人差し指でもって天を指す。濃紺色で厚く塗りたくられた空をごうと呻りをあげた風が抜け、群青色の巻雲が地上に影を落としている。その影の一つに彼女はいた。ウェーブのかった黒髪に深緋色の特徴的な目――この国の赤目に黒髪はいない。町中ですれ違う分には、多分可笑しなこともあるもんだと首をひねって通り過ぎていたことだろう、ということに思い至って、自分の置かれている立場に感謝した。自分は彼女の存在を知っている。彼女が異世界人であることを知っている。
 天空へ向けた指より五ミリの間を置いた上空にて
 スッ……、と、鉄の塊が下部から少しずつ具現化されていくのを目で追い――
 ひゅうっ。
 掠れた口笛を吹いた。
 形としてはナイフ形石器の歪な楕円に似ているかもしれない。かつてこの国が生まれたばかりの頃、一人目の異世界人がやって来るよりももっとずっと昔、第二級魔力所持者はこんなお粗末な代物を刃物として扱っていたという。ただし具現化したそれが完璧に昔の刃物に似通っているというわけでは勿論ないのだった。
 今、自分の指先にあるものはそれよりも薄っぺらかった。石でできているわけではないので三つ子月の月光を浴びてきらりきらりと光を放つし、何よりナイフの部分は側縁の“一部”ではなく“全部”だ。楕円を囲む縁全てが刃物――より簡単に鋭利に人体を切り刻めるよう磨き上げられた至高の逸品。人を殺すのに適した、握りこもうものなら手のひらにすっぽり隠れてしまうだろう小さなナイフ。
 風にはためく真っ赤なフードの内っかわ、顔面にだらりと垂れ下がる白髪の隙間から橙色の双眸を覗かせて
 繊月を浮かべるように鈍く、鈍く――。
 殺し屋は、笑った。



かくして花火は戦を告げる



 大道芸人というものを初めて真佳は間近で見た。
 ジャグリングにパントマイム、アクロバット、色々なことをする大道芸人がわんさといた。大道芸人というのには色々な種類があるのだということを、真佳はこの時初めて知った。細長い風船を狼や花や翼の折れ曲がった鳥に変えるバルーンとか、メイクや仮想で彫像になりきるスタチューとか、ダンスを踊る者もいた。マリピエロが言うのには、こういった芸は全て戦後、よその国から入ってきて定着したものらしい。大道芸人の手で作り上げられていく、鳥足の犬を模したバルーンを見つめながら真佳はそういった話に熱心に耳を傾けていた。
 クラウン、俗にいうピエロというのも広場の一画にはいて、そちらはたった一人で多彩な演技を披露していた。マクシミリアヌスが彼(もしかしたら彼女かもしれないが)におひねりを放っていたから、多分大男中佐はあのクラウンの演技が気に入ったのだろう。「愉快愉快、実に愉快!」とか何とか言いながらとても豪快に笑っていた。マリピエロが同行することになってしばらくは顰めっ面を崩さなかったのだが、機嫌が直るのにそう時間はかからなかった。そういうところがマクシミリアヌス・カッラ中佐の長所でもある。
 そして現在。
 真佳とマリピエロはその大男中佐を今か今かと待ちわびて、建物の外壁に背中を預け立ちん坊していた。
 出店の出ていない大通りの隅である。空はもうすっかり暗く、ネイビー色の夜空に三つの月と雲、それに薄っすらした星が控えめに天を飾っている。ここらに街灯は無いが、月が三つも出ていることから見通しはそう悪くなかった。一つは居待ち月で一つは半月、もう一つは繊月の形をしている。大きさは同じに見えるが、それぞれ距離か何かが違っているのかもしれない――全てが別々の形に見える。月の数や色は違えど、月相は真佳のよく知るそれとそう異なってはいないんだな、と真佳は思った。

「五つの月が並んで見えるのは、最短でいつ?」

 この惑星の月が全部で五つあることは、天に昇ったそれが一つでなかったのを発見した次の日にマクシミリアヌスに問いかけた。

「さあて、いつかねぇ。何十年か先だと言われたことはあるが、予言なんてそう信じられるもんでもあるまい」
「マリピエロは予言を信じてはいないの」
「トーゼンさ」

 マリピエロの物言いに、ピンとくるものがあった。

「じゃあ、神様も信じてはいないね」

 言った言葉にすぐには答えが返ってこなかった。
 右隣に視線を向ける。シガレットを取り出しかけた手が見えた。くしゃくしゃになった煙草箱から一本の紙巻煙草が覗いていて、どうやらその状態のまま固まっている。
 そのまま視線を垂直移動。青い目が薄く見張られている。無精髭の散った頬に微笑は無い。どこか呆然とした体で、マリピエロはきょとん、と。瞬き一つ。

「……仮にも教会に仕える人間相手にそんなことを問うてくるとは驚きだな」
「……あは。あれ、駄目だった? 火あぶり?」
「何で火あぶりまで飛んでんだ」

 吹き出しながら言われたのでちょっと安心した。強張らせたまま硬直させた肩の力をゆるりと抜く。出しかけた煙草を収め始めるマリピエロの手を見ながら(多分癖で出した後火を起こせないことに気がついたのだ。この場に彼の付き添いはいない)、「教会謀反人と言えば火あぶりかなーって」頭半分でそんなことを口にした。勿論歴史の勉強も好きでは無いが、魔女狩りについては衝撃的だったしよく物語の題材にされているので強く記憶に残っている。

「はー。まあ仮に謀反人の処理方法が火あぶりだったとしてもだ。アンタは非常に運がいい」

 言いながら、マリピエロは顔を上空に向けたまま流し目で一つ。ぱちんとウインクして見せた。

「さっきの質問に答えようか。ご名答、俺もカミサマなんぞ信じちゃいねぇよ。ただ給金がいいから准尉なんて地位に就いてるだけで、教会やカミサマなんかには何の恩義もねぇ」

 おどけた調子で両手を挙げて、そのまま肩をきゅっとすぼめる。頬にはいつもの食えない微笑。
 マクシミリアヌスと三人、半日を共に過ごしたがこの不良准尉は常にこうしたにやにや笑いを絶やさなかった。狩りで追い詰めた獲物が不穏な行動に出ていることに、気付かないほどお馬鹿な人間だとは真佳も思っていないのだけれど――。

「それよかアンタだ、アンタ」

 ぐい、と彼は、上半身をレンガ造りの外壁から引っ張り起こして腰を曲げ、無理な体勢で真佳と目線を合わせて見せた。赤目と青目、目と目の距離が一気に縮む。口には何も咥えていないはずなのに、夜風を押しのけてつんと煙草のにおいがした。軍服にすっかり染み付いた喉を灼くにおい。近まったマリピエロの唇が弧を描く。

「アンタはそんな信仰心でいいのかね、修道女見習いさん」

 語尾にハートでもくっつけられそうな口調でもって、囁くように――。
 どっ、と心臓を叩かれたような衝撃が走った。成る程、腹の探り合い。真佳がこの半日マリピエロから何らかの情報を引き出そうと画策していたように、彼も虎視眈々と狙っていたわけだ。やっぱり獲物の不穏な行動を気付いていないわけじゃ無かった。気付いていて泳がされていた。
 薄闇のベールに包まれた青の双眸を受け止めて唇をちらとしめし、

「ふ、」

 真佳は笑った。

「“見習い”が取れる頃には大層立派な信奉者になっていると思うよ」
「そりゃあいい、そしたら俺はアンタにゃ近付かねぇよう気をつけなきゃな。火あぶりにされちまう」

 マリピエロがそうやって軽口を叩いたとき、彼は真佳と目線を合わせていなかった。しゃんと背中を伸ばして片手で首裏を掻き、手洗い場へと向かう道に真っ直ぐ視線をやっている――マクシミリアヌスがまだ戻ってこないかどうか、多分確認しているんだろうと思う。
 おどけた口調で返されたことが少し意外だった。もっと追求されるかと思ったのに。それとも、もしかして彼はこの会話で得られるものに最初からあまり期待していなかったのかもしれない。
 身長差二十センチの壁に四苦八苦しつつマリピエロの顔を見上げながら思考の海に沈んでいると、そのすぐ横でドンと光の玉が上がった。ドン。腹に響く音を響かせながら大きく開花、直後パラパラと音を立てて火花の吹雪が風に舞う。
 ――花火だった。
 真佳のよく知る打ち上げ花火。一発目を皮切りに別の色と形をした花火が、ドン、ドン、ドン。薄く見える星の光を押しのけて、夜空に光の花を刻む。
 気がつけば隣のマリピエロも上空をぼうと見つめていた。後ろで観客の喝采がわあと上がる。夜が更けるにつれて少しずつ大通りに集まりだした、集団のうちの一つだった。皆が皆、出来るだけ端に寄って立ち揃って空を、正確には花火を見上げている。一定の間隔を空けて軍服姿の男が数人、人ごみを厳しい目で見張っているのが視界に入った。春の少し寒い風が真佳の髪をかき混ぜる。

「今年は花火も威勢がいい。いいねぇ、燃えるねぇ」
「何か始まるの?」
「パレードさ。夜のパレード。今日はダガズの日だからなぁ」
「マジか。えー、マクシミリアヌスまだなのに」
「あー、おっさんなら放っとけ放っとけ。どーっせ去年も見てるんだから」
「それはマリピエロも同じでしょー……」

 半眼で応じながら道の先に視線を投げる。さっきまで場所取りの数人がたむろしていただけの大通りはすっかり人に溢れていた。マクシミリアヌスがトイレに立ったときからこっち、ここから一歩も動かないようにしていたとは言えこれは見つけられるのに時間がかかるかもしれない――、と。

「っ?」

 強い殺気。……殺気? 何で? 考える時間は無い。気配を探る時間も無い。一瞬の間で状況判断。このままここに立っていてはいけない。真佳の本能が警告する。体が自動的に警戒線を張り神経が研ぎ澄まされていく――。
 早鐘を打つ心臓を左の拳で強く押さえた。
 周囲に素早く視線を巡らせながら、一歩。大きくそこから飛び退って
 ガキン!
 直後、真佳が背中を預けていた家壁に突き刺さったものがあった。真佳が膝を曲げて着地するのとほとんど同時! 一拍遅れていれば皮膚が肉が切り裂かれていたのは間違いない。思わず上がる口角に汗が伝う。
 それは鉄の塊だった。歪な楕円の形をして薄っぺらく、持ち手は無い。その端全てがどうやら刃になっていて、空を覆う花火の光を鈍く怪しく反射する。それは確実に殺人のための武器だった。誰が?
 ……“誰が”って? 考えている時間は無い。少しの躊躇いが戦場では命取り。そんなことに気を配っている余裕は無い。真佳には。
 目を閉じる。
 夜風がぶわっと髪をかき上げる。

「あ? おい、嬢ちゃん何し――、っ!?」

 マリピエロがナイフに気付いたその瞬間には既に気配を探っていた。大通り。両脇には三階建ての家屋や店が立ち並び、周囲に人は切って捨てるほどいる。誰もが容疑者になり得る状況。誰もが殺人者になり得る状勢。けれどもまだ向けられた殺気はやんでいない。
 目を開ける。
 と同時にぐんと視線を跳ね上げた。
 真佳とマリピエロが立っていた壁の丁度正面。細く続く路地の――
 見つけた。
 屋根の上!

「いやあ、すまんすまん、待たせたなマナカ。だがパレードには間に合っただろう? はっはっは、間に合わせたのだよ! さあ! 君が見たいと言った謝肉祭の名物、そのパレードが今! 始ま――」
「マクシミリアヌス!」
「おい、おっさん走れ!!」
「――あ!?」

 マクシミリアヌスの背中を二人で突っつき押しやって、花火を背にして走りだした――ドンッ! 花火の音が追ってくる。

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