ぽつぽつと、膜を張るようにテントの表面を叩いていた雨粒が聞こえなくなっていることに気付いた。外から雨のにおいがする。濡れた土のにおい。ということは、降り止んだのはついさっきか――。昨日の夜、教会本部から帰る際に降りだした雨は夜が明けたと同時にどこかへと去ってしまったらしい。
 そっと寝袋から身を起こす。隣でカタリナが寝返りをうった。――起こさないように尚そっと。
 ぶるり、と一つ身体が震えた。……底冷えする天気だと思った。朝の森という時点で十分すぎるほど寒いのだから当然か。雨上がりとなれば気温も下がる。
 ヤコブスから手渡された上衣をひっつかんでから袖を通し、それからテントから這い出した。
 雨粒のたわわに実った木々がさくらの存在を出迎えた。



パンとチキンとグイドの記憶



「つまり」

 焼き鳥の欠片を口中でもごもごさせながらフゴが言った。不明瞭で聞き取りにくい声。さくらもサンドイッチをぱくりと一口、口に運んで咀嚼する。ツォパリという果物を挟んだパンだ。適当な大きさに切ってから焼いたもので、中々に甘い味がする。外皮は分厚く緑色をしていたが、果肉はたおやかなピンク色。食感を述べるならば桃と洋梨の間の子辺りとでも言うべきかもしれない。ごくりと嚥下。
 フゴの方も口内のものをきちんと飲み込む間を置いてから、口を開いた。

「その、姫さんのご友人に殺し屋を差し向けた人間を、俺たちで突き止めればいいんですよね」
「そう。協力をお願い出来るなら、だけれど」
「お安いご用です。俺に異議はありません。けど、一体どこから始めましょうか。何の手がかりも無しにとなると、些か――」
「情報屋の奴らを駆り出しやしょう、姫さん。ペシェチエーロにいる奴ら全員を当たれば、手がかりの一つや二つ見つかりまさぁ」
「まあ……それに頼るしか無いのは分かるが、それでももう少し絞った方がよくはないか。情報屋に情報を提供してもらうときにだって、漠然としたものよりも基準となる何かがあった方が理解してもらいやすい」

 ……そして理解してもらいやすいということは、情報屋の見落とし無しに手早く欲しい情報を手に入れられるということでもある……。
 トマスの発案に待ったをかけたフゴの言葉に、さくらも小さく頷いた。問題はどこに焦点を絞るかということだ。見当違いの場所に絞ろうものなら、途端に相当の時間を食われてしまうことだろう。ここは確かな道を選びたい。ツォパリのサンドイッチをひとかけ齧ってさくらは沈思黙考した。
 全員で食卓を囲んでの朝食である(正確には卓というものはなく、何の変哲もない広場に椅子がコ型に並んでいるだけなのだけど)。初日にカタリナが告げた通り、誰かがヤコブスから何らかの仕事を任せられていない限り食事時には決まって六人がここに揃う。昼食と夕食は全員の食事を任される当番がガプサ内をローテンションで回っているが、朝食を用意するのは個々人だ。さくらはフルーツサンドでフゴは焼き鳥にパン二つ、カタリナは何処かで入手したらしいペーストをパンに塗ってはもごもご咀嚼しているしヤコブスは生野菜と干し肉を……といった具合に、見事に統一性の欠片も無い。統一性なんてものはそもそも必要無いのかもしれないけれど。最初はさくらもどうするべきか困ってしまったものだ。
 今食している最後のひとかけをきっちり喉に流し込んでしまってから、目を細めつつ口を開いた。

「……殺し屋が住んでいた居場所は分かっているの?」

 大きな鼻にクリームソースをくっつけたままトマスがちらとこっちを向いた。考えこむようにくちゃくちゃと顎を動かしながら、

「あー、そりゃあどうやら教会の奴らにも分かっていないようでして。ペシェチエーロのホテルを全部当たったそうですが、何も得られなかったらしいとか何とか」

 一旦膝上に追いやった大ボウルを再び持ち上げ傾けて、スプーンでがつがつ掻っ込み始めた。小松菜やレタス、ニンジンに似た野菜を適当に刻んでお手製のレモンクリームソースで和えたものだ。多分この男の創作料理であろう。意外にトマスは健康的な食事を好む。

「前にも言いやしたが、」

 ボウルを口元から下ろして“大鼻”は言った。鼻についたクリームが一つ増えていた。

「トゥッリオの野郎はそこらをふらふらしてる殺し屋です。根無し草ってやつでさぁ。居住地なんてそれこそ可能性が多すぎて、そう簡単に絞り込めるもんでも無いでしょう」
「さあ。それはどうかしら」

 言ってやると、トマスは怪訝そうに小さな双眸を瞬いた。「どういうことだ?」ヤコブスが脇から口を挟む。

「……アンタたちが特徴を知っているくらいだもの。トゥッリオってのはよっぽど有名な殺し屋なんでしょう。そんな人間がホテルなんて人目につくところを使うわけがない。依頼人は殺し屋との関わりを極力隠しておきたいでしょうから、依頼人が面倒を見るのはあまりにリスクが高すぎる。だとしたら、後はペシェチエーロの空き家を使うか野宿を選ぶか――」
「空き家は無いでしょう。あそこの空き家は全て教会が管理しています。謝肉祭のこの時期は不法侵入者が多いので、空き家の数が少ないことも手伝って、いつもより警戒されているのではないかと」
「――じゃ、十中八九野宿であると仮定して」

 フゴの指摘に頷きながらさくらは発言を改めた。もう一つのサンドイッチ――こちらは缶詰のオレンジを挟んだものを手に取って、一口咀嚼。形の崩れた上衣の襟を正しながら飲み下す。

「問題はどこで野宿をしたか。真佳がこの世界にやってきたのは謝肉祭が始まる前日で、襲われたのはその五日後、謝肉祭まっただ中。この間、ペシェチエーロの外で身を潜めていたのなら自然と場所が限られることになるわ。何せあそこの周りは殆ど隠れる場所の無い平原で、人が四方から押し寄せるこの時期に誰にも見つかることなく野営するのは難しいでしょうから」
「この森か」

 ヤコブスが一足先にさくらの言わんとする結論に齧りつき、さくらはそれにYESと言った。
 そう、この森を除いて、ペシェチエーロから近い場所に殺し屋たるトゥッリオが身を隠せる場所などありはしない。さくらやガプサの連中すら知らない秘密めいた場所があるのなら話は別だけれど――そんな場所に当てが無い今、この森に捜索範囲を絞るのが妥当なところだ。

「……けど、この森一帯は毎日オレらの誰かが見張ってます。トゥッリオの野郎が入ってきたなら誰かが気付かないはずは――」
「俺たちが外を張ってるのはペシェチエーロに最も近い一辺だけだ。それ以外の箇所から入ってこられたのなら気付かないのも無理は無いし、夜まで森の外を見張っているわけではない」

「そりゃ、そうですが……」ヤコブスの指摘にトマスはもごもご口ごもった。見張りを任されているにも関わらず、殺し屋なんぞの侵入を認めることになった結果を快く受け入れることは出来なさそうな顔色だ。
 けれども。
 ……と、さくらは思う。彼らはガプサの人間を護るため、ガプサの宿営を中心に見張りに立っているのであって、森へ誰かが侵入するのを阻むためにそこにいるのでは決して無い。恐らくヤコブスも同じことを思っているだろう。当たり前のことだ。故に彼が誰かを面責する様子は微塵も無い。
 サンドイッチを噛んで嚥下するだけの間、そこに訪れた暫しの沈黙に大人しく身を任せておいてから、さくらは再び唇を割った。

「この森に、捨て置かれた山小屋みたいなものって無い?」
「あるよー」

 ……思ったより早い反応に目を瞠った。ヤコブスらの方に送っていた視線を右方向へ滑らせる。
 パンに卵料理に肉野菜、さくらの見たことの無い形状の食べ物やデザートなどなど、それら全てを見事に食い散らしたその中心にグイドがいた。“樽腹”グイド。スキンヘッドの男である。机の無いこの広場、それだけの量を食そうと思ったらセロハンに包まれたままか皿に盛られたままか、何にせよそのままの状態で地面に置いておく必要性も出てくるわけなのだが、前日、前々日等と同様グイドが気にした素振りはない。
 グイドがぼろぼろこぼしたパンの屑に、蟻みたいな生物が集っていたことに思わずちょっとだけ身を引いた。……虫は苦手だ。

「ここから北西に行ったところに、山小屋が一軒。昔見つけたんだ。誰も住んではいないんだけど、屋根のところの損傷が激しくて修理しても住めそうになかったから、諦めたんだよね」

 ねぇヤコブス、と同意を求める声をかけながら、グイドはさっきからぺりぺりと破っていたセロハンから覗く菓子パンにむしゃぶりついた。パンとパンの間から大量の生クリームがドーム状に膨らみだす。
 ヤコブスの方向に視線をシフト。彼は少し考えるように眉間にシワを刻んだ後、絞りだすような声で――頷いた。

「ああ……そういえば、何年前だったか……そんなような山小屋を見つけたことがあったか」
「うん。長いこと住むには向かないところだけどさ、少しの間だけならそこらで野宿するよりはいいんじゃないかなー。追っ手から身を隠すにはぴったりな場所だしね」

 というグイドの言葉は、殆どが菓子パンに阻まれて不明瞭な声だった。飛び出した生クリームが短く切られた爪に付着したりぼとりとズボンの上に落ちてきたりと忙しそうで、話の内容は頭半分といったところか。しかし有益な情報であることは間違いない。すかさず別所へ視軸を移動。
 ガプサの首領と目が合った。

「……分かっている。出来うる限り早急に調査に向かう。だが今すぐには無理だ。俺の記憶が正しければ――」
「うん。日が出ているうちは無理だろうねー。夕方頃が丁度いいんじゃないかな」

 パンを詰め込み指についた生クリームを舐めとりながらグイドは言った。ヤコブスの台詞を遮ったことに対してトマスが一瞬渋い顔をしたが、実際に何かを口にするつもりは無いようで大人しくスプーンですくい上げたサラダを咀嚼している。
 ……眉根を寄せた。
 今すぐには無理、というのは、一体どういう意味だろう。

「で、ヤコブス。面子はどうするんだい? まさかあんたとサクラだけで行くわけじゃ無いだろう?」

「ああ……」と、彼は小難しげな顔をした。
 少し固めに焼かれたパンに薄桃色のペーストを塗りたくり、発話したのはカタリナである。化粧っけの無い唇に舌を這わせてぱくりと一口かぶり付く。ウェーブのかかった焦げ茶色の髪が一本、ぺったりと唇に張り付いていたが気付いていないのか気にしていないだけなのか、意識を払った様子は無い。

「……俺も場所の記憶は曖昧だ。念のため、グイドを連れて三人で行く。それでいいな」
「はーい」

 気の抜けた声でグイドが首肯。と思ったら巨大なスイートポテトに両手でもって齧り付いた。香ばしい匂いが鼻孔を柔く擦ったが、グイドの食べっぷりを見ているだけで既にお腹は一杯になっていたりする。微苦笑。
 して
 ……顎を引いた。異議を唱える理由は無い。山小屋か何かがあるのなら、そこが一番怪しいだろうと踏んだが故にさくらはあの時話を振った。
 ヤコブスが微かに頷きを返す。返して、それから干し肉の一部を奥歯でもってむしり取るのが視界に入った。
 ――一度目を伏せ、
 視軸を跳ねる。
 太陽は先刻昇ったばかり。夕刻までには、まだ遠い。

 TOP 

inserted by FC2 system