「――その話、俺も混ざらせていただこう」 ひくし。無理矢理に釣り上げた口角の先で表情筋がひどく痛んだ。何で気付かなかったんだ。人の気配になら敏感である自信があったのに、何で―― そこまで考えて違うと気付いた。 唇をしめす。前にも使われた手だ。マクシミリアヌスにではなくトゥッリオに。 立ち上がった。ゆっくりと。 「……いつから聞いてた?」 「無論始めから。君が無謀なことをいたくあっさりやってのける人間だということは理解していたからな。抜け出すだろうことはある程度予測していたよ。おかげで俺はいち早くここに辿りつくことが出来たというわけだ」 すっ、とさくらの双眸が細まったのを勘で理解。……して、真佳は慌てた。さくらさん。さくらさんその目は一体。これではまさに一触即発ではないですか。まさかこの人、マクシミリアヌスに喧嘩ふっかけるつもりじゃあ……。 ちらちらとさくらの方を見ていたことが裏目に出た。 マクシミリアヌスが姫風さくらに目をやった。 「お。おお、ご挨拶が遅れてしまって申し訳ない。マクシミリアヌス・カッラと申す者だ。ここの教会本部で、治安部隊員中佐を勤めておる。いやはや、あの異世界人がよもやこの世に二人とは! この時代に生まれ生き残った幸運に感謝しよう! 今ガプサの奴らに世話になっていると言っておったな。よかろう、後できちんと教皇にこのことを報告し、君の部屋を真佳の横に――」 「あの人たちのもとを離れる気はありません」 「……は?」 豪快な笑みの形に開いた口から素っ頓狂な声が転がり落ちた。マクシミリアヌスの頬が微妙に引きつって固まっている。……真佳は一人、ゆるりゆるりと視線を逸らした。義理人情に厚い彼女にガプサを捨てろみたいな言い方したら、そりゃあ機嫌を悪くされるに決まっている。マクシミリアヌスはそれを知らないのだから仕方がないけれど……。 さっきから表情筋が引きつりまくりだ。もしかしたらこのまま元に戻らないかもしれない。 さくらが細く、息を吐いた。 「……マクシミリアヌス・カッラさん。一つお願いしてもいいかしら」 「お願い……?」 「そう。約束して欲しいの。あの人たちには絶対に迷惑をかけないと」 視線を戻した。思ったより声の調子が柔らかいことに驚いた。絶対怒ってると思ったのに。 「貴方はどうか知らないけれど、私が異世界人だってことが知れたとき、それを匿っていた彼らが悪く言われることは恐らく避けられないでしょう。何せここでは彼らは異教徒なのだから。だから私が彼らに世話になっていたことは公には伏せておきたいし、出来れば暫くの間私が異世界人であることは誰にだって知られたくない」 「し、しかし教皇に内証にしておくわけには、」 「お願いします」 力強い陳情だった。 さくらの横顔に視線を投じる。宵闇と月明かりの淡い光を受けた彼女は、太陽の下見かけるのとはまた違った意味で端麗だ。その彼女の眼光が目前を鋭く薙いでいた――刀身にも似た鋭い目。マクシミリアヌスの緑眼がそれを受けて僅かに怯む。 もしも彼がそれを受け入れられないのならば、彼女は多分ここを去る。二度と教会へ足を踏み入れたりはしないだろう。そして、さくらが去るなら当然のこと――。 目を転じる。目が合った。真佳の向けた視軸の先でマクシミリアヌスは一度じりっとその目を逸らして、 ……大息と共に、ばりばりと頭をかきむしった。とてもとても苦しげに。 「っあー、分かった分かった! このことは俺と君たち――それに――なんだ――……っ、ガプサの輩との密事とする!」 さくらの表情と雰囲気とがそれで一気に軟化した。 「ありがとう、マクシミリアヌス」 「例には及ばんよ……。ただ、俺にも限界というものがある。いつまでも隠し通すことは出来んだろうということを肝に銘じておくといい」 「十分よ。ありがとう」 もう一度改めて礼の言葉を口にして、それで彼女は微笑うのだ。やっぱり無表情でいるよりも怒った顔をしているよりも、そっちの方が彼女には映えるし似合うと思う。……世界を渡ってまでの邂逅を果たしておきながら、そういえば一度も彼女の純粋な笑顔を向けられていない。なんてことだ。いやまあ、元の世界にいたときにいつもそういう笑顔を見せてくれていたかと言うと、答えは否、なのだけど。悲しいながら。 ぱちん、 と予備動作なく真佳は両手を強く合わせた。さくらとマクシミリアヌス、双方の視線が真佳の方向へ流れ込む。 「さ。じゃあ見事和解したとゆーことで、今日はこれでお開きに致しましょーか! 寝よう! よし、寝よう!」 「待てコラ」「待てぃ!」 ……さくらとマクシミリアヌス、同時にかけられた制止の言葉にびくっとした。案外息合ってるじゃないですか……。恐ろしい。 「……で? それからアンタどうするつもり?」 「……それから、とは?」 「私たちを追い返してからどうするつもりだって聞・い・て・ん・の・よ」 ずいっと一歩踏み込まれたことでうっかり正面を勝ち取られた。視軸の位置を強制逃亡。しかれどもどう頑張っても怒っているのがオーラで分かる。半眼で、口角はつり上がっていながら目はぴくりとも笑わずにただ米噛みを引きつらせて。ああくそうやっぱりあれは流石に白々しすぎたか……! 数秒前の自分の軽率さを大いに恨んだ。 「大方、何日か置いた後にまた抜けだそうと考えていたのだろう。全く仕様のない無謀者だな」 「…………何日かなんて開けませんしー……」 「なんと! では今からか!」 「あしたーあ」 ホールドアップ。投げやり気味に吐き出したそれと捻り出されたさくらの大息とが見事綺麗にシンクロナイズ。マクシミリアヌスの推理を拝聴するまでもない。……さくらの追求からは逃れられやしないのだから。どーせ。 「アンタってやつは、本当に全くどこに行っても変わらないのね」 「安心した?」 「馬鹿」 肩を竦める。腕を組んで建物の外壁に頭をもたせかけたさくらの顔を真正面から目視した。綺麗な顔に一本だけシワが寄っている。眉間のところ。 耳の後ろをかきながら視線を外した。言うほど無謀者では無いと思うんだけどなあ……。だって秋風家の人間は楽観視はしないのだ。勝てると思わなければ単独で戦場になど突っ込んだりしないし、危なそうなら逃げる算段だって用意している。皆が言うほど無鉄砲ではない。……と、思う。 「兎に角、君は大人しくしておることだ。殺し屋に依頼するような危ない人間の眼前に君をさらけ出すなど言語道断! 一人で踊り出るなどもっての外!」 「一人じゃなくてさくらと二人……」 「尚悪い!!」 マクシミリアヌスに一蹴された。目の前でさくらが冷めた半眼で睨んでいるのにちょっと怯む。「えー……」さくらとなら一人で行くより幾分か安全に事を運べると思ったが故の提案だったのに……。 この方法が絶たれるなら、やっぱり一人で行くしか無い。他に協力者は募れないのだ――マクシミリアヌスは真っ向から反対しているしマリピエロを口説き落とす自信は皆無。よもや今回の件で組まれた対異世界人暗殺計画者部隊に入れてもらうわけにもいかぬだろう。守れと命令された女子高生が前線に出るなど、彼らにしてみれば迷惑以外の何物でも無いはずだ。だからこうして一人で抜けだそうとしたというのに、 「いいから、アンタは大人しくここで護られておきなさい。尤も、アンタがどれだけ頑張っても逃がしてもらえないとは思うけどね。十分警戒されたはずだから」 「むぐ……」 言葉に詰まった。冷ややかに見下すさくらの瞳がひどく憎い。 「まあ安心しなさいよ」と言って、彼女は少し笑った。瑞々しい唇を微笑の形につり上げて―― 「その間に、私がそいつの正体を突き止めといてあげるから」 ……一拍の間を置いて、 「何ぃい!?」 マクシミリアヌスが叫喚した。 「待て待て待て、何を言っておるんだ君は!」 「だから。“真佳の殺害を依頼した人間を突き止める”」 「そういうことを言っておるのではない!!」 内面の焦燥を音にして変換するかのようにマクシミリアヌスは大声をあげて、それから顔面を大いに歪めた。がっしがっしと後頭部を掻き散らす大男に比例して、飽くまで飄々とした体でマクシミリアヌスの緑目を受け止めているのがさくらだった。反対されるのは無論予想の範囲内。全ての覚悟を負った故の発言であることは彼女の横顔を見ているだけですぐ分かる。そしてこの展開で唯一諦めのため息を吐かざるを得なかったのが……真佳、だった。 「……知りませんよ。死にますよ」 「誰がぶちのめすって言った? 正体を突き止めるって言ったのよ。突き止めた後は教会が何とでもするがいい。だから私は死んだりしない」 「だというのなら最初から我々教会に全てを委ね、大人しくガプサの連中の元居座っておっても何ら変わりはなかろうに!」 「自ら動いた方が私の気は休まります。それに、ブレーンは多い方がいいでしょう。教会の人間では気付かなかったことを、私たちなら気付けるかもしれない。これは事態を早々に収拾させるための手段です」 「しかし……っ!」 「マクシミリアヌスー」 その場にすとんと腰を下ろして大男に待ったをかけた。マクシミリアヌスのじりじりした視線がこっちを向く。……さくらは軽く肩を竦めただけだった。地面に耳が近付いたからか、虫の鳴き声が一層強くなった気がする。 マクシミリアヌスはさくらのことも心配してくれるんだなあ……と考えると、それはちょっと喜ばしい。異世界人だから、若しくは(何れは)国賓だから、という理由からかもしれないけれど――それでも親友を気遣われるというのは、ありがたいものだ。 息を吐いた。 「さくらに何言っても無駄だよぅ。諦めよう。危ないことはせず突き止めるだけで退いてくれるというのなら、それはそれでいーじゃないか」 「し、しかしだなあ!」 「マクシミリアヌス」 今度制止をかけたのは真佳ではない。さくらだ。さくらのソプラノトーンの声音が夜の静寂に混じって消える。西北から吹いた冷風が一瞬強く辺りをかき乱し、それからまた大人しくなった。長い黒髪を後ろへ流す。 月光によって明暗の霞む境界線の只中で、さくらは僅か目を細めた。 「……どうやら忘れているようだけれど、マクシミリアヌス、私は真佳とは違うのよ。教会に世話になってもいないし、貴方たちの正式な客というわけでもない。貴方の決定に従う道理は私には無い。だから、どれだけ貴方が反対しようがどうしようが私は犯人を突き止めるし、それを貴方――教会が助力してくれないのなら真佳本人――に報告するでしょう。それは絶対に変わらない」 「……っ、」 奥歯の摩擦音が聞こえてきそうなほどに強く、マクシミリアヌスは歯噛みしたようだった。頬の下の辺りが硬い。 さくらが肩を竦めたのが真佳の側からも確認出来た。月光の下、困ったように薄く微笑う。 「――心配してくれるのは、ありがたいけれどね」 それが決定打だった。マクシミリアヌスが大きな吐息を吐き出した。溜め込まれてきた色々な疲れを一緒くたに吐き出したようなそんな吐息。 ……多分、この数分で物凄い心労が溜まったのではないかと思う。歯噛みした奥歯と力を入れすぎたであろう目頭の辺りが痛そうだ。いや、原因は全て真佳とさくらにあるのだけれど。傍らに生えた雑草を弄りながらむしゃむしゃ思う。 「あー……。分かった、分かった」 言いながら、マクシミリアヌスはその太い左腕を左右に振った。 「諦めよう。俺の負けだ。君の行動に制限はつけられん。君が異世界人であると知れるまでは、君は飽くまでスカッリア国の一民間人に過ぎぬからな……。それと同じ警告をして断られたのなら、正攻法ではどうしようもあるまい」 「じゃ、遠慮なく犯人探しに奔走させていただくけれど」 「良かろう。ただし万が一突き止められた際にはすぐさま俺に連絡すること。危ないことはしないこと。――これは教会の人間として言うのではないぞ。君の知人としての警告だ。君が死ぬとマナカが悲しむ。俺も悲しむ」 「はは。ありがとう」 そう言っていつもより気負わぬ顔でさくらが笑ってみせたのは、多分マクシミリアヌスのそれがあまりに普通すぎたからだ。“悲しむから死ぬな”。――それは人が当たり前に、誰かに対して所持する願いなのだろうけれど、それがこれまで存分に反対していた大男の唇から漏れ出るとは。ソウイル教会治安部隊員中佐の口から漏れるならば、“異世界人を失うのが惜しいから”でも不思議は無かった。 「――じゃ、用事も済んだし、私はそろそろ帰ります」 「用事?」 マクシミリアヌスが問いかけた。そういえば、さくらが何故ここに来たのかという理由について彼女が明言したことは一度も無い。明言されなくても分かるけど。 「真佳に会うこと。犯人を突き止めると宣誓するつもりは無かったのだけれど、まあ仕方ないわね」 ひょいと肩を竦めて、ちらっとさくらがこっちを向いた。 「逃げ出すなよ」 「……逃げませんて」 視線を逸らしながら小声で言ったら頭上にため息を吐きかけられた。多分、これでまた抜けだそうとなんかした暁にはさくらにしこたま怒られる。どの道真佳に犯人を突き止める当てがあったわけでは無かったので、今のところ抜ける気は毛頭無いのだけれど。 犯人の正体が分かるまで大人しくしておくのも、まあいいだろう。そうしていた方が犯人特定の際、少しは抜け出しやすくなる。 「それじゃ。また今度」 素っ気ない言を言いおいて、彼女がくるりと踵を返した。雑草と土とを踏みしめる、ざくざくいう小気味良い音を響かせながら。「サクラ!」マクシミリアヌスが声を張った。 「何か困ったことがあればいつでも俺を訪ねてくるがいい! 君が名を名乗った際には即取り次ぐようにと下の者に言っておこう!」 片手を上げて、ひらひらとさくらは手を振った。こちらを振り返りはしなかった。真佳は特に何も言わない。予想外の場所で思ってもみなかった再会に恵まれた後なのだから、何か言って別れるのが普通なのかもしれないけれど……言うべきことは言ってしまったし、多分彼女も理解している。言うべきことは特に無い。 「……」 遠ざかる背中を見つめながら、マクシミリアヌスがやがてしみじみ口を開いた。 「……気の……強い子だなあ」 「……ははは」 二人揃って遠く彼方へ視軸を投げた。 「ヤコブス」 名を呼んだ。痩身の男がぬっと姿を現した。月光にゴーグルが細く煌めく。ガプサの上衣は相変わらず羽織っていない。春の夜風が吹きすさぶ中、ずっと教会本部の壁に張り付いたままこうして待っていてくれていたのだろう。廊下の窓を開け放った状態でさくらはほっと息を吐く。窓枠に足をかけた。ヤコブスがすぐと右手を差し伸べてくれた。手を取り窓枠から煉瓦道へ着地する。 「会えたようだな」 「おかげ様で」 ヤコブスが一つ吐息した。繋いだ手をそっと離しながら彼が言う。 「君の予測通りに事が運ぶとは思わなかった」 「アイツの性格を考えたが上の予測だからね。アイツの考えてることくらいすぐに分かるわよ」 「にしても危ない懸けだ」 「だったらもっと早く止めるべきだったわ」 「止めても君は聞かん」 くすっと微笑った。そりゃそうだ。誰に止められてもそこで歩みを止める気はさくらには無かった。 真佳がどこの部屋にいるかを聞いた後、二日後の夜中、つまり今日、教会本部に忍び込む旨をヤコブスらの前で宣言した。 別に彼らの協力を得るつもりはなかった。ただ唐突にいなくなったらびっくりするだろうからと思っての報告である。教会本部は彼らにとって天敵の居城だ。そんな危ないところまでついてきてくれるとは流石に思っていなかったし、危険な目に合わせる気もさくらには無かった。……それを見事に打ち砕いてくれた結果がこれである。 自分も行く、さくら一人では行かせられないと強情に言い張られたことにより、ガプサの首領であるヤコブスが教会本部の外まで付いて来ることで双方共に妥協した。何かあったらすぐに大声で助けを呼べと、うるさいくらいに念を押されたっけ。思い出してまた微笑った。ヤコブスに怪訝な顔をされた。 「……ヤコブス」 開け放たれた窓を閉めながら彼がこっちを振り向いた。トマスが金を払って鍵をかけないよう掛け合った窓だ。早朝には買収されたメイドがここの鍵を閉めるだろう。 ――息を吐く。 「ヤコブス。私、真佳を殺すよう命じた人間を突き止めようと思ってる」 金眼がすっ……と細まった。彼の目は雄弁だ。雄弁に、率直に、彼は警告を発している。 ……危険であろうことはさくらも重々承知していた。犯人の狙いが異世界人だからと言って油断ばかりもしていられない。相手がさくらの正体を知っている可能性は低いけれど、それでも嗅ぎまわっている人間がいると知ればいつ何時その矛先をこちらに向けてくるか知れない。立ち向かうと決めた今安全な場所などどこにもない。 でも、それでも―― 「そう、私一人で立ち向かうには危険すぎる。それに突き止めると言ったって、この国の地理も習慣も分からない私がどれだけ走り回ったところできっと敵の尻尾すら掴めないでしょう。だから一つ、お願いがある」 「お願い?」 「私に力を貸して欲しい」 言い切った。 きっぱりはっきりばっさりと。 金眼を大きく見開いて、 ヤコブスは空気の塊を吐き出すように、はっと笑った。 「助力を請うてくれて良かった」 ただ一言。その一言で十分だった。何せ彼の目は何より雄弁に物事を語る。それは多分、彼をよく知らない者は気付けすらしない些細なことだと思うけれど。 教会本部。 要塞のように佇む洋館のある一点を見上げ見据えて、さくらはついと目を細めた。真佳がいる。あそこに。命の危険に晒されながら、それでも戦うことをやめない女が。 ヤコブスに付いて踵を返した。一歩。強く煉瓦道を踏みしめる。 危険なことは承知している。でも、それでも―― ――それでも。 秋風真佳は、必ず救う。 |
抱懐プレパラツィオーネ |