「行ってらっしゃい」
「お気をつけて!」

 カタリナとトマス、二人の見送りを背に受けて、さくらのまだ踏み込んだことのない獣道へと分け入った。フゴは夕飯まで森の入口を見張っているため、ここにはいない。
 グイドを先頭にしてさくらが続き、最後にヤコブスが並ぶという順番だった。夜には野生動物が襲ってくる危険性があると言っていたから、恐らくその警戒のためだろうと思われる。ヤコブスは何も言わないが、この隊列を崩すつもりは無いようだ。すぐ脇には潅木や大きな樹木が陣取っているため一列にしかなれないとも言える。
 時刻は夕刻。赤味を帯びた太陽が西の空へと沈む頃合い。樹木の上方は真っ赤な光に照らされて紅葉の如く色を変えているが、さくららの足元は木陰になって暗いままだ。整備されていない道なだけに大樹の根が地上にまでつきだしているところもあるし、今朝方の雨の影響が抜けていないところも多い。油断したら足を取られる。
 視線を上げた。
 薄暗がりの道の先、樽腹とも称されるグイドの大きな背中が獣道を切り裂くように先陣を切る。時々方位磁石と進む道とを見比べながら、それでも迷う素振りは見せはしない。この国の方位磁石はさくらの知る世界のそれと違って腕時計と一体になっていた。魔力を送り込む魔術式によって使い分けが出来ているらしい。魔術というのは便利なものだなと改めて思う。歩きやすい方法を提示してくれるともっとありがたいのだけど、と、むき出しの土を踏みしめながらさくらは少し考えた。
 ――上衣の襟元を手繰り寄せる。段々と肌寒さが増してきた。

「んー、この調子だと、太陽が完全に沈み込むまでには着くと思うよ」

 グイドが言った。西側、ガプサのテント群にいたときよりも若干近付いたように思える西日が、木々の合間から覗いている。一筋の赤い光。それもすぐに木の葉に隠れて見えなくなった。
 恐らくそれから十分くらい。時計を持っていないので正確な時間は分からないが、三人無言でかなりの距離を歩いた末、「あったあった」とグイドが呑気な声を上げた。

「グイド」
「分かってるよー。首領とサクラちゃんはここで待機。おれが先に見に行ってくる」
「……?」

 怪訝に思いながらその場で待機の姿勢を取ると、グイドはそれを確認もせずにいつものゆったりした歩調でそのまま先に進んでしまった。後ろをちらと振り返る。グイドの名を呼び何かを促した張本人たるヤコブスは、特に顔色を変えるわけでもなくただただ適当っぽくそこに突っ立ったままだ。
 ……眉根を寄せて、こちらから問いかけようかと思った刹那。

「あれが見えるか」

 と、ヤコブスの方から口火を切った。
 両手は上衣のポケットに突っ込んだまま、顎だけしゃくって視線の先のそれを示そうとする。……諦念の息を吐いてから、黙ってそれに従った。
 日没間近の時間に加えてこの木陰、足元は出発したときよりも随分暗く見難くなって、ヤコブスが示した先に何があるのか認識するのに少しの時間を必要とした――目を凝らす――土の地面を覆うように、青白い何かが蔓延っているのが目に見えた。暗闇に目が慣れてくる――あれは――

「……キノコ?」

 ヤコブスが無言で頷いたのが気配で分かった。

「ヤングアマと呼ばれている。日の光が当たっている最中は絶えず毒を吐き散らかしているため、日中出会うには危険な植物だ」
「だから夕方」呟く。
「……ああ。本来なら夕方にでも出会わない方がいい手合いだが、この辺りには木陰がある」

 ……“日が出ているうちは無理”、とグイドが言ったその意味を、今漸く理解した。全てはこのキノコを警戒してのことだったのだ。遠目で見ただけでも、そのキノコを迂回して元の道へ戻るのは無理っぽい。そして今、ヤコブスがグイドを先に行かせたワケは。
 ……視線を後方に滑らせる。
 その理由はたった一つ。確かに今キノコが毒を発していないか、空気中に毒が蔓延していないかを確認するため。
 ――風がざわりと木の葉を揺らした。この辺りは絶えず風が流れている。太陽が中天を通過し西に傾き始めた辺りから、ずっとここに日が差していないのだとするならば、毒が薄まって流れ行くのには十分な時間が過ぎたことだろう。何だかんだで面倒見の良い首領のこと。安全である確率が高くなければヤコブスもグイドを先には行かせはしない。それは分かるのだが――
 ……それでもやっぱりなんとはなしに、歯痒い。

「だいじょーぶー。今はむがーい」

 遠くの方でグイドが呼んだ。
 夜目が利いた視界の中で、グイドの姿を見つけることは何の造作も無いことだった。青白く群生するキノコの中心、そこで両手を持ち上げて、頭の上で大きく左右に振っている。……キノコに対する恐怖心は些かも感じられなかった。

「行こう」

 肩を叩かれた。ぽん、と軽く。一度反射的に振り返ってから、ヤコブスの視線が揺らぐことなく進行方向に向けられているのを確認して、……ため息を吐いた。歩き出す。
“役割”
 という言葉が、すいと思考回路上に浮上した。真佳があの場所で留まっているのも“役割”だし、マクシミリアヌスが治安部隊隊員を用いて殺しの依頼人を捜索しているのも立派な“役割”。こうして自分がマクシミリアヌスらと同様の捜索をしていることも。……そしてグイドがああして先陣を切ったことも。残酷ではあるけれど、それがヤコブスが選択した“役割”なのだ。
 ――みん、とどこかで虫の鳴く音がする。水面に小さな波紋を残すかのような静かな声だ。広場にいたときのものとは、多分種類が違う。グイドに倣ってキノコが群生する中央に立ってみたものの、風の調子は穏やかだし空気にも特に異質なところは見当たらない。話を聞かぬままこの時間この場所に立たされていたら、きっとこれが日光を浴びて毒を吐くキノコだとは思わなかっただろう。
 ……で。そのキノコに一番近い場所で――

「……何してるの、グイド」

 グイドがふっと顔を上げた。夕日が沈みきったこの場所でグイドのスキンヘッドを照らすのは星の光くらいのものだろう。もう少し待てば空に月が輝くかもしれないけれど。今夜の月は一体いくつであるのか、さくらには皆目見当もつかない。
 ――キノコに一番近い場所で、一人しゃがみこんでいるのがグイドだった。さくらとヤコブスに無事を知らせた後、恐らくずっとそうしていたらしい。その手に持っているのは……。……キノコ?

「あ、持って帰るんだー、これ」
「持っ……て、帰るの」思わず上ずった声が出た。
「うん。煮ると美味しいんだよー、ヤングアマ。保存方法には気をつけないと、死んじゃうけどねー」
「……」

 ……一時呆然と立ちすくんで、

「……ああ……そういうこと……」

 米噛みを中指の腹で揉みしだいた。成る程。食材。ああ、なんだ。……そういうことか。
 息を吐く。そりゃあグイドがその“役割”に選ばれるはずだ。扱い慣れているのなら恐怖心も感じないし、万が一の場合はきっと対処法だって知っている。無事である確率が高いのはグイドの方。当たり前だ。何でこんなことを失念していたのだか。

「グイド。持ち去るのなら後にしろ。山小屋での調査が先だ」
「はーい」

 子どもみたいな返事をしながらも手にしたキノコはちゃっかりグイドの所持する麻布の中に消えた。
 視線を上げる。――キノコの群れを抜けた先に小屋があるのが目に見えた。なるほど、発見したものの放置したと彼らが言っていたのは当然で、色気のない屋根は半分がた崩れ落ち窓は割れ、ただの廃材と化した木片が周囲に散らばっているという、それは何とも朽ち果てた山小屋だった。元々の持ち主は誰なのか、その痕跡すらも残されていなさそうだ。キノコが群生するようになって、自然に捨てられていったのかもしれない。
 人一人分くらいは余裕で覆い隠せそうな高さの植物が、道中の道にびっしりと生えそろっている。小屋へ行くにはそこを分け入らねばならないだろう。

「行くぞ」

 小屋は最早目と鼻の先。道案内は不要とばかり、ヤコブスが先に植物の中に分け入った。
 入る間際にちらりとこちらを振り返って、

「……俺が先に入って道を作る。貴様らは後から来い」
「……ああ。成る程。それはありがたい」

 素直に頷いてヤコブスの後に並んだ。後ろをちらと振り返ると、麻布を肩に呑気に担いだグイドもまた、ゆったりした足取りでこちらに歩み寄っている。視界を覆うほどの植物の海、さくらほど慣れていないはずは無いと思うから、まあ急かさなくても大丈夫か――。
 吐息して前を向いたとき、

「……」

 ヤコブスが怪訝げに足元を睨んでいるのに気がついた。

「? 何、ヤコブス」

 彼の背中に声をかける。覗き込もうにもヤコブスの身体と植物が邪魔で、今ヤコブスが見ているものを視界に入れるのは難しそうだ。

「……。誰かが通った跡がある」
「……」

 目を細めた。こんな場所に人が通った跡――とは。唇をしめす。ならばここへは、極最近誰かがやって来たのだと考えてまず間違いは無いだろう。誰か、って……例えば。
 殺し屋とか。
 ヤコブスの背中に手を添えて、そっと押した。

「行きましょう」

 ヤコブスが振り返る。……こくりと、小さく頷いた。月明かりに照らされて首領のゴーグルが一つ瞬く。
 ……歩きながら頭上を仰いだ。天高く聳える月が三つ。森を覆い隠す樹木の屋根は、どうやらこの頭上にまでは枝葉を伸ばすことは無かったらしい。障害物と言えば両側から伸びる長身の草くらいのもの。星の煌めきのその中央で、三日月二つと満月一つ。厳かに煌めいている様が、さくらの目にははっきり見えた。
 月明かりは十分。これならライトなど無くてもそれなりに辺りを見渡すことくらいは出来るだろう。この世界に来てからと言うもの、元の世界よりも多い月の明かりに随分と世話になった気がする。
 がさりと最後に音を鳴らして、さくらはヤコブスに次いで草の海から離脱した。左右に感じた圧迫感と、草が身体を撫ぜるかさかさした感触が後ろの方へ遠ざかる。
 視線を戻した。
 ……その先で。

「ヤコブス」

 ――月明かりの下、奇妙な痕跡が視界に入って思わずさくらは声をあげた。
 ヤコブスがこちらを振り返る――金の瞳と視線が交錯。そのつま先は、今や二メートルも離れていない山小屋の方を向いている。

「背中、汚れがあったけど」
「……?」

 一瞬怪訝そうな顔をして、「……ああ」けれどすぐに合点がいったようにヤコブスは小さくそう言った。ガプサの上衣――その背中に、赤い筋みたいな汚れが一本走っていた。草の中に分け入るまでは確かに存在しなかった痕跡だ。よく見ると、どうやら背中だけでなく服の袖やズボンにまで同じ線が走っている。

「ルベル・ヘルバだ」
「ルベル、ヘルバ……?」
「擦ると細かい粉末が出る。その」と背後の草を顎で示して、「草の名前だ。大昔は筆記具として使われていたとどこかで読んだ」
「植物……」

 呟く。両手を見下ろしてみると、成る程、ヤコブスの上衣についているのと同じ汚れが袖や手の甲についていた。赤のチョークに似ているかもしれない。軽くはたくと薄まるものの汚れの範囲は広がった。

「……」

 無視した方がよさそうだ。
 草の方へ視線を戻す。グイドはきちんと草の海から抜けていた。ガプサの上衣をぱたぱたと叩いてはいるけれど……付いて来ているのなら問題はない。
 ――ヤコブスが対峙している方を見た。小ぢんまりした山小屋だ。風呂場なんかを除けば多分一部屋が限度だろう。壁として使われた木材があちらこちらで腐っている。床が本来の地面より高く設計されているのだろうか、目の前に階段があった。階段と言っても五段くらいのものだけれど。
 視線を上方に持ち上げる。
 階段の先にドアがあった。ドアノブが壊れているようで、そよ風に煽られた片扉がきぃきぃ軋んだ音を立てて揺れていた。誰であれ、侵入は至極容易であっただろう。

「……」

 ヤコブスが先に階段の段差に足をかけた。さくらとグイドがそれに続く。扉を押して中へ。損壊した屋根の向こうから、三つの月光が床の一部を照らしていた。唾を飲み込み喉を鳴らす。中は――
 中は、沈滞していた。
 何十年も前からずっと置き忘れられてきたかのような場所だった。肌に触れる空気が冷たく人がいた形跡が感じられない。月光に照らされた埃がゆるゆると宙を舞いながら、緩慢な時を刻んでいる。
 ヤコブスの隣に肩を並べた。砂を踏む感触。じゃりっという音が大きく響く。ぐるりを見回して息を吐いた――。

「埃が無い」

 床を見て一言。屋根がぶっ壊れた真下は今朝の雨によって埃の類が見られないのは当たり前のことだが、屋根のある入り口付近は違う。そこには何者かに踏み荒らされたかのようにそこだけ埃が見当たらない。どころか泥に塗れた足跡すらある。これは――。……。
 この家の持ち主が持ちだしたのか、或いはどこぞの賊が持ちだしたのかは知らないが、目ぼしい家具は一つも無かった。何かの木箱が数個と足が一本無くなった長卓、引き出しの底が抜けているらしい仕事机、部屋の中央に置かれた破れた絨毯が一枚――それくらいか。厚い埃を被っているものもあれば、入り口付近の床のように何者かに触れられたような跡を残すものもある。安易に部屋の中央に踏み込まないで正解だった。
 ヤコブスの喉が鳴るのを感じた。

「あー、じゃあ当たりだねー」

 こう言ったのはヤコブスではない。グイドの方。ひとしきりさくらが周囲に注意を払っている間、片手で目の上に庇を作ってこちらもそれを観察していたらしかった。

「さあな。誰かがいたのは確かだが――」

 と、ヤコブスはそこで漸く戸口から靴裏を離して部屋の中央へ歩み寄った。破れた絨毯から埃が上がる。傾いた長卓に指を這わして、

「――殺し屋が住んでいた証拠にはならんな」

 指の腹に付着した埃を面白くもなさそうに見つめて言った。そう、確率はひどく高いものの、確証にはまだ遠い。けれどもまあ、調査している内にそれが何らかの確証に変わる自信は確かにあった。ロカールの交換原理は犯罪学の初歩である。
 息を吐く。何か痕跡を残しているとしたらどこだろうか。床を見下ろす。靴の跡は別の同じ足跡で踏み潰されていて参考にはなりそうもない。ならば机かその周辺――。

「ヒメカゼ」

 ヤコブスが短くさくらを呼んだ。
 既に長卓の前に彼はおらず、それより少し奥、仕事机の表面を何やら熱心に熟視している。
 来いとも何とも言われていないが、少し黙するだけの間を置いてからさくらはそちらに駆け寄った。天板の表面をすっとなぞる長い指が見える。長卓のときのようにどうやらそこに埃は付着しなかった。

「見ろ」

 ヤコブスが指差すその部分を、さくらは目を凝らして注視した。濃いブラウンをした天板から首領の言う情報を導き出すのは少し困難だったが、身体をずらして月光の恩恵を与えることでそれも比較的容易になった。
 ヤコブスの指した場所、そこに――

「……鉛筆の跡……」

 見慣れた顔料の跡がそこにあった。何かを書き記していたのだろうか、断片的ながら文字らしきものの痕跡は認められる。この世界でのことを考えると、多分イタリア語かラテン語かのどちらかだろう。

「うーん、何か書いてあったのは分かるんだけど、端っこすぎて何が書いてあるかまでは推測出来ないねー」

 いつの間にか後ろから天板を覗き込んでいたグイドが言った。ヤコブスが小さく首肯する。

「ああ。だがこれは恐らく、紙か何かに書いていたのが机に写った結果だろう。ここで書き物をしていたのは間違いない」

 中指の第二関節で机の表面を叩きながら言い切った。ヤコブスの推論に異議は無い。さくらもまた、彼と同じことを考えていたからだ。とするならば、次の問題はその紙がどこに行ったかということ。これを書いたのが殺し屋のトゥッリオであると仮定するなら、彼が常に持ち歩いていたという可能性は除外してもいいだろう。何か持っていたのを真佳が見ていたならば、さくらにそう告げないわけがない。
 ここが真実殺し屋の寝床であるならば――
 周囲をぐるりと見回した。崩壊した家具に崩れた屋根、朽ちた木片が頭上に開いた大穴の真下で化石みたいに横たわっている。その奥側に小ぢんまりした暖炉があった。壁に煙道を埋め込んで作られた壁つき暖炉で、特に損壊の色は無い。
 暖炉の方へ足を向けた。ぎしりと床が軋む音。狭い小屋だ。たどり着くのに数秒ほどの時間もいらない。
 暖炉の前で膝をついた。何かが最近燃えたような跡がある。粉っぽい灰と燃えカスが、風に拐われることなく暖炉の中で堆積している。指の端で掻き分けた。殆どは燃え尽きてさくらに何らかの情報を与えることは無かったが――

「……ヤコブス。グイド」

 振り返って彼らを呼んだ。呼んだ、と言っても彼らがついさっきまでいた場所でのほほんと立ち話をしていたわけではない。いつからそこにいたのか正確なところは把握していないが、きちんとさくらの傍にいた。これは確認の呼びかけだ。

「……切れ端……ああ」

 ヤコブスが言う。視軸は暖炉の中にあった。さくらが掻き分けた灰と燃えカスのその中心。手がかりは間違いなくあったのだ。三分の一ほどが焼け尽きた紙片がそれだった。普段目にするものよりも上等な羊皮紙の欠片。一部ではあるがそこにも文字が書かれていた。さくらにはどうしても解読出来なかったけれど。

「契約書……だな」
「契約書……?」

 どきりとした。

「ああ……。何の契約かという部分は焼け落ちていて読み取れないが、間違いなく双方の間に契約を締結した旨が書かれている。作成者の名前は、」

 ばくん、と心臓がまた呻った。
 息が苦しい。浅く呼吸を繰り返す。もしかして――まさか。もしかして。

「……トゥッリオ・パンツェッタ……。――当たりだ」
「――」

 吸気と共に、
 口の端が持ち上がった。
 繋がった。殺し屋とこの小屋とが繋がった。トゥッリオは確かにここにいた。唇をしめす。よし。宜しい、推測通りだ。ここまでは。

「――ヤコブス。依頼人の名前は書いてある?」
「残念ながら書いていない。というか、その部分はどうやら千切られて燃やされたな。引きちぎった跡がある」

 舌打ちを口の中でかみ殺した。流石に依頼人も馬鹿では無いか……。だとすると次取るべき行動は、

「でもこれ」

 ……とぼけた声でグイドが言った。

「教会のだよね? このメモ帳」

 指さした先にはくだんの紙片。暖炉の中で燃えカスとなった、トゥッリオを依頼人とを結ぶ契約書。
 ……固くなった唾を、呑んだ。

「……教会の?」

 声が掠れた。「そう」グイドが短く肯定する。

「だってほら、端っこの方に紋章があるでしょ? 教会の。下半分千切れてるけど、間違いないよー。おれ一回見たことある。教会のとこで使われてるメモ帳だ」

 ……浅く呼吸を繰り返した。視軸を紙片に固定する。そいつは黙ってさくらを見つめ返していた。風に吹かれるでもなくただただ黙して、暖炉の中央に座していた。……息を吐く。
 固めた拳の甲でもって、ヤコブスに肩を叩かれた。

「グイドの記憶力は信頼していい。そいつは俺が保証しよう」
「……分かってる。ここに連れて来てもらった時点で、それは既に知ってるわ」

 言い終えると同時に腰を上げた。さくらの後ろで同じようにしゃがみ込んでいたヤコブスの金の双眸が、怪訝げに細められるのを見下ろして――さくらは薄っすらと微笑する。

「グイド。このメモ帳は教会で使われていて、教会で手に入れられるもの。間違いないわね?」
「無いよー」

 上唇を舐めた。
 トマスらでも知っているくらい有名な殺し屋が教会のメモ帳を持っているとは考えにくい。ならばこのメモ帳は、依頼人が持ってきたものであると考えてまず間違いないだろう。わざわざ名前のところを裂いて焼却しようとしたところを見るにこれが罠であるとは考えにくい。これがさくららに発見されたことは、犯人にとって予想外の出来事だった。
 教会で手に入れられる代物を持ち歩いている依頼人――。
 ならばそれは当然のこと、

「ヒメカゼ」

 ヤコブスが膝を折った体勢のまま、さくらを呼んだ。

「……どうする気だ?」

 低い声音で。
 質疑を一つ。

「……決まっているでしょう」

 髪を耳に引っ掛けた。背後から照る月の光が、“証拠品”を青く白く照らしだす。
 ――さくらは微笑う。一人静かに。
 ヤコブスの目を見つめ返して、そうして言った。

「――教会に、報告に向かいます」


月は照らす、どこまでも

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