窓にぺたと手を添える。冷たく硬いガラスの感触が一気に手のひら全体に伝わった。窓の向こうには、ここからでは全貌を見ることが出来ないほど巨大な教会が厳かに建立している。周囲に人影は無かった。教会と教会本部の狭間にある道という、あまり人通りの多くない場所というのもあるが、そもそもこの街自体に今、人の姿は皆無に等しい。
 ダガズの日、朝十時。
 ピンと張り詰めた澄んだ空気の中、街に散在していた気配とざわめきは今、ただ一箇所に集まっていた。



うさぎの穴をまっさかさま



 グレーのワンピースを飾り立てる大きな白い丸襟をいじくりながら、真佳は教会本部の中心地たる玄関ホールの休憩所にてひっそりと腰を下ろした。両側から互いに引っ張り合って張られた糸みたいな静寂を、壊してしまうのは罪のように思われた。
 さっき自分が覗き込んだ窓を見上げて吐息する。今頃礼拝堂ではマクシミリアヌスが言う典礼が行われていることだろう。信者でもない真佳が教会に入る義務は無いとのことで、真佳は大人しくこの休憩所で典礼が終わるのを待っていた。義務は無くとも権利はあるらしくマクシミリアヌスに一緒に礼拝堂に行かないかと誘われたが、丁重に辞退したのだ。異界の宗教というのも中々興味深くはあるが、多分参加しても言語の違いから真佳には何を言っているのか分からないだろうしあっという間に退屈してしまう気がする。
 今謝肉祭に参加したところで、人っ子一人いないんだろうなあ……。
 誰もいない街。
 それはそれで面白いような気もするが。……ちょっと考えてみたものの、一人で行ったら絶対に迷子になる自信がある。やめておこう。

「あっ、アキカゼ様」

 びっくりしたような声がして何も考えずに振り返った。教会行政棟の廊下側。一歩玄関ホールに踏み込んだその場所に、一人の青年が立っている。ウェイター服を着こなした、品よく流した色素の薄い髪の――一瞬誰だか分からなかったが、綺麗なアイスブルーの双眸をじっと眺めているうちに思い出した。マクシミリアヌスと最初の朝食を食したときに隣でウェイターをしていた男だ。あれからウェイターとしては一度もやって来なかったから、すっかり忘れてしまっていた。

「えーっと、あの時のウェイター君だよね? おはようございます」
「……はい。おはようございます」

 ウェイターは一度カウンターの向こうに目をやって、そこに人がいないことに少しほっとした様子で近づいてきた。日本語を介していることを周囲に知れたら、真佳の立場が怪しまれると思っているのかもしれない。まあ既に四日前、この場で日本語の大声を張り上げた人物がいたのだけれど――多分彼は知らないだろう。マリピエロの性格上、また変なことやってるよ、みたいな感じで周囲に失笑を買って流された可能性は大いにありえる。ただ、突然に日本語を介した理由に意味が無いなんてこと、真佳は信じていなかったが。

「ベルンハルドゥスです。アキカゼ様。ベルンハルドゥス・コッラディーニ」
「べるんはるどぅす……」口の中で何度か繰り返してから、「うん、ベルンハルドゥス! 宜しく」

 椅子から立ち上がって気軽な感じで右手を差し出すと、ベルンハルドゥスは変に戸惑ったように両手を上下させてからようやく右手を握りしめてくれた。本当にやんわりといった感じで、握手した感触はまるでなかった。なんだか上に見られてるなあ。異世界から来たってだけなんだけど。ちょっと思って肩を竦めて、腰を下ろした。今度は窓の方ではなくて、ベルンハルドゥスのいる方に向かって。
 座ってからあっと思い至る。

「あ、ごめん、忙しかった?」
「あっ、いえ、そんなことは」言いながらこれまた戸惑ったようにそうっと向かいのソファに座を占めて、「丁度暇をしていて、外の空気でも吸いに行こうかと考えていたところです」

 透き通るようなアイスブルーの双眸をやんわりと細めてそう言った。柔らかい人だなと思う。それが本当のことなのか、それとも真佳のためについた嘘であるかは真佳には分からなかったけれど。勘で言えば後者。

「えーっと、なんだっけ、典礼だっけ。ベルンハルドゥスはいいの? 行かなくて」
「はい。わたくしは早朝の部で、きちんとお祈りして参りましたので。わたくし共のような使用人は、ダガズの日の早い時間に典礼に参加する決まりになっているんです」
「そっか。こういう場所のウェイターって、一杯することあるって前に聞いたことがある。大変?」
「大変というほどではありません。皆さんとても親切にしてくださいますし、それにこれがわたくしの仕事でございますから」

 何の気負いもなく答えられたそれに何だか胸の奥がほっこりした。真佳より幾つか上(だと思う)なだけなのにしっかりしていて、それに自分の立場をとても誇りに感じている。少なくとも真佳には、ベルンハルドゥスがそんなふうに見えるのだった。
 背後で変わらず厳格に佇んでいるであろう教会をちらりと意識した。言語の違いから一度は諦めたものの――
 異界の現実。
 雑食の読書好きとしては否が応でも気にかかる。
 少しだけ身を乗り出して、どきどきしながら口を開いた。

「ベルンハルドゥス、典礼……って、どんなことするの?」
「普通のお祈りでございますよ。まず始まりの祈りが行われ、日々の悔い改めの祈りが終わると聖書が読まれます。大体三章ほどの引用になりましょうか。教会行政棟で働いてらっしゃる方々の管轄ですね。最後に聖体拝領が行われ、終わりの祈りをもって終了となります」
「せいたいはいりょう……」
「アキカゼ様はソウイル教会がどなたを祀っているものか、ご存知でしょうか」

「……えーっと、ソウイルっていう……神様? なのかな」マクシミリアヌスが最初、それっぽいことを言っていたような。
 記憶を掘り起こしながらのたどたどしい真佳の回答にベルンハルドゥスは大きく一つ頷いて、「左様でございます」丁寧に同意を示してくれた。

「教会が崇めておりますのは、ソウイルという御名を持った緑児でございます。平たく申し上げますと、赤ちゃんでございますね」
「赤ちゃん……」

 復唱。軍服に付いていたような教会のマークは見つけたが、神、つまり赤ん坊の姿は見かけたことが無かったので意外だった。真佳に宛がわれた部屋を探せば、もしかしたら聖書くらいは見つけられるかもしれないが。

「ダガズの日、などの曜日名は、実はそのソウイル神に深く関係しているんですよ」

 と、ベルンハルドゥスは言った。発声器官を使って出された音が真佳も纏う空気を微かに揺らがす。視認せずとも知覚することは容易であった。ベルンハルドゥスの少しひび割れた声が、鼓膜にじんと染みる感覚。

「聖書の一節にこうあります。
“永劫なる暗闇の中、山頂に光がともる。神はこれをジュラの日と定められる。
 人は神を探しに出、神は人に火を与えられる。神はこれをカノの日と定められる。
 神の元へと導く者を、神は人にお与えになる。神はこれをラグズの日と定められる。
 神と人とがお会いになる。この時、獣は神を畏怖し、襲うことはしなかった。神はこれをエイワズの日と定められる。
 人が神に贈り物を献上する。神はこれをフェイフューの日と定められる。
 神は人に昼と夜とをお与えになる。神はこれをオシラの日と定められる。
 翌日、神が太陽となる。神はこれをダガズの日と定められる”……」

 幾つか聞いたことのない曜日名もあったが、耳にしたものも当然あった。直接どういう意味かと聞いたことはない。ただ、ダヴィドとかマクシミリアヌスとかが何かの会話の最中に言っていたのを覚えていた。それが曜日名なんだということを認識するのに二日とかからなかった。

「その神様が、赤ん坊」
「はい。人々は神が太陽となられたのを記念して、このダガズの日を神の聖体を頂く日とし、感謝の心持ちを忘れないようにしたんです。それが聖体拝領。この世界には中央が空いた円形の実がなる植物があるんでございますが、聖体は普通その植物が用いられます」
「美味しい?」

 と聞くと、ベルンハルドゥスは軽く笑った。
 人を小馬鹿にするような笑い方ではなくて、小さな子どもが「おんぶ、おんぶ」とせがむのを仕方ないなあと笑って承諾するお兄ちゃんみたいな。

「人によって味が違うと伝えられているので、こればかりはどうにも」
「そっか……」

 ちょっとだけ残念に思った。どんな味がするんだろう。気になったのに。だって聖体ということは、ソウイル教会と何の関係も無い真佳が食べることは禁止されているに違いない。
 ……でも、じゃあ人によって違うということは。

「ベルンハルドゥス」

 すぐと気分を切り替えて、わくわくしながら別のことを質問した。

「じゃあさ、ベルンハルドゥスはどんな味がした?」
「そうでございますね、……苦かったです」
「……苦いの?」
「はい。炭酸に似ているかもしれませんね。わたくしには御聖体はそのような味がいたします」
「ふぅん。もっと甘いとか、そういうものだと思った」

 素直な感想を述べ伝えると、彼は喉の奥で少しだけ笑った。誰もいない静寂した玄関ホールにベルンハルドゥスの笑声がスタッカートを刻んで滲む。
 カーン、という音がした。
 カーン、カーン、カーン……。教会の鐘だ。今典礼が行われている建物の上部にある、大きな鐘。それが十一回打ち鳴らされた。十一時。

「ん?」

 ベルンハルドゥスが何事か口にしたが、鐘の音がそいつを包みながら耳の中に飛び込んでしまったのではっきりした声として認識することが出来なかった。
 ウェイターは少し、惑ったような顔をしていた。一拍おいて、多分さっき言ったのと同じ言を舌に乗せる。

「アキカゼ様は、謝肉祭には行かれないんですか?」
「今日行ってくるよ。マクシミリアヌスが連れてってくれるんだ」
「そうでございますか。でしたら、夜のパレードが見物ですよ」
「パレード?」
「ええ。この街での有名な観光行事の一つです。この世界での良い観光になるかと思いますよ」

 夜のパレード……。電飾のぴかぴかしたものをまず想像して、いやいや、ここはあっちとはエネルギー源が違うのだからと妄想のベクトルを修正する。どちらかというと、魔術系の、でもやっぱりきらきらしているのは変わっていなくて……。

「おお……。楽しそう。じゃあ、マクシミリアヌスに言って大丈夫そうだったら見てみるね。ありがと」

 語尾を弾ませて請け負った。頭の半分で期待しながら言ったのでふやけたような笑い顔になったかもしれない。でも、だって凄く綺麗そうじゃないか。炎散ったりするかもしれないじゃないか。うはー。

「あ」

 なんて一音を漏らしながらベルンハルドゥスが突然に立ち上がったので、真佳は目をぱちぱちさせた。目の前にベルンハルドゥスの腹がある。痩せ気味のへっこんだ腹で、腰から下がっているエプロンは長年使い込まれた感はあるもののシミ一つない綺麗な黒色をしている。

「ベルンハルドゥス?」

 視線の先をそのまま上へ。移行した先にあるベルンハルドゥスの童顔は少し慌てたように玄関扉に向けられている。
 そういえば、通りがにわかに騒がしくなったような気がする。耳を澄ます。人声が扉に近づいている。

「申し訳ございません、典礼が終わってしまったようです。そろそろ戻らなければ――」
「あー、そうか。そうだね、うん、ごめん。行ってらっしゃい」

 ひょいと片手を挙げて見せるとベルンハルドゥスは一度丁寧にお辞儀して足早に教会行政棟に向かって歩き去ってしまった。教会に勤めている人間の中では年が近い方だろうし、もっと気軽にしてくれたらいいのに。せめて今みたいに急いでいる時くらいは。予想以上に律儀な青年だ。
 どっ、
 と音の塊が飛び込んできたことで、背後にある玄関扉が開かれたことを認識した。それまで抑え込まれていた人の話し声が、堰を切って流れ込んできているのだ。ほぼ静寂だった空間に慣れていた耳にそれは煩いくらいだったが、どうにかやり過ごしながら振り返った。
 軍服に身を包んだ男たちが、典礼から帰ってきたとは思えないくらい俗世的なことを口にしながら真佳の隣を通りすぎて行く。何人かには怪訝げな一瞥をくれられた。よりによってこの日、教会本部の玄関ホールに修道女でもない小娘がいることは多分異常なのだろう。
 ダガズの日は世間一般の休日とされていているらしかった。マクシミリアヌスから聞いた話だ。彼ら治安部隊員は、典礼が終わると同時に休暇に入る。典礼は教会が開く公的なものなので、皆一様に正装、つまり軍服を身に纏う。これから着替えを済ませて、休暇に入るのかもしれない。行政棟にいる修道女たちの姿が見当たらないのは、典礼の片付けをしているからだろうか。典礼は教会行政棟の管轄だと、ついさっきベルンハルドゥスも証言していたし。
 軍服の群れの中に目を凝らしたが、見慣れたマクシミリアヌスの髭面は見当たらなかった。あの山のような巨体を見逃すことはまずないと思うけど……。
 ぽん、
 と肩を叩かれて振り返った。

「やあやあ、マナカ、待たせてしまってすまんな。一人で退屈だったろう」
「マクシミリアヌス」

 少しだけほっとして表情を崩してから、……何でわざわざ真佳の視線の真反対から肩を叩いてきたんだと釈然としないものを感じた。声を低くして問いかける。

「……驚かそうとしたでしょう」
「はっはっはっ、バレたか。いや、しかし思ったより驚いてくれんかったなあ。俺は実に悲しい。だがしかし、治安部隊員としては合格だ」

 今ここに暗闇があったとしても照らし出してしまいそうなくらいぺかぺかした明るい笑顔で言うので怒る気が失せた。その代わり、今度仕返しに驚かせてやろうと心に決めたけど。

「本当に一人でここにおったのか? 典礼前にも言ったが、自分の部屋におってもよかったんだぞ」
「うんにゃ。誰もいない建物とゆーのも興味深かったから。それに――」

 一人というわけではなかったよ、と言おうとして、危ういところで口を噤んだ。典礼が終わる音を聞くや否や、玄関ホールから飛び出して行ったベルンハルドゥスの背中を思い描く。使用人が客人と話していたことを知られるとベルンハルドゥスにとってまずい事態になるのかもしれない。だとしたら、マクシミリアヌスにも口を割るわけにはいかない。

「それに、何だ?」
「……えーっと、夢の中で散策していたのでね!」
「何だ、寝ておったのか」

 マクシミリアヌスに笑われた。“どこででも寝れる子”とかの烙印を押されたかもしれないが、仕方がない。訂正は諦めよう。

「さて、ではそうやって英気も養ったことであろうし!」

 太い右腕で玄関扉を恭しく示しながら、マクシミリアヌスは宣言する(未だ礼拝堂から帰ってきた治安部隊員が何だ何だと言わんばかりの表情をした)。

「いざ! 謝肉祭へ!!」



 TOP 

inserted by FC2 system