ざらざらとささくれだった羊皮紙に向かって円を描く。大きいのとそれより少し小さいのをぐるりと二つ。円の中には四角形と、対になった山括弧。魔術の中では最も基本的な、炎を召喚する魔術式――。
 手をかざす。
 目を瞑って
 夢想を励起。
 魔力の奔流が起こるさなかで作り上げられた水龍が、嗷と鳴り響く唸りを上げて曇天の空目掛け大口開き咆哮を

「おいこら、見習い」
「あいた!」

 デコピンされた。
 一番痛みを感じた自分のおでこに両手をやるがそれで痛みが緩和されるわけもない。とりあえず考えた結果この状況で最も意味がある行動と言えば哀れっぽく目尻に涙溜めて加害者を睥睨することくらいなので、腕の隙間からじっとり睨みつけてみることにする。
 鼻息で吹き飛ばされた。
 さっきのはとんでもなく重かったんだぞちくしょう……。

「見習い異世界人」
「真佳です」
「見習い異世界人マナカ」
「うわあなんだろう、冒険活劇始まりそう」
「その冒険活劇の偉大なる主人公様は、俺が精魂込めて教えた事実をすっかり脳みそから叩き出してしまったらしいね。どうやら覚えるべき箇所を一々物理的に脳みそに刻みこまにゃあ覚えられんらしい。ああ、構わんさ。実に結構。俺と関係ない場所でその脳みそと共に生きるのはね。俺にゃあ関係無い。どうとでもするがいいさ。しかし厄介なことに、ああ、非常に残念なことに、今の状況を鑑みるとどうもそのせいで折角俺がお前さんに使った分の時間が、そっくり無駄になってしまうんだよ。分かるかね? これは俺にとっては実に不愉快な事象ということになる。そこで、どうだね、冒険活劇の主人公くん? 俺があんたの脳に、直接魔術に関する知識を刻み付けるというのは。悪くない話だとは思わんかね? え?」
「……謹んでご遠慮させていただきます」

 両手を持ち上げて降参のポーズ。既にお小言だけでお腹いっぱいであるのに、この上頭をかち割られるのではたまらない。ご親切にも縫合してもらえるとは思えないし。
 ソウイル教会本部、治安部隊棟一階角部屋。
 ささくれだった家具たちと遠くから聞こえる治安部隊員の演習訓練の掛け声と、それから魔術式が描かれた紙片に溢れかえったこの部屋で、真佳はダヴィドからこの日の魔術教導を受けているのだった。教導と言ったって、真佳はただ研究室にある大卓の前に座って与えられた専門書を読ませられるだけで、ダヴィドから積極的な教えを受けた覚えは無い。読み進めるうちに気になったところや分からないことを、作業机に向かって仕事を進めているダヴィドに尋ねて初めて授業を進めてくれる。本に向かい合っての勉強があまり好きでは無い真佳にとっては苦痛以外の何者でもない。やると言ったのは自分だけれど。
 真佳がこの世界にやって来た日から、四日経っていた。魔術の勉強を初めてから数えると三日。
 自分の前で今さっき落書き帳と化した羊皮紙を見下ろして、息を吐く。かさっと乾いた音がした。

「そりゃ、私みたいな第二級魔力しか持っていない人間がこんな魔術式描いたって」羊皮紙を指先で弾いてみせて「意味が無いってゆーのは十二分に分かってはいるけどさ」

 弾いたのでない方の腕で頬杖をついた。作業机に向かっていたダヴィドは、真佳が魔術式をこしらえているのを見咎めたときから体の半分をずっとこっちに振り向けている。どう考えても不機嫌の体で、眉間に刻まれているシワもいつもより一本多いような。
 第二級魔力というのは人間が使える魔力を大別した名称の一つで、最初に出会ったときダヴィドに説明してもらった通り“霧のような弱々しい魔力”のことを指して言う。対してマクシミリアヌスらが持っているような魔力は第一級魔力と呼ばれ、その多くが治安部隊にて働いていると聞かされた。
 自分の魔力が一級か二級かは遺伝なんかでは決まらない。運が全てを左右する。――神は富者も貧者も権力者も、皆公平に見ておられるのだよとダヴィドが皮肉げに言ったのを真佳はきちんと覚えていた。
 覚えてはいたけれど、それでも試してみたくなるのが人の情――

「事はそれ以前の問題なのだよ、異世界人殿」

 とダヴィドは言った。
 いたく苦々しげな声色で、一体何を言い出すかと思ったら

「この魔術式はひどく醜い」

 片頬が盛大に引き攣った。
 え、えー。醜いって。えー……。

「そんな……駄目だったか……」
「駄目以前の問題だね、全く君には心底呆れ返った。何だねこの円は。いや、円と言ってやるのもおこがましい。いいかね、これはアメーバだ。これほどまでにいびつな円を俺は今まで見たことがない。四角形なんぞは辺が歪んで直角が崩れているし、何よりカーミン・ピ・リッピを見給え。よくよく見んでも分かると思うがね、真ん中の菱形が魔術式中央から外れている。こんなお粗末な魔術式で術を発動させようなどと、分不相応にもほどがあるとは思わんかね」

 ぴしゃり。……と言い切られて、
 ……為す術もなく無言で机に突っ伏した。そ、そこまで言わなくても……! 自分だってこれが落書き以上のものでないことは理解しているが、何もそこまで……っ!

「コンパスと定規があればもっとマシなの描けますし……!」
「円規と定規なら教会行政棟の事務室かどっかにあるだろうさ」

 顔を上げた。

「……あるんだ」
「あるともさ。あんたはここをどんな原始時代だと思っているのかね。あれに異世界間同士のエネルギーの違いなど問題になるはずもあるまいし、そもそもあれに似た道具なら異世界人が来る前から存在していた。尤も、そんなものを使わなければ魔術式を描けんような輩が戦場で生き残るはずもないので、第一級魔力保持者はほとんど使わんがね」
「生き残れない……? でも、何も戦場で描く必要は無いでしょ? 既に描いてある魔術式を持っていけばそれで」
「必要とあれば戦うと意気込んでおきながら、何とも間抜けな質問をするのだね、君は」

 皮肉げに言われて「あ」とそこでようやく思い至った。そうだ、戦場では何が起こるか分からない。所持していた魔術式が何らかの理由で破損した場合、その場で魔術式を描かなければいけなくなる。魔術式が無くなったくらいで負けるような人間は、戦場にはいらないはずだからだ。
 作業に向かうのは諦めたのか、金属板を机の脇に追いやって(彫刻した箇所を筆に似た刷毛で丁寧に拭っていたところらしかった。粉末になった金属を取り除いていたのだろう)机の引き出しからティーポットとマグカップを取り出すダヴィドを見つめながら、机に両方の前腕を乗せた。

「マギスクリーバーもコンパスと定規無しで描ける?」
「勿論だとも」

 ダヴィドは簡潔にそう答えた。ティーカップを満たす水の音がする。コーヒー豆の香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。ダヴィドの背中越しに湯気が薄く立ち上った。
 淹れたばかりのそいつをそのままかさついた唇に持っていきながら、老人は言葉を続けた。

「その程度の能力も無い輩にマギスクリーバーなど名乗らせんよ。第一道具など使っていたら余計に時間を食うとは思わんかね。いつの世でもスクリーバーには人手が足りんのでね。俺は道具を使えとは教えんのだ」

 ずずっと音をたててコーヒーを啜った。こちらに背を向けているので彼の表情は分かりかねるが、眉を難しそうに顰めて唇を数度ちぱちぱと開閉させているのではないかと思う。ブラックコーヒーを飲んだ後、ダヴィドはいつもそうする。
 教会行政棟に道具がある――と聞いてから予想はついていたが(普段使用しているのならここに道具があって然るべきなので)、やはりダヴィドはそれらを使うことなく魔術道具を精製し続けているらしい。あの正確な弧と直線を、まさかフリーハンドで描いているとは……。フィクション世界で当たり前のように存在している能力者に出会ってしまった。サインを頂戴するべきだろうか。イタイ人間を見るような目をされそうなので止めておこう。代わりに別の言葉を口にする。

「マギスクリーバーになるのにはこう、何か特別なことでも必要なの? ルッソやコンティやマクシミリアヌスや、あと何だっけ。お偉いさんにもそういうのは作れないって聞いた」
「必要な事柄は無いさ。強いて言うなら素質とでも言おうか」
「素質?」

 頷きながらダヴィドはマグカップを卓上に置き、さっきと同じように体の半分をこちら側に振り向ける。木と陶器が触れ合う鈍い音がした。さっきから左手しか使ってないなと思ったら、もう片方のしわくちゃの手はシミのついた白衣のポケットにぞんざいに突っ込まれていた。

「自分の魔力が第一級か第二級かが遺伝で決まらないのと同じだよ。マギスクリーバーもまた、生まれ持っての運によって素質のあるなしが決められる。実際に魔術道具を作ってみんと素質を持って生まれたかどうかは分からんがね。中には十分な素質を持っていながら気付かず死んでしまった者もいるかもしれんな。ま、今の世の中なら子どもが精製出来るだけの年齢に達せば、大概の親が試させてみることだろう。何せスクリーバーの職業は大層高給なのでね」
「へぇ」

 知れず相槌を打っていた。
 第一級魔力。第二級魔力。スクリーバーの素質――。
 これら全てが遺伝など関係なく、運で決まる。ということは、マクシミリアヌスもダヴィドもルッソもコンティも、家系なんかは全く関係なく今の地位に就いているということだろう。家柄が良くて更に第一級魔力保持者で、となると多分話は別だろうけど。

「じゃあダヴィドも、昔に魔術道具を作ってみて知ったの?」
「そんなもんさね。当時はスクリーバーの素質を持った人間が老い先短い爺さん一人しかいなくてね、教会自らが魔術道具を作ったことのない国民を駆り集めて引っ張ってきたものさ。俺もそこで発覚した者のうちの一人でね」

 手を突っ込んでいたポケットから紙巻たばこを取り出して、老人は魔術式で火をつけた。ペン型をしていて、その頭で火が起きるようになっているらしい。上部にくだんの火の魔術式が掘ってあるのがちらっと見えた。普段は鉛筆なんかと一緒に胸ポケットに突っ込んであったから気付かなかったが、あれはライターだったのか。魔術式と魔力さえあればどんな形式でも構わないのだから、異世界から来た真佳としては少し紛らわしいなと思ってみたり。

「私もマギスクリーバーの素質があったりしないだろうか」
「ないね」

 ……一蹴。
 くそう、ちょっとくらい夢見させてくれてもいいじゃないか……。恨めしく思う感情を眼差しとして突き刺してみると、ダヴィドはぷうと煙を吹き出してとても難しい顔をしていた。煙草の刺すようなにおいが鼻と喉とを刺激する。

「お前さんはまずあの出来損ないの魔術式をどうにかしてみてはいかがかね。何度も言うがあんなアメーバ魔術式では素質があろうと術を発動させることなど――」

 またあのくどくどしいお説教が長々と始まるのかと少しうんざり気味に思った瞬間、
 がつん!
 という破壊的な音と共に扉が乱暴に開かれて

「マナカー! マナカはおるかー!!」

 ……。廊下側で犬が吠えた。
 脱力。ダヴィドのお小言から開放されたはいいがこれはこれで疲れる相手がやってきた――。マクシミリアヌス・カッラ。濃い髭を蓄えた大男。ダヴィドがこれ見よがしに舌を打って灰皿にまだ長い煙草を叩きつけた。

「君にはここが演習場にでも見えるのかね。そんなに大声を出さんでも聞こえる」
「おお、ダヴィド。今日もまた不機嫌そうな面をしているなあ、はっはっは。おおっ、やはりマナカもここにいたか。毎度毎度ここに閉じこもってばかりではモヤシになってしまうぞ!」
「勉強中ですー……」

 ささくれ立った机に突っ伏しながら抗議した。後頭部にダヴィドの半眼がぐっさりと突き刺さっているような気がしないでもない。手渡された専門書は既に閉じられたまま机の脇に放置してあるし。

「勉強もいいがな、マナカ。どうだ、もう少しこの世界を堪能してみたいとは思わんかね」
「……堪能?」

 机に片頬を押し付けたまま、反対側の眼でマクシミリアヌスの巨体を仰ぎみた。オシラの日――真佳の元いた世界で言うところの、多分土曜日――にも関わらず、相変わらず軍服に身を包んだままの彼は強面にいたずらっぽい表情を浮かべてふっふと笑う。

Si(スィー)、堪能だ」

 繰り返されても答えが見えてくるわけがない。
 木の温もりが大いに残った卓上から米噛みをひっぺがして、きちんと背筋を伸ばして改めて椅子に座した。そうして座っていてもやっぱりうんと顎を持ち上げないとマクシミリアヌスの顔は視界に入らない。

「具体的に、どーゆーこと?」
「簡単なことさ」

 両腕を大きく広げて彼は言った。段々分かってきたけれど、多分これはマクシミリアヌスの癖の一つだ。

「今この時期、この街では何をやっている? 祭りだ、祭り! 栄光なる謝肉祭だ! 折角この時期こちらにやってきたのだから、参加しない手は無いだろう? なあ」
「お祭り……」

 そういえば、四日前にルッソやマリピエロも言っていたっけ。ひたすら食べて飲んではしゃぐお祭り。異世界人について調べたいというのもあったし、それにその後更に興味深い魔術について知らされたからすっかり脇に追いやられていた。
 異世界のお祭り。
 始めこそ勉強のためにと断った真佳だが、全く興味が無かったわけではない。
 ちらりと視線をダヴィドに移した。
 老人は作業に戻っていなかった。多分話の腰を折られたことが気に食わなかったのだろうが、マクシミリアヌスの方を何やら忌々しげな表情で睨みつけている。それに全く気がついた様子もないマクシミリアヌスが何気に凄い。

「あ?」

 ダヴィドがこちらの視線に気がついた。

「あー、ああ、行って来れば良かろう。止めはせんよ。止める理由も無いからな。俺は別にお前さんを能動的に勉強に誘ったわけでもないんでね。好き勝手遊んできたまえ」
「ありがとう……ございます」

 何となく敬語。
 ダヴィドは機嫌が悪くなると関係ない人間までも部屋から追い出してしまうから始末が悪いのだ。

「よしよし! では明日、典礼が終わったのちすぐにでも」
「典礼?」

 って、なんだっけ? 聞いたことがあるような気もするが、あまり馴染みのない言葉だったので忘れてしまった。
 既に部屋を出かけていたマクシミリアヌスが、戸口のところで立ち止まって半分だけこちらを振り返った。

「週に一度の感謝の祭儀だよ。明日は神が太陽となった、記念すべきダガズの日だからな」

 当たり前のようにそう言って、彼は部屋から出ていった。



神が太陽となった日

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