「あー、馬鹿者が!!」

 ……マクシミリアヌスに怒鳴られた。びっくりして体を竦める。元々雷鳴のような声音が怒号に変わるとこうなるのか。なんて恐ろしさ。
 魔術で出来た炎も氷もすっかり消えて月明かりだけになった夜道である。彼の咆哮に誘われてひょっこり路地を覗きこむ一般人が出るかもしれないなどという懸念をマクシミリアヌスは微塵も抱いた素振りもなく、

「ああ、ああ、氷なんぞ直に触りおって! 霜焼けにでもなったらどうするのだ全く! マナカ、引ったくりを追いかけたときにも思ったがな、君はあまりに、」
「まあまあまあ、その辺にしとけよ、おっさん」
「……何度も言うがな、准尉。俺はおっさんじゃ――」

 ぽん。マリピエロがマクシミリアヌスの二の腕を拳で突いたのが見えた。未だ冷気の残る空気に、それより少しは暖かい春風が混ざり合って頬に微妙な感触を残して消える。そうやって運ばれてくるように、何か明るい物音が遠くの方から聞こえてくるのに気がついた。

「パレードが来る。ぐずぐずしてると連行するのも厄介になるぜ。人混みに紛れて逃げられてぇのか?」
「……」

 何かまだいい足りない様子ではあるものの、どうやらそれがマクシミリアヌスは怒りを抑えるのに貢献したらしい。奥歯をこれでもかと言うくらい噛み締めてはいるがそこから怒声は飛び出さない。代わりに、観念して地べたに尻をつけた殺し屋の腕を乱暴に引っ掴んでいたけれど。
 マリピエロがウインクを一つ、こちらに放った。

「一つ貸しだな、お嬢ちゃん」



←命を↑運ぶ→



「トゥッリオ・パンツェッタ。スカッリア国内を転々としている殺し屋だな。よもやこんなことで捕縛出来るとは思っていなかったが」


 マクシミリアヌスの言説が彼の執務室に木霊する。羊皮紙に壺にダンボール、それに多くの書物たち――相変わらず沢山の物品にまみれた、マクシミリアヌスの執務室。夜であろうと昼であろうと本棚の背中が邪魔をしてここに日の光が入ってくることは無いので、いつだって蛍光灯が明々と光の勢力を広げている。整理整頓など宇宙の彼方に吹っ飛ばされたこの室内で、
 トゥッリオと呼ばれた殺し屋が、執務机に背を向けて座らされていた。
 木製の椅子にきつく縛り付けられた上に魔術封じの手錠をかけられて、それでも不遜な態度は崩すことなくさっきからずっとつんとそっぽを向いている。
 あれから。途中で適当な二等兵を捕まえて、計五人の集団でトゥッリオと呼ばれた殺し屋を教会本部まで連行してきていた。真佳の両手には大袈裟なほどの包帯がぐるぐる巻きにされている。大丈夫だと言ったのに、マクシミリアヌスは全く聞いちゃくれなかったのだ。軟膏がべったり塗りたくられていて気持ちが悪い。しかも外したら怒られるし。
 外ではまだパレードが行われているのだろう――さっきから継続的に篭ったような歓声が遠くの方で上がっている。対して教会本部治安部隊棟はと言えば、折角の休日に通勤してくる仕事中毒な治安部隊員など存在しないためどこもすっかり静まり返っている。真佳が背を預けた扉の向こうでも、勿論ここ、マクシミリアヌスの執務室でも。屋内と屋外、二つの肉声の落差が隔絶感を強くする。
 こんな空気の篭った部屋の中で一体何をしているのかというと、まあ所謂取り調べ。と言っても――

「おい、そろそろ答えろよ。どうして彼女を狙った?」
「知らないのかい。殺し屋は誰かに依頼されて人を殺害するもんだ」
「だから依頼人は誰だって」
「答えらんないね。依頼人の情報は飽くまで秘匿。殺し屋の常識だ」
「答えんとお前が極刑を言い渡されるぞ」
「……」

 にらみ合い。
 反抗的な橙の瞳と、澄んだマリピエロの青目が火花を発してぶっつかる――。
 ……人に知られぬように苦笑した。
 さっきから取り調べはずっとこんな有り様だった。マリピエロが尋問し、トゥッリオが茶化すようにはぐらかす。マクシミリアヌスの執務室は普段通りエントロピーに満ち満ちているが、このように時々訪れる不毛な静寂のおかげでここに置かれた全てのものが化石にでもなってしまったかのようだ。巻かれた羊皮紙が段々貴重な古文書に見えてきた。古い紙のにおいが鼻の奥にこびりつく。
 聞きたいことがあるからと二等兵に無理言ってわざわざ取調室からここまで連れ出して来たというのに……。これでは全くの無意味である。進展する気配まるで無し。
 つ――、と。
 マリピエロに視線をやった。
 路地での出来事を思い出す。鉄の狼に襲われそうになったとき、襲い来る獣の眼前に氷の柱を突き立てて快刀乱麻真佳を守ってくれたのは、他ならぬマリピエロ准尉だった。

「……」

 ま、虎穴に入らずんば虎児を得ずと申しますし。

「――ねぇトゥッリオくん。キミ、私が異世界人だってこと知ってるよね」
「マナカ!?」

 咄嗟にあがったマクシミリアヌスの声に敢えて反応はしなかった。ただ中央。二人の治安部隊員に挟まれ腰を下ろす白髪の少年に真っ直ぐ視線を突き下ろし、笑う。……わああ、という歓声がずっと遠くの方から聞こえていた。少しずつ、少しずつ、それがこちらに近づいてきている。パレードの終点は中央広場。教会本部のすぐそこだ。時間が経つにつれて歓声の音は当然大きくなっていく。
 ……焦燥に心臓がじりじりした。二等兵から取り上げた男を、何時間も拘束しているわけにはいかない。不審がられる。
 白髪を蛍光灯の安っぽい明かりに照らされながら、幼い殺し屋は面白がるように肩を引き攣らせてくっくと嗤った。

「知ってるよ。異世界人ってのはこんなもんなんかと興味深かったあ。で? それが何か?」
「それ、誰から聞いた?」
「さて、誰だったかなあ」

 はぐらかされて、

「ふむ」

 息を吐く。

「……少なくとも、誰かに聞いたことは事実なのだね」

 ぴくっ、と殺し屋の瞼が動いた。嘲るように細められていた橙の目が射るようにこちらを。真佳を睥睨。熱でも帯びてるんじゃないかと思われるほどの熱い視線に
 ――にこん、ふてぶてしく微笑してやった。
 さーて。
「マリピエロ准尉」視軸の位置をあっさり変更。真佳から見て殺し屋の右、床に跪く男へと。マリピエロの胡乱げな青目がこっちを向く。

「マリピエロも私が異世界人であることを早い段階から知ってたよね」
「ああ。やっぱりアンタは気付いてたか」
「そりゃー初っ端日本語で話しかけられりゃーねぇ」
「だろうとも。普通はそうだ」
「……ついでに聞くけど、何で気付いてて言わなかったの」

 つっつっつ、とマリピエロが舌を鳴らした。小鳥でも呼ぶような気軽さで。それからにやりと口端の片方を持ち上げて、

「そっちのが楽しいだろ?」
「……」

 うん?

「考えてみろ、異世界人が来たっつったら、ここではそりゃあ凄いことだぜ? 五百年ぶりの異世界人だ。伝説にもなりかけてた異世界人。だというのに、はあ……。お前らときたらこそこそこそこそ隠し立てして、俺には何も話さねぇ。他の誰に内緒にしても、俺にだけは言うべきだとは思わんか?」

 真佳としては全く思わない。

「で、まあそっちがその気ならっつーわけで、何、ちょっと訳知り顔をしてみせただけだよ。訳知り顔だけだ。あとは何もしてねぇぜ? まあちっとばかし演じた部分はあったかもしれねぇが、それはご愛嬌ってやつだろう? いやあ、面白かったなあ、全く警戒する必要もねぇのに神経すり減らしてる様を見るのは」とてもとても清々しく、「実は俺の娯楽でした演技でしたっつったら、奴らの気苦労は全く報われないわけだなあ、どんな顔をするもんかね!」

 ……この野郎。

「どうした嬢ちゃん」

 にやにやしながら彼は言った。“気苦労が全く報われなかった”のは真佳のほうも変わらない。視線をそらしてぶすっとした声色で。

「……別に。この国の人たちの、他人で遊ぼーとするハイエナ並みのエンターテインメント力に目眩を起こしていただけです」
「そう褒めんなよ」
「褒めてないよ!」
「ははは。俺ぁむしろアンタの強さにくらくらしたね。アンタ何であんなに強ぇんだ? ありゃ普通の女が出来る動きじゃねぇ」
「……ちょっと特殊な家庭環境で育てられたのさ。そんだけ」

 ……軽く流した。あまり自分から説明したいような話でもない。説明面倒くさいし。
 唇に舌を這わせて、「それより」と話の方向をねじ曲げる。

「そろそろ本題といこーじゃない。マリピエロは何で分かったの? 私が異世界から来たってこと」
「は? 何でってお前」

 きょとん、という顔をされた。あれっ、と真佳は思う。
 ……現在。真佳が知っている中で真佳の正体を知っている人間は、ほんの一握りに限られる。その中にマリピエロもトゥッリオも当然のことながら入っていない。――正確には、入っていなかった(・・・・・・・・)。教会のお偉方と最低限の人間しか知らない超極秘事項が何故マリピエロに漏れたのか――それを分析すれば、トゥッリオの件にも必ず繋がるはず。だと思っていたのだけど。
 しかしどうやらそう上手くはいかないっぽい。マリピエロは極めて意外そうな語調で、

「そりゃアンタ、ちょっと考えりゃすぐ分かるぜ。いいか、アンタが最初にこの世界に降り立ったのはどこだ? スカッリア国首都、ペシェチエーロの中央広場! 大勢の人目にかかるその場所に突然現れて、すぐ軍人に連行された。誰が手品だなんて信じる? この国の人間は誰だって基本的に異世界人の物語に興味津々だっていうのによ?」

 ……頬を、
 引き攣らせた。
 ぐりんと首を回してマクシミリアヌスに視線を投じる。大男は大木のようにその場にしゃんと突っ立って、難しい顔で顎髭をしきりにしごいていた。

「……あの場にいた全員には、即座に緘口令を敷いたはずだ」
「おいおい、おっさん。今までそれで完全に情報を遮断出来たことがあったかい?」

 がりっ、……という音がした。マクシミリアヌスのいる方向から。歯噛みの音――中佐の花崗岩みたいな顔が一層の迫力を持って目の前の何も無い空間に注がれているのを見て直感する。
 そう。
 そうだ。ちょっと考えればすぐ分かったはずだった。いくら口止めをしたところで人の口に戸は立てられない。マリピエロがそうだったように、あの場にいた誰か、若しくはあの場にいた人間から人伝に聞いた誰かが、真佳の正体に気がついた可能性は大いにありうる。
 少し前まではそれでも良かった。何れ国民に真佳の存在を知らせることは既に聞かされていたし、そこで誰かに知られたところで真佳にとっては痛くも痒くもない。はずだった。殺し屋が現れるまでは。
 ツバを呑む。トゥッリオが真佳の正体を知っていたとか、そんな情報いくら得たところで、……容疑者が多すぎて絞り込めない。
 ――唇を、
 湿らせた。

「ははッ」

 と近くで男が嗤う声がした。嘲るようなさも人の不運を楽しんでいるような笑い方。真佳がそっちへ視線を振り向ける前に、
 バシッ
 という音がした。柳がしなるような鋭い音。……少しだけびっくりして、別の方向に目線の先を固定する。
 マリピエロの左手が、宙を飛んだまま静止していた。トゥッリオの頬に赤く染まった打撃の後――頬を張った、のだ。マリピエロが。左手の甲で、殺し屋を。
 無感情にぶん殴った方の手をぶらぶらと軽く振りながら准尉殿が立ち上がる。ひどく静かな所作でもって。

「さぁて、お遊びは終わりだ。こっからどっきりや演技は一切ナシ。――マナカ。教皇に居住を許されたアンタは紛れもなく国の賓客。で、善良なる国賓を護るのは、」くるり。踵を軸にこちらを向いて。「俺たち治安部隊員の義務だ」

 自身の胸をどんと叩きながらマリピエロが笑う。「はっ」それまで大人しく見守っていたマクシミリアヌスが、少し不満げに空気の塊を吐き捨てた。

「当然だ。義務であろうが無かろうが起こす行動に変わりはない」

 何故だかどこか不満そうにぶつぶつ言いながら。准尉に倣うように、……中佐の視軸もこっちを向いた。「え。あ、おう……」無意味な呟きが口をつく。
 治安部隊員二人――ガタイのいい長身の男に揃って見つめられて鼻白む。
 ……護る。
 その言葉が胸を打つ。
 言われ慣れない言葉だ。強くあるよう教育され、それ故に化け物と罵られるのが常である真佳を護ろうとする人間なんてほとんどいない。だって真佳は強いから。護る意味なんて無いんだから。だから、だからその言葉は、
 て、
 照れる。
 ――コンコンコン。

「ひゃあ」

 凄く近いところで短い間隔のノック音。思わず奇声を発してドアから飛び退き直ぐ様制止、……して。
 ……びっくりした。な、何だこれ陰謀かっ。何者かによる陰謀かっ。ち、ちくしょう人が照れて無防備になってるときにっ。
 心臓がまだ鳴り止まない。ばくばく言う。ばくばく脈を打ち続けている。心臓に拡声機能があるのならきっと今頃、腹に響く太鼓の音に匹敵する大音に全員耳をやられていたに違いない。はあ、びっくりした。
 ……。……あ、しまった。
 驚きのあまりフツーに飛び退いてしまったけれど、扉に一番近いところにいるのは真佳である。普通、これは真佳が開けるべきではなかろうか。一応、部屋の主はマクシミリアヌスということになっているけれど……。
 振り返ってマクシミリアヌスの顔を見上げた。彫りの深い強面が蛍光灯に照らされて、皮肉なことに何とも恐ろしい陰影を刻んでいる。
 ――開ける?
 扉を指差しながらジェスチャーで。マクシミリアヌスの首が横に振られた。ノー。……駄目らしい。もう何歩か後ずさって、大人しく扉の前から引き下がっておくことにする。殺し屋との距離が近くなったのでついでに覗きこんでみると、トゥッリオに鬱陶しそうな顔をされた。心外である。私に一体何の恨みが。

「……誰だ?」

 不用意にトーンの抑えられた声だった。真佳と入れ替わって彼が戸口の前に根を下ろしていてしまったのでその強面は真佳の側からは見ることは出来ないが、けれど気のせいだろうか――マクシミリアヌスの肩が少し強張っているような。
 目を細めた。察するに、どうやらマクシミリアヌスは扉を叩いた相手が敵ではないかと訝っている。
 ここはマクシミリアヌスの執務室である。が、しかし通常なら休日であるこの日、彼が自身の執務室にいることを知っているのはここにいる四人を除いてトゥッリオ連行に協力してもらった二等兵のみとなる。二等兵以外にこの部屋を尋ねてくる人間などほぼ存在しないと言ってもいい。だから相手は二等兵か、それとも第二の暗殺者。
 中佐が手振りで合図した。それに頷いたのはマリピエロで、それまでトゥッリオの横についていた准尉が代わりに真佳の横に付く。椅子の上では殺し屋トゥッリオがドアの向こうに探るような怪訝な視線を投げかけている。
 ドアの向こう、全ての意識の集中点たるその場所で
 何者かが、口を開いた。

「ああ、その声はカッラ中佐だね」

 と。
 ……しわがれた老人の声である。聞き覚えの無い声だ。ということは二等兵ではない。それじゃあ、

「私だ私だ。フレデリクス・デ・マッキ」

 ……。一瞬、中佐と准尉の空気が凍った気がした。

「――デ・マッキ枢機卿!?」

 マクシミリアヌスが大声を張る。枢機卿! 真佳もその場で目を剥いた。
 真佳自身、この世界で何度か聞いたことがある言葉だ。枢機卿。教皇に次ぐ高位聖職者。つまりこの国でのナンバーツー及びマクシミリアヌスらの大上司。普通なら相対することもない、とんでもなく偉い人――大男中佐が戸惑いしたふうに扉を開けるのも無理は無い。

「や、すまんね、失礼するよ」

 扉が開かれたその向こうからさらさらと衣擦れの音がした。窓の外が暗闇だからか、いつもより控えめに見える廊下の電光に照らされたのは一人の老人。執務室に足を踏み入れるその様は緩やかで、余裕と威厳みたいなものに満ちている。なるほど、枢機卿の地位についているだけはある。教会の静謐な空気が似合いそうな男だった。
 年のせいか頭髪はすっかり白く、丸顔に刻まれたシワに埋もれるように細められた糸目が眼鏡のレンズ越しに伺える。すとんと足首まで包む長衣に、それより短めの、レースで編まれた上着のようなものを羽織っていた。白いポンチョの襟元にはソウイル教会のアクセサリ――多分、これが枢機卿という役職に与えられた着物なのではなかろうか。今までこういう服を着た人をこっちの世界で見たことがない。

「……どうされたのです、枢機卿自らこんな場所に来られるなど……」

 戸惑った素振りでマクシミリアヌスがそう尋ねた。

「ん、迷惑だったかね?」
「いえ、そんなことは全く」
「それは良かった。いやいや、異界からの賓客にまだ満足に挨拶も出来ていなかったものだから。こちらにお出でとの話を聞いてちょっと出向かせていただいたのだ」
「……えっと。それは、どうも」

 最後の一文はマクシミリアヌスに向けられたものではなく、真佳に向けられたものだった。視線の先が語っている。躊躇しながらも促されるように返答を口にしたが……正解だったかどうか。答えた後に悩んだところでどうもならないのは分かっているけれど、でもあちらさんナンバーツーだし。
 長衣に覆われたデ・マッキの革靴がこっちを向いたのに気がついた。進行方向上にいたマクシミリアヌスがすかさず一歩退き道をあけ、柔和な笑みをたたえて枢機卿がこちらへ向かって歩いて来る(……歩み寄ってくる枢機卿の背後でマクシミリアヌスの背中がダンボールの雪崩を引き起こしそうになっていたので、少しだけぎくりとした。どうやらマクシミリアヌスも慌てている)。
 唐突に右手を差し出された。
 老人の右手。真佳はきょとんとそれを見下ろす。

「フレデリクス・デ・マッキです。よろしく」
「……えっと、マナカ・アキカゼです。……よろしくお願いします」

 マリピエロが隣にいることをまず確認しておいてから差し出された手を握る。ぷん、と軽い香油のにおいが鼻をつく。……しわくちゃの手だった。老人の手だ。何十年もの時間による圧力に晒されすっかり老化した、独特の感触を持つ人肌。その老人の眉が、申し訳なさげにふっと翳った。

「聞いたよ。殺し屋に狙われたそうだね。大変な目に合わせてしまったみたいですまない。君の存在を秘匿しきれなかった我々に責任がある」
「や、そんな。誰のせいでもないです」

 答えた言に嘘は無い。実際枢機卿や教会の人間に非は無かろう。非があるとしたら殺しを依頼した依頼人のみであり、それ以外に罪は無い。例え依頼を受けたトゥッリオであってもだ。だからあまり、トゥッリオのことは怖くはないし恨んでもいない。
「ご厚意痛み入るよ」カサカサの唇から老人の声が滑り出た。……軽く受け流されたという直感。いや別にいいけども。
 枢機卿の小さな手が離れると同時に、彼の放つ視軸が位置を変えた。

「カッラ中佐、マリピエロ准尉。彼は何か話してくれたかね」
「はっ、いえ、全く。自身が殺し屋であること以外話す素振りはありません」

 答えたのはマクシミリアヌスの方だった。その間殺し屋は唇を口笛を吹く形にすぼめて、飄々と執務室内の家具にその視線を這わせている。枢機卿がいようがいまいがお構いなし。頬を張られたことだってどうやら何の感慨も受けていない。殺し屋というのは何が何でも依頼人について口を割らないものだから、多分これから相当に苦労することだろう。若しかしたら本当にこのまま極刑になってしまうかもしれない。

「……よろしい。この件はカッラ中佐、君に一任する。何としてでも彼から依頼人の情報を聞き出して欲しい」
「はっ」
「それで、マナカ嬢に関してだが」

 と、デ・マッキはもう一度、その糸目で真佳の方を見据えて言う。体の後ろで手を組み合わせ、威風堂々真佳を見下ろし――
 ……嫌な予感がする。
 枢機卿が口を開いた。

「現在――情けないながら、我々は殺し屋の依頼人の影すら掴めない状況である。この局面において、大事な客人を危険な屋外へ安易に送り出すことを私は良しとしない」

 瞼を閉ざした。ぎゅっと一秒。
 ……それはつまり、

「外に出るな、と?」

 開けた目を眇めて問う。確かに依頼人が特定出来ない今、不用意に外に飛び出すのは得策ではない。今回の依頼人が別の殺し屋を立てて再び真佳の命を狙わないとも限らないからだ。しかし――

「無論、悲しいことだが教会内部の人間だって潔白とは言えない。危険なのはどちらも同じかもしれない。が、少なくとも教会本部の建物内にいてさえくれれば、君が信頼を置ける人間で君の周りを固めることは実に容易だ。私は君を危険な目に合わせたくないのだよ。我が儘な申し出で申し訳ないが、大人しく自室におられること、承知してはくれないだろうか」

 ……目を伏せる。グレーのワンピースが視界の端で静かに揺れる。マクシミリアヌスとマリピエロ、二人の視線がじっと真佳を見つめているのを肌で感じた。
 分かってる。それが最善の索だ。真佳を危険に晒さないための、真佳を護るための、真佳を思った紛れも無い正論だ。
 でもだけど、
 視線をあげる。中佐か准尉、誰か一人でもいいからもしも異論を聞いてくれるなら、……息を吐いた。見渡した先に真佳の意見を支持してくれる眼差しは一つも無い。諦めるしかない。覚悟を決めてしまうしかない。
 ああもう。
 仕方ないなあ。

「……分かった。私は出来るだけ部屋から出ない。約束する」
「ありがとう、マナカ嬢。おかげで少し安心したよ」
「うむ! ではルッソ少尉とコンティ少尉、それにマリピエロ准尉を交代で君の部屋の外につけよう。止む無く部屋から出るときはそのまま行動を共にし、出来得る限り一人にはならないよう――」

 ――と、
 見せかけて。
 心の内で舌を出す。悪いが然うは問屋が卸さない。これは真佳の問題だ。真佳の命が天秤にかけられているこの戦で、真佳当人が雲隠れするわけにはいかない。隣で知人が危機に晒されている中一人安全地帯で待機しろ? ナンセンス!
 助力は享受するが依存はしない。真佳はそういう人間だ。どれだけ請われてもナイトの後ろで震えるばかりの姫にはならないし、なるつもりもない。だって自分は強いのだから。
 唇を湿らせた。
 思い描く。
「秋風真佳を殺せ」。トゥッリオに命じた依頼人。
 名前も顔も性別も、何も知らない名無しの権兵衛。
 殺される前に帰ってみせる? そんな楽観視はしやしない、秋風家の人間は。むしろ言うならば、
 ――殺される前に見つけ出して、やめさせる。
 視線鋭く強く誓言。

「あ、でもその前に」

 と真佳は言った。真佳の眼前、ぐるりを巡る視線の放列に軽く肩を竦めて、へらり。笑う。力の抜けた面貌で。

「キミたちに一つ、お願いしたいことがあるんだけど――」

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