。目深に被った赤いフードの下、川の流れを思わせる白髪がさらりと腰まで伸びている。最初に見たときと同じ。髪に隠れて右目は見えない。

「オレはね、この国の北の生まれなんだ。町や村というより、集落に近い。地図にも載っていない小さなところだ」
「寒そうだね」

 北と言ったら日本生まれの真佳にとっては北海道とか青森とか。あちらの辺りは冬になるととても寒くなると聞く。

「寒いよ。冬はね。今頃だと漸く雪が溶けてきた頃かもしれない」

 雪、降るんだなあと何となく思った。春のペシェチエーロしか見ていない真佳にとって、別の土地の今頃に思いを馳せるのは少し難しい作業に思える。
 鉄格子に額を押し付けた。冷たい。廊下に広い間隔でぶら下がった豆電球が右へ左へ揺れる度、真佳の影も左右に揺れた。

「教会の介入を殆ど受けていない場所で、だからこの街とは文化ってものが大分違う。例えばお姉さんは……“マクシミリアヌス”なら知ってるか」

 その名前にぴくりと眉が反応した。

「人の名前。ペシェチエーロや他の多くの地域ではスカッリア国で大昔に使われていた言語を名前に使うけど、オレらのところでは新しい言語を名前に使う。トゥッリオって、他の名前と違うって思わなかった?」
「……横文字に弱いから。全く不思議に思わなかった」

 素直に告白したらトゥッリオにくつくつ笑われた。真佳の感覚ではアルファベットで構成された言語は全てエーゴだ。この国の人たちが、真佳の世界で言うイタリア語を話しているということもさくらに言われて初めて知ったくらいである。

「異世界人の感覚だとそういうもんなのかな。まあ兎も角、この名前はこの国の人たちからしたら、オレの生まれを如実に表しているものなんだ。土地を追われた哀れな貧民」
「土地を追われた……」

 復唱すると、トゥッリオはその口元にアルカイク・スマイルを浮かべて言葉を繋いだ。

「そうさ。教会にね」
「……」

 何となくそんな予感はしていた。何の根拠も無い第六感だけれど。
 黙したまま先を促すと、トゥッリオは小さな挙動で左の肩を竦めた。

「――七年前のことだったよ。あれが来たのは。戦争が終わって十年くらい経って、ようやくそこそこ落ち着いた頃合いだった。だからだろうね。そのとき権力も勢力もあったソウイル教が、宗教の統一に乗り出した」

 息を呑む。
 宗教の統一――“信教の自由”なんてものが当たり前に掲げられている国に生まれた真佳にとって、それはあまりに現実離れした行動だ。

「オレたちの集落とソウイル教、信仰する神は同じだったんだ。でも教義が違った。丁度、今の新教と旧教みたいな感じ――オレだって世間知らずじゃない。それくらいは知ってるよ」

 歳相応に少し口を尖らせてみたりして、彼は唇を湿らせた。

「多分それが初めての――オレの知る限り初めての――宗教統一化運動だったからか、教会の行動はひどく過激なものだった。オレらみたいな集落ならまだしも、村一個潰れたところもあるって聞いた。教義の違う宗教、別の神を崇めてる宗教、沢山の宗教が消えたって言う。中には異世界人を神として崇めてた宗教もあったらしい。今はどうなってるか知らないけど――、兎も角、それはひどい光景だったんだ。色んな人間が教会にしょっ引かれて行った。オレも含めて。
 オレはその時まだ六歳で、子どもだったから。何ヶ月か牢で過ごしただけで出してもらえたけど――大人たちは……今、どうなってるか……分かんないな」

 目を、ほんの僅か伏せて言う。髪と同じ真っ白な睫毛が重たそうにその橙色の双眸に被さった。
 押し殺した息を吐く。
 トゥッリオは敢えて明言しなかったけれど、それはつまり、……教会に殺された可能性も否めない、ということだ。

「オレは一人で放り出された。さっきも言った通り、名乗ればどこの生まれかなんてすぐにバレる。教会に捕まった異教徒の残り滓。そんな人間に積極的に関わろうとする奴なんていないし、オレも名前を偽って生きるのは嫌だった。それはあの集落を……家族を捨てることになるからさ。
 でも生きるためには働かなきゃならない。どうしたって金がいる」

 言われた言葉に目を上げた。豆電球がキィキィ揺れて、その度トゥッリオに落とされた影の形が変化する。ぴちょん、ぴちょんと水漏れは止む気配なく真佳の鼓膜を叩き続けた。
 一息。
 休むだけの間を置いて、

「だからオレは殺し屋になった」

 その男は言い切った。

「生きるために。生きるために人を殺した。そういう覚悟をオレはした。だから、いつかこうなることも知っていたし覚悟の上だ」

 鉄格子を掴んだ手に力を込めた。分かってる。殺し屋ってものは大抵そうだ。一筋縄ではいかない存在。でも、だからって、それでも、

「それでも生きるのを諦めるのはっ――」

 がしゃん、
 という音がした。水音を押しのけるような大きな音。音を辿って視線を落とす。手錠があった。トゥッリオの手首を捉えていたはずの手錠が一本。虚しく石床に転がっていた。
 ……どうやら破壊、されている。恐らく内側から。……何で?
 開放された白い手首――トゥッリオがその手元を見た瞬間、

「ッ!?」

 湧き上がった光の塊に思わず一瞬目を瞑った。
「っ――」腕を翳す。光を遮り薄目を開ける。それほど強い光では無い。ただ、豆電球に慣れた目にはそれはあまりに痛すぎた。――文字、だろうか? 薄く緑に発光する文字らしきものが光源のところにぼんやり見える。それとも地図か何かだろうか。文字とは言ったがそれは魔術式に使われるような記号みたいな文字だったので、真佳にはそれが何なのかはっきり区別することは難しい。

「……へえ。随分早いと思ったら」

 つぶやくと同時にトゥッリオ・パンツェッタは非常に無造作に立ち上がって、
 瞬間

「――っ」

 後方向かってぶっ飛ばされて背中を壁にしこたま打った。冷たい石壁がうなじをなぞる。どうやらそのままずり落ちるように座り込んだらしいと後から分かった。目に入る世界がひどく低い。一瞬詰まった息が喉のところで吐き出されて、ごほっ、という音がした。
 ――目線を上げる。視界の内に鉄格子が見えた。真佳がたてた砂埃のその奥で、地から天を貫いて――、否。
 今はもう、鉄格子は天を貫いてはいなかった。何本かの鉄格子が中途のところですっぱり切り落とされていて、そこに大きな穴が空いている。囚人を外に出すには十分すぎるほどの大穴が。
 息を吐く。考えるまでもない。トゥッリオだ。トゥッリオが例の鉄片で格子の壁を破ったのだ。――さっきの手錠。壊れて落ちたあの手錠が、トゥッリオに魔術を使わせることを可能にした。
「っ、」奥歯を噛む。腕が痛んだ。さっきからひりひりすると思ったら、魔術によって生成された鉄片の刃が幾つかそこに食い込んでいる。
 ぱりっ、という音がした。
 誰かが鉄の欠片を踏んだ音。
 目の前にトゥッリオの足が立っているのにすぐに気付いた。空から降ってきたのは軽薄極まる男の声――。

「じゃあねー、お姉さん。オレ、急がないといけないから」
「待っ――」

 起き上がろうと腕を立てたところで走った激痛に言葉を呑んだ。そうだった、鉄片が食い込んだままなんだった。痛覚排除。痛覚排除。脳みそに命令するみたいに心の中で呟いて腕の痛みをシカトする。目を上げた先ではトゥッリオが、既に出入り口である門扉を潜ったところだった。赤いコートを着た少年の背中が真佳の視界から掻き消える。

「――っ」

 石床を叩いた。
 拳で。思いっきり。じくっと一瞬傷口が痛んだ。痛覚排除。
 ――待って、じゃない。
 そんな言葉で待ってくれるわけがない。檻は壊れた。殺し屋は足早にどこかへ行った。

「……止めないと……」

 真佳自身が、止めないと。
 唇の端で呟きながら、真佳は漸進的に立ち上がる。ぴちょん、ぴちょんと、さっきから水の音がする。若しかしたらそれは、真佳の傷口から溢れる血の音かもしれないけれど――。
 屹立。
 一呼吸、置いてから
 足の裏面に力を込めて、秋風真佳は留置場を駆け出した。

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