振り向けたと同時にマクシミリアヌスのすぐ後ろを誰か、疾風のように駆ける誰かが過ぎったとき、真佳は

「これ持ってて!」
「え、おい!」

 握手した手を振りほどき反対側の手にあったジェラートをマクシミリアヌスの手に押し付けて、一も二もなく走りだしていた。

Ladro(ラードゥロ)Chiamate(キアマーテ) la() polizia(ポリツィーア)!」

 金切り声が真佳の背を押し追い越して、ずっと先を行く男の後を追いかける。



宝は赤



Cosa(コーザ)!」
Che() cos'e(コゼ)!」

 ペシェチエーロの大通り、謝肉祭まっただ中で人通りの多い道路を男、状況的に考えてまず間違いなく泥棒であるところの先行者は障害物となる人間を押しのけ突き飛ばしながら無茶苦茶な感じに突っ走っていた。悲鳴をあげられ怒号をあげられても泥棒が気にした素振りはなく、そうやって出来た抜け道を彼を追いかけて真佳も通ると人々が怪訝な視線の放列を突き刺してくる。どうやら彼、つまり泥棒くん、自分が誰かに追われているという認識がある。あれほどただならぬ大声で叫ばれたのだから当然か。もしかしたら真佳の後ろにも何人か追っ手がついてきているかもしれない。
 女物っぽい、赤いショルダーバッグがちらちらと視線の中央に突き出しては人波の海に沈んでいく。盗まれた獲物はあれとして、目立つ色のバッグに手を出してくれたことは不幸中の幸いだった。人ごみの中に飲まれてもバッグが位置を教えてくれる。既に形は覚えてしまった。後は追いついて捕まえるだけ。……なのだけど、

「くっそ」

 スカート走りづら! このワンピース、何で脛辺りまで長さがあるんだ。ばたばたと足に絡みついてきて気を抜いたら転んでしまう。居候だからという引け目があって与えられた服をそのままありがたく着用していたが、もうこれからはこんなに丈の長い服はお断りするようにしよう。そもそも今まで丈の長いスカートというのをあまり穿いたことは無かったんだ。動きづらいから。

「っ!」

 赤いバッグが大通りを曲がって走る。枝葉の路地。寸秒遅れて真佳もそこに飛び込んで、

Ahi(アイ)!」

 通行人にぶつかった。「ごめんなさい!」おざなりな謝罪を日本語で告げて立ち止まることなく人波を押しのけ前に出る。大通りと違って片側が出店に占領された狭い路地は泥棒が通った後の抜け道を真佳に残しておいてはくれない。泥棒と同じように無茶な感じで人波をかき分けながら駆けて行かないと追いつかない。
 泥棒の影がまだ角を曲がって行くのを視界に入れて、
 舌を打った。
 地の利は明らかにあちらにあった。これではすぐにでも撒かれてしまう。どうする――。左手に持ったままだった竹串のことを思い出した。いや、駄目だ軽すぎる。これではあまりに重さが足りない。もっと重量があるものでないと上手く飛ばせる自信は無い。なら後は――。
 ぎゅうぎゅうに詰まった人ごみを掻き分けて男の後を追って飛び出した。同じような人ごみが別の路地にも壁となって立ちふさがり、これも無理矢理押しのけながら(多分この国の言葉で「おい」とかいうような怒った声が幾つか聞こえた)泥棒を、赤いバッグを追いかけてかき退け走り、同じような路地をもう二、三回通りぬけて
 視界が開けた。
 小広場から小広場へ移動するのにも使われない枝葉の路地だ。路地の入り口、これも片側に二軒の屋台がぽつねんとつっ立っていたが、それまでほど人は海を形成していない。
 随分と離れたところに赤いバッグを持った男の姿――視軸を男へ固定すると同時に向かうべき方向が強制的に決定した。煉瓦道に吹きつけた砂埃を靴裏で踏み大きく一歩。店番が胡乱気な視線を揃って突き刺してくるのを意識の外に放り出して、泥棒の作った軌道を真佳も駆ける。一直線に伸びた路地の先――家々の間に挟まれた道の先に十字路があった。可能性は三つ。少し考えて、――右側。当てずっぽうで定めたそこへ赤いバッグが飛び込もうと体を、

「させるかっ」

 駆けたモーションのまま竹串咥え右靴を足から引っこ抜きざま、
 投、
 擲。
 鞄男の後頭部たる場所を、惑星の中心に近い地点を幾度となく踏みつけた靴裏が見事な一撃を食らわせて

Ahi(アイ)!!」
「ビンゴ!」

 足を滑らせすっ転ぶ様を見るか見ないかのうちに枝葉の路地を突っ切っていた。何だ何だと背後から色めき立ったざわめきが真佳の背中を越していく。泥棒の脚部が十字路の中途に見えていた。誰かが倒れていることは店番の連中にも分かるだろう――靴の取っ払われた靴下に、砂埃と煉瓦の感触とが直に触れる。
 鞄男が通った軌跡を貫くように十字路を右折。そのまま倒れた男の腕を取りダメ押しとばかり確保しようと――
 ……動きが、
 止まった。

Sorpreso(ソルプレーザ)!」

 角の先に先客がいた。
 金髪碧眼、無精髭。マクシミリアヌスやルッソらより崩して着られたオリーブグリーンの軍服姿――間違えようもなくこの男、

「マリ、ピエロ准尉……!?」
「おお、修道士見習いのお嬢さんじゃないか! いやいや、驚いた。五日ぶりだっけか。その後修道士修行はどうだい。いや、しかし神に仕える女性にしては――」

 煉瓦道に伸びた盗人を見下ろして、マリピエロはひゅうと甲高い口笛を吹いた。鳥でも呼び出せそうなくらい上手な、楽器みたいな口笛が左右にそそり立つ家壁をびりびりと這って空へ飛ぶ。

「――些かお転婆にすぎるなあ。まあ尤も? 俺はそういう子のが好みだがね」

 パチンとウインク。「はは……」乾いた笑いが口端に浮かんだ。咥えたままだった竹串をなるべくさり気ない動作で引っこ抜く。本気か冗談か、やっぱりいまいちよく分からない。掴めない人間だった。
 それにこの男、最初会った時と同じように――日本語で真佳と話をしている。

「マリピエロ准尉」

 野太く低い声がした。真佳のものともマリピエロ准尉のものとも違う声。いつも聞いているものとは違う声調なのですぐには気が付けなかったが、顔を振り向けたとき十字路上にマクシミリアヌスの姿が見えたのですぐに彼のそれと知れた。両手にジェラートを持ったまま真佳を追っかけてきたのだろうか。何て律儀な。あの場所でずっと待っていてくれるものだと思っていたのに。
 けれどおかげで、
 冷静になれた。

「おお、カッラ中佐もお揃いとは。あー! タンマタンマ! そんな怖い顔せんでくださいよ、参っちまう。ほれ、この通り」と両腕を空へ上げてみせて「なーんにも悪いことなんかしてませんって。サボりもしてない。職務に忠実。ね! いたいけな部下の言葉をまさか信用しない道理は無いでしょう。ね、中佐」
「さて、君は俺の直属の部下では無いからなあ」
「そう仰らずに」

 両手を持ち上げたままマリピエロが困ったような愛想笑いを張り付けていた。士官学校上がりの無経験少尉に対してはあれほど不遜に出来るのに、相手が中佐となるとどうも勝手が違うらしい。ただ、その焦ったようなモーションが演技なのか自然のものなのかはやはり真佳には分からない。

「あ、じゃあこうしましょう。俺があなた方二人の護衛をします。これで俺の潔白を中佐殿が目の当たりに出来るわけだ。どうです、名案でしょう」
「断る!」

 ……一刀両断。
 何の躊躇も無く准尉の提案を切って捨てた。

「……ははは、またあっさりと」
「いいか、マリピエロ准尉。俺と彼女に、護衛なんぞ不要である。何せこの俺がいるのだからな。それに貴様、マリピエロ准尉、あんた仮にも任務中だろう。巡回の仕事はどうするね、ん? 俺と共に遊んでいると知れたら部下に示しが、」
「別にいいんじゃない」

 言葉の途中で口を挟んだ。

「……――は?」
「マナカ!?」

 マリピエロとマクシミリアヌス、二人の治安部隊員が揃って驚愕の顔を振り向けた。真佳は黙って肩を竦める。
 唇をしめして、意識を自分の背後へ向けた。十字路の先――さっき真佳が突っ切ってきた方角から、ずっとさわさわと人の気配を感じていた。一人や二人ではない。集団。十中八九泥棒の逃走劇を見かけて飛んできた野次馬連中だ。中々に近い位置にいるので、真佳らが当たり前のように日本語で話しているのは聞かれているに違いない。
 家壁の間をごうと音を立て這う風が、靴下を晒した真佳の爪先を攻撃した。路上に伸びた泥棒男のワイシャツが煽られる。男から少し離れたところで真佳の皮靴と盗品である赤いバッグが転がっている。
 ……何日か前から、ふっと考えていたことだ。確かにマリピエロ准尉は胡散臭くも疑わしい要注意人物だろうけれど――、
 にっこり。
 笑顔のまま、こてんと小首を傾げて見せた。

「だって問題は無いでしょう。巡回なら私たちと一緒にでも出来ることだし、特に断る理由は無いんじゃないかな――大勢の方が楽しいだろうし。ね、マクシミリアヌス」

 マクシミリアヌスの巨漢から真意を探るような眼差しを突き刺されて、へらり。更にふやけた顔で笑った。
 ――確かにマリピエロ准尉は胡散臭くも疑わしい要注意人物だろうけれど。
 だからと言って遠ざけて切り離してそのままじっと時を過ごして、それで解決するような事態じゃない。虎穴に入らずんば虎児を得ず。こっちから飛び込んでやるのもまた一興。

「……はー」

 大男が吐いたため息が、何となくだけれどくだんの心配性の友人の吐くそれに少し似ているような気がした。

「よかろう。よかろう。他ならぬ君がそう言うのなら、マリピエロ准尉、貴様の同行を俺が許可する。分隊の隊長に俺からその旨――ああ、くそ、隊長は貴様ではないか! なんたることだ、隊長の勝手を他ならぬ俺が許すことになろうとは! 部下に尋ねられたとき俺は一体何と言えば!」

 前髪の生え際辺りをばりばり掻きながらぼやくマクシミリアヌスをぽかんと見やるだけの間を開けてから、
 ひゅーっ
 鳥の鳴き声にも似た口笛がすぼめた唇から漏れ出た。マクシミリアヌスの射抜くような睥睨がマリピエロ目掛けて飛ぶ。

「いいか、勘違いするなよ。これは職務だ。俺やマナカは貴様に遠慮無く好きなものを食べ好きなものを飲むが、マリピエロ准尉、君がそうして職務時間を休暇のごとく楽しむことは許されんぞ」
「はいはい、言われなくても分かってますって、中佐殿」

 持ち上げた両手をひらひら振ってあしらうマリピエロ准尉に、マクシミリアヌスが舌打ちでもしたそうな顔をした。苦虫を何十匹も噛み潰しているかのような顔だ――マクシミリアヌスのそんな表情が見られるとは思っていなかったので、それにはちょっと感動してしまった。内緒だけれど。

「じゃ、けってー。んでは当初の予定通り、マクシミリアヌス、大道芸人を見に行こう! 私はさっきからずっとそれが気になっていてだね――あ、いや、その前に」

 すぐ後ろ、突っ伏して目を回している男を振り返った。真佳の投げた靴は相当いいところに当たったらしくこれまで一度も身動きした様子は無い。本気の本気で失神している。
 指で示す。

「この人泥棒です治安部隊員さん」

 真面目くさった態度と口調で。二人並んだ治安部隊員へと、言い放ってから真佳はにこんと笑ってやった。

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