かんっ、という音を立てて革靴の底を叩きつけた。底を見る。三階分の虚空を隔てて薄く生い茂る草地が見えた。演習場の隅に咲き狂う雑草地。足場は上々。引き裂いたシーツを欄干の一部に結い付ける。二度引っ張って強度を確認。とぐろを巻いたシーツの全てをベランダの外に投げ捨てた。
 もう片方の足を欄干の上に持ち上げて、ひんやりした石の感触をズボンに覆われていない膝のところで感じながら、
 真佳は緩く、息を吐いた。



日月



「よし」

 シーツを軽く引っ張った。かなりきつく縛っておいたから、多分どれだけ引っ張ってもこっち側に落ちてきたりはしないだろう。真佳が戻る前にマクシミリアヌスなんかに見つかったら大変なことになるが、こればっかりは仕方ない。春の冷たい夜気が頬を撫でる。なるべく早く戻るようにと心に決めた。
 自宅謹慎を言い渡されてから三日目の夜。――空気の澄んだ、空の高い夜だった。謝肉祭後半中には夜になると必ずどんどん鳴り響いていた花火の音は落ちては来ないし、祭りの喧騒も浮き足立った空気感も真佳の元へ届かない。それはそうだ。祭りは昨日真佳のいないところでつつが無く終了したのだから。今ではもう祭りに浮かれている人間は一人もいない。謝肉祭の陽気な空気に惑わされずに自宅謹慎を守りぬいた真佳の行いは周囲に安堵の心を与え、そして同時に油断を生ませた。その隙をついて今、真佳は部屋の外にいる。
 つま先でトントンと地面を叩いた。周囲に視線を巡らせる。演習場というだけあって物陰は一つも見当たらず、誰かが隠れられそうな場所は見つからない。夜だけあってここら辺はえらく静かだ。このグラウンドを突っ切るとなると事ではあるが、今の真佳の目的地は幸いなことにそこでは無い。街へ出るなら演習場を突っ切るのではなくて、教会本部をぐるりと回って向こう側に出なければ。
 息を吐いて、
 踏み出した。
 宛は無いが一先ず行動に移さないことには始まらない。とりあえずまずは一体どれだけの人間が異世界人の存在を知っているのかを確認して――って、
 ――ばっ、
 ちん!
 という衝撃を受けて進んだ一歩を押し戻された。が、顔面痛い。ひりひりする。え、何? 何故眼前で星が散る? え、え、一体何が飛んで来た?

「つ、」

 という一音がまず聞こえて、「か・ま・え・たっ!」グラウンドを走る靴音と共に続けられたその羅列に我に返った。……つかまえた? 捕まえた!? 誰を? 私を!?
 顔面を覆った右手をひっぺがした時には遅かった。その足元に影があった。息を切らせた人の影。夜の闇を一層濃くした人型が草地をすっぽり覆っていた。多分真佳もそいつの領域の中にいる。
 やばい。
 胃の底らへんがひやりとした。
 やばい。
 やばい、近すぎる。このままじゃこっちがモーション起こす前に相手が行動に出――

「おい」

 いつもより低めの声を吹っかけられて頬の筋肉がひくりと動いた。や、やばい。やばいこれは怒っている。間違いなく怒っている。わああああしまった正座コースだ!
 って、
 ……ん?
“いつもより”って何だ? 私は彼女を知っていたっけ? ……そもそも相手は女だっけ?
 俯けていた視線を持ち上げた。夜目の効いていない目で見たことで一瞬焦点が歪んだが、双子月の薄い光を授かった彼女の様相を知覚するのに然程の時間はかからない。茶褐色のミディアムヘア、月光を受けて仄かに煌めく銀の双眸。真佳が見たことの無いようなラフな格好に身を包んではいるが間違いない。彼女の輪郭を見紛うなんてありえない!
 さくら。
 さくら、
 さくら!
 あの時、向こうの世界で別れたはずの姫風さくらがそこにいた。また会うっていう約束を果たせないまま別れた友人。とても大事で大切な――

「さっ――」

 喜色を込めて名前を呼びかけたところで固まった。
 ……笑顔だ。とても。さくらさんちょう笑顔。あれ? 普段からこんなににこにこしてる人だっけ? っていうか、笑顔が黒い……気がするのは、気のせい……、でしょう、
 か?

「……さ、さくらさ……?」
「で?」

 有無を言わさぬ声音でもって、

「何でアンタは命狙われてる分際でここにいるの?」

 ……一音一音噛んで含めるように告げられたそれに背筋がぞわりと粟立った。


■ □ ■


「馬鹿じゃないの」

 怒られた。

「元いた世界とは違うのよ? こんな時間に起きてる人がいるかどうかも怪しいのに、どうやって異世界人の存在を知っている人間を探し出すっていうの。そもそもどうやって尋ねるつもり? いきなり扉ノックして異世界人がいるの知ってますかって? 新手の宗教勧誘か。考えが足らなさすぎる。馬鹿」
「……あう」

 歯に衣着せぬ物言いに思いっきり叩きのめされて言葉に詰まった。そりゃあ、そりゃあ自分だってちょっと無理があるかもしれないとは思ったさ。でも何とかしなきゃならなかったんだから、多少の無理は仕方ないじゃないか……。もにょもにょとそんなようなことを吐き出したらさくらのため息に吹き飛ばされた。条件反射で身を竦める。
 教会本部演習場。星と月とに埋め尽くされた夜空の真下、教会行政棟の壁面を背にしてさくらと二人隣り合って並んでいた。まさかこんな世界でこうやって彼女と並ぶことになろうとは。今でもあまり信じられていない気がする。
 ごう、と吹いた風に揺られてシーツ縄が左右にそよぐ。拾った石ころでしゃがみ込んだまま日めくりカレンダーをこつこつ叩いた。何を隠そう、これこそがさくらに投げつけられた凶器である。人の顔面をしこたま殴打してった武器。額の辺りがまだ痛い。何でも、ゴミ捨て場にぽつねんと放置されていたのをひょいと拾ってきたらしい。何でこんなものがこんな時期に。拾ってきたのが石とかじゃなくて本当に良かった。
 さくらがこちらへやってきたのは三日前。丁度真佳が謝肉祭に旅立って、トゥッリオに命を狙われた日だ。今は色々あって、教会と意見を違えるガプサとかいう集団の元でお世話になっているらしい(ソウイル教会に異議を唱える者がいるとは正直思っていなかったので驚いた)。
 ――ガプサの協力を得て、真佳の居場所を探し出し、そうしてさくらはここにいる。実はその首領さんもここの近くまで来ているらしいけど。異教徒だからと警戒してか内部まで入ってくる気は無いらしい。会ってみるかと言われたけども辞退した。

「で」
「で?」

 一音だけで言われたので一音だけで返事した。どこかで虫の声がする。さくらが立ちん坊しているのはもしかして、虫を警戒してのことだろうか。彼女は虫が心底嫌いだ。こつこつこつ。カレンダーを薄く叩く。

「人に聞いても依頼人の見当がつかなかった場合はどうするつもりだったの?」

 こつ、
 とそこでカレンダーを叩く手がぴたりと止まった。「というか」さくらは更に言葉を繋ぐ。

「本当のところは一体何を期待した?」

 ……、十数秒の間を置いて

「……あはっ」

 かわいこぶったら無言で蹴りを入れられた。腰である。腰である。思いっきり腰蹴られた。ひどい。

「なっ、んで蹴るかなー」
「存分に加減したわ馬鹿」
「だからって何も足使うこと、」
「自分を囮に使おうとしたな」

 言われたそれに言葉を止めた。
 こうべを垂れたまま少しの間停止して、
 ゆるり頭を持ち上げる。さくらは腕を組んでいた。腕を組みながら真っ直ぐ真佳を見下ろしていた。白い肌が夜の帳に馴染まず浮いて、それは中々幻想的だ。
 はあ、
 と溜息。

「分かってるんならわざわざ私に言わせなくても」
「アンタの口から聞かないと意味無いでしょうが」

 然様ですかと口の中でもごもごと。口に出したら多分また睨まれる。
 ――夜。真佳が毎日出歩いていることを犯人が知ったら、間違いなくその時を狙って仕掛けてくるんじゃないかと思った。犯人自体がやって来るか新しく雇われた殺し屋が訪れるかは分からない。でもどちらとも重大な情報であることには変わりない。
 そう、全てさくらの言う通り。正攻法で無理なようなら自分自身を囮にしておびき出せばいいかとは、実はずっと考えていた。自宅謹慎を言い渡されてからずっと。まさか誰かにバレるとは思わなかったけど……さくらになら仕方がないか、とも思う。

「馬鹿じゃないの」

 また馬鹿って言われた。

「魔術師の殺し屋なんて物騒なもんが当たり前にいるこの場所で、一人でどうにか出来るだなんて何で思うの?」
「だって許してくれそーな人いなかったしー……私が戦場出ないのは却下だしー……」
「変なところで頑固」
「……これでもいちおー色々考えたんですけど」
「アンタはいつも詰めが甘いのよ」
「……」

 だって最低限生きて帰れればそれでいいしなあ……。と、いうのを実際口にしなかったのは、そうするとさくらが微妙な顔をするからだ。どうやら他人には秋風真佳という人間は、どこにも属さず何にも根を下ろさずにふらふらふらふら漂うように生きているように見えるらしい。心外である。否定はしない。

「さくらさんだって、出会い頭にいきなし拳銃突きつけるのは、私どーかと思います」
「びびったんだもん。仕方ないでしょう」

 ……びびってすぐ拳銃拾って突きつける女って、一体どこの軍人だ。

「で? まさかまだ自分を囮にして犯人おびき出す気じゃないでしょうね?」
「あははー、思ってないって言って信じる?」
「まさか」
「ですよね」

 息を吐いた。さばさばした口調が心地良い。草花の湿ったようなにおいがした。カラコロカラ、遠くの方でずっと虫が鳴いている。
 魔術についてや魔術師について。動物、食べ物、お祭り、典礼。この世界の色んなことを勉強し、色んなことを体験した。まあ言ってもまだ数日だ。まだまだ足りないんだってことは分かってる。分かってはいるけれど、しかしどれだけ勉強したところでこの世界に生きているという実感はきっと一欠片も湧いては来なかったんだろうと思う。
 ――でも今は違う。
 今は隣にさくらがいる。
 彼女が傍にいて、それでこうしていつもみたいに馬鹿馬鹿言われて過ごせているのなら間違いない。真佳はこの世界で、ちゃんと命を刻んでいるんだ。
 少し、微笑った。

「さくら。もし良かったらこの件、私と――」
「待った!!」

 目を上げた。
 いつの間にそこにいたのやら、割って入った声の主が真佳らから十メートルほど離れた辺りで屹立しているのが目に見える。二メートルを超える巨体が双子月をしょって立つ様はどこか異様で乱調だ。
 ……声の調子に覚えがあった。
 喉を鳴らして唾を呑む。

「……マクシミリアヌス……」

 頬が自然に引き攣った。
 マクシミリアヌスは歩を詰める。ぶらりと散歩に出たみたいな、一見して呑気で力の抜けた歩き方。でも目的が無かったはずがない。でなければこんな夜中に演習場になど来るものか。
 髭の茂った口元で、にんと唇を笑みの形にひん曲げて。その大男は言を発した。

「――その話、俺も混ざらせていただこう」

 爛々と輝く緑目を月光の恩恵のもと受け取って、
 真佳は一人無理に笑った。
 いつバレた……!!

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