埃っぽい場所だった。
 こうして地面に近い場所で蹲って息をしていると、埃が鼻や口に入ってきているような、そんな奇妙な感覚にとらわれる。実際はどうか分からないのに、鼻の奥から埃のにおいがするような。
 でも、フランキスカにとってそこはとても楽しい場所だった。
 埃は冒険譚なんかには絶対付き物の小道具で、長い年月の末色の焼けた床板もシンと静まり返った停滞した空気も、天井からぶら下がる数個しかない豆電球の頼りない明かりも全てが全て、フランキスカの冒険心を絶妙な具合にくすぐっていく。くすくすくす。と、笑い声を漏らした。秘密基地みたいだ。ならばフランキスカの背後に聳えるどっしりした本棚は、差し詰め侵入者から身を護る防壁みたいなものだろうか。
 幼稚園の友達も知らない、あたしだけの凄い隠れ家。くすくすくす――また笑い声が漏れたとき、キィと扉が開く音がして慌ててパチンと両の手のひらで口を覆った。隠れてなきゃ駄目だったのに。うっかり声を出してしまった。見つかったら連れ戻される。ここはフランキスカの隠れ家だけれど、隠れ家の主は絶対的な存在ではない。
 こつん、こつん、こつん――靴音がする。古い木の床をゆっくりと――どちらかというと怠惰に歩いてくる音。思っていたものよりも靴音が軽い……ことにフランキスカは気がついた。ひょいと影が本棚を通り越す。豆電球に釣られてゆらゆら揺れる。影の顔のところが、こっちを向いた。

「おや、お姫様じゃねーの」

 本棚から顔を突き出したその人物に覚えがあった。軽い整髪料で毛先を遊ばせたススキ色の髪、青い目、ひしゃげた煙草を咥えた口周りにはまばらに散った無精髭が生えている。

「マリピエロ!」

 舌っ足らずな肉声でもってフランキスカは絶叫を上げた。しっ、と鋭い吐息と共に煙草の煙が遠くへ飛ぶ。立てた人差し指を口端にあてがって、芝居がかった調子でじっと左右を見回して

「大声出しちゃならねぇ、フランキスカ。父ちゃんから逃げてんだろ? 見ぃーつかーるぜー?」

 変なリトモ(リズム)を伴った、低い低い忠告だった。スピーア(スパイ)にでもなったみたい。それが何だか可笑しくて、フランキスカはプッと笑った。マリピエロはいつも可笑しい。マリピエロはいつも楽しい。陽気な色がたっぷり染み込んだ顔貌で、彼はフランキスカにつられたようにニッと笑った。腰を屈めて、フランキスカの頭を撫でる。

「改めてお姫さん、今日も燃え盛るほどの赤髪実にお美しい。太陽がもう一個、ここに生まれい出たみたいだ。おや、いつもと髪型が違うようだぞっと」
「マンマにやってもらったの! ピッグテイル(ツインテール)! 可愛いでしょう!」
「ああ、可愛すぎて視界に入れたら目玉が潰されてしまいそうだ。流石フランキスカ。大人になったときが怖いなあ。きっと今よりもっと美人になっていることだろう。誰もが振り向くくらいにな。ああ、勿論、今も十二分に魅力的だが。若葉色のヴェスティート(ワンピース)、髪によく映えている」

 ゆるゆるゆる、と頬が緩む。緩んで緩んで、ついにぱっと破顔した。「ありがとう、マリピエロ!」――お洒落をしたらしただけ、目一杯の賛嘆を送ってくれる。努力を全て肯定してくれる。だからフランキスカはマリピエロが好きだし、マリピエロの前でお洒落をするのがとても好きだ。もっともっと頑張りたくなるもの。

「しかしお姫さん、こんなところで出会うとは全くもって奇遇だな。さっききょろきょろと君を探しているお父上に会ったが、また逃げまわっているのかい?」
「そうよ。だって、教会はつまんないんだもの」

 そう言うとマリピエロは少し苦笑した。あまり人が大勢いる前で言うんじゃないぞ、と、やんわりした助言がフランキスカの鼓膜に浸る。フランキスカは大人ぶってその小さな肩をちょいと竦めた。
 父と一緒に教会に行って、父の仕事が終わるまで教会でお世話になっておくこと――というのが、フランキスカが賜った極秘任務の内容だった。母が身重で、それを過剰に心配した父によって講じられた策である。謝肉祭の間、幼稚園はお休みだから。
 もう赤ちゃんの性別まではっきり分かるくらい、母のお腹はぐんと成長しているらしい。いつ生まれるの、と母に聞いたら、もうすぐよ、と返答がきた。お腹を撫でさせてもらったら、赤ちゃんがお腹の中で動いているのがすぐに分かった。――弟が出来るんだ。そのこと事態は喜ばしい。あたしはお姉さんになるんである。誇らしいことだ。“お姉さん”は大人の証だもの。
 しかし、それでも教会がつまらないことは変わらない。同年代の友達は皆謝肉祭に出かけているから遊び相手がそもそもいないし、となると出来ることと言ったら読書かお昼寝に限られる。いざ読書に向かおうとしても教会に置いてある書物のレペルトーリオ(レパートリー)ったら最悪で、胸踊る冒険譚を描いた書物の代わりに、すっかり見飽きた聖書がでっぷりした体躯をぎゅうぎゅうぎゅうと押し込んで本棚に鎮座していたりするのだ。聖書じゃあ暇つぶしにもなりはしない(後で修道女に子ども向けの絵本を勧められもしたが、絵本であっても聖書は聖書だ)。
 ――本日、謝肉祭二日目。
 フランキスカ目線で言うなら、教会に預けられることになって今日でやっと二日目である。これが謝肉祭が終わるまでの一週間、ずっと続くことになっている。当然一日目で懲りたので、教会行政棟にて父と昼食を共にした後、トイレッテ(トイレ)に行くフリをしてこうして逃げ出してきてしまっていた。もうお姉ちゃんなんだから、と叱られるだろうか。でも、だってつまらないんだもの。
 こういうことは何度もあった。理由は今とは違うけれど。ただ、父の職場に来たことが楽しくて帰りたくなくて逃げまわって。マリピエロはその時出来た知り合いの一人だ。他にも何人かの人と知り合った。

「ま、気持ちは分からんでもないがね。俺も教会は苦手だ」

 咥えタバコの不明瞭な声音で言って、マリピエロはすっくとその場で立ち上がった。煙草のにおいがふいと遠のく。……何か仕事の関係だろうか。今日のマリピエロは、どうやらあまりフランキスカに構う余裕が無いように思う。
 薄く積もった土埃を軍靴の裏がざりっ、と擦る。狭い部屋だ。端から端まで歩いて行っても十歩いくかいかないかというくらいで、だからどうせ昔の資料か何かが無造作に突っ込まれているだけの書物庫だろうとずっと思っていた。
 ぐるりと部屋の周囲を巡る本棚とは別に、六つの書架が二列になって扉の付近に佇んでいる。奥に少し空いたスペースには申し訳程度の机と椅子。フランキスカが隠れていたのは机に近いところにある本棚の右側で、マリピエロが立ち止まったのはその反対に位置する書架の方。
 大きな人差し指が順々に、本の背表紙を追いかけていくのが見えた。口の中で何かもぐもぐと呟きながら律動的に動かされる一本の指。ここへ来たのはきっと本を探すためだろう。それも恐らく早急に(いつもは仕事なんてそっちのけでフランキスカの相手をしようとする人間が、自ら進んで作業に戻る必要に駆られるくらい早急に!)。
 ほんの少し、逡巡してから口を開いた。

「ねぇ、マリピエロ。マリピエロは一体何を探してるの?」
「ん? ああ」一度こっちを一瞥して、軍服に身を包んだその男は本の背表紙をつ、と撫でる。そして言う。「――異世界人に関する資料を少し」

 ぱっ、
 とフランキスカは目を見開いた。

「異世界人? ここには、異世界人のお話があるの?」
「ああ。異世界人だけじゃないぜ。異世界に関する書物を全て集めた、ここはそういう書庫だ。全部と言っても元々資料が少ないからな。これだけしか無い、が――」
「十分すぎるわ!」

 沸き立つ熱情を抑え切れなかった。豆電球の放つ光の輪が、若しかしたら少しばかり押し広げられたんじゃないかしら。それだけさっきとは見ている風景が違って見える。特別に見える。
 マリピエロはフランキスカのレアジオネ(リアクション)に軽く苦笑し、肩を竦めただけだった。反応らしい反応と言えばそれだけで、彼が探索を再開するのに多分二秒とかかっていない。けれど今のフランキスカにとって、それはどうでもいいことだった。
 ――異世界人のお話。
 それは幼い頃から何度も何度も聞かせてもらった、本当にあったお伽話。冒険譚や秘密基地に憧れるフランキスカにとって、異世界のお話は正しく夢の世界だった。どのお話もきらきらしていて、ページを繰る度にわくわくした感情が体の奥から湧き上がる。マリピエロが言うように元々資料が少ない本。異世界を描いたフィクションものはそうでもないが、異世界の事実を綴る資料としての書籍はと言うと……以前に出たものの改訂版が書店の一画を埋め尽くしていることがとても多い。書店に並ぶ純粋な別物たる資料本は、きっと五種類いくかいかないかというところだろう。
 なのにそれが、こんなにもあると言う。
 この部屋の全部がそうだと言う。
 胸を高鳴らせないわけにはいかなかった。
 跳ねるようにしてマリピエロの元まで歩み寄った。足を踏み出す度埃が息を吹き返し、そいつが眼前を雪片みたいにふわふわ舞う。
 顎をうんと持ち上げて
 彼の顔を真下から真っ直ぐ覗きこみ、きらきらした目で。

「マリピエロ、あたしもその本、」

 カチャリ、……と、扉が開く音がした。
 首を振り向ける。「あ」と思わず声をあげる。簡単なアッチアイオ(スチール)の本棚は、本が仕舞われていない隙間から容易に向こうを見通すことができていて、そこから一人の男の姿が見えたのだ。顔の上半分は棚と本が邪魔でフランキスカの目には入らなかったが、あのオルサキォット(テディベア)にも似たどっしりしたお腹と体躯、見慣れたカップッチョ(フード)付きのマンテッロ(マント)――。
 父だ。間違いない。
 迂闊にも声を上げたことでどうやらあちらにも感づかれてしまったようで、父の顎がこっちに固定され様するすると本棚の間を抜けてきた。逃げ場は無い。どうせ見つかってしまったのだし、逃げるつもりは無いけれど。教会へ行きたくないのは確かだが父を必要以上に困らせてしまうのは本意ではない。
 本棚の影からぬっと父が顔を出し、フランキスカと揃いの真っ赤な毛髪が豆電球の安い光に晒される。腫れぼったい瞼と活力の無い灰色目、それにへの字に固定された口元から無愛想な印象を与えると専ら評判の顔かたち。実際父は寡黙でぶっきらぼうな人なのでその評価は間違ってはいない。けれど、誰より優しいことをフランキスカは知っている。
 その父が、
 マリピエロの姿を確認するなり、フランキスカもびっくりするくらい剣呑な光を瞳に宿して眉根を寄せた。

「准尉」と父が言う。明らかにマリピエロの肩章を確認しながらの、いつものぼそぼそした声で。「何故ここにいる?」
「……それは、アンタ方がよく知ってるんじゃねぇのかな、ボニファティウス・カルドゥッチさん?」

 対するマリピエロの言も冷淡で、それにもフランキスカはびっくりした。びっくりとすると同時に戸惑った。父のこんな目もマリピエロのこんな声も、フランキスカは知らない。見たことがない。
 マリピエロは治安部隊棟で働く治安部隊員、父は教会行政棟で働く運命鑑定士(要するに占い師)だが、二人とも初対面では無いはずだ。こうして父の元を抜けだしてマリピエロや他の治安部隊員と共にいるところを発見されるのは初めてのことでは無いし、困ったような顔こそすれ治安部隊員に対して怒ったりはしなかった。父のことだから、マリピエロの顔を忘れている可能性は大いにあるけれど――それにしたって。
 ふ、
 と。マリピエロの鋭い眼光が不意に緩んだ。

「冗談、冗談。そんな怖い顔しなさんなよ、カルドゥッチ。俺ぁただ単に、暇つぶしに異世界人に関する書物を漁ってただけだぜ、なあ? 他にどんな理由があるって言うんだ(・・・・・・・・・・・・・・・・)?」

 今度は父が視線を外して不穏な空気をかき消す番だった。「……そうだな」通りの悪い声で言う。彼らが言外で一体どんな会話を交わしたのかフランキスカには全く理解出来ないが、ピリピリした空気が例え継ぎ接ぎであれ元に戻ったのは喜ばしいことだった。そっと安堵の息を吐く。
 ――マリピエロにくしゃりと頭を撫でられた。目を瞠る。彼の指が結わえた頭髪をそっと撫でる優しい感触にどきりとした。フランキスカの心を読んだんじゃないかと思うくらい、何とも絶妙なテンピズモ(タイミング)。

「それじゃ、俺は戻るぜ。そろそろ戻らねぇと監督官たる少尉殿にど突かれるんでね」

 最後にぽんぽんとフランキスカの頭を撫でて彼は言った。言葉尻が放たれるのと、彼がフランキスカの脇を過ぎるのとは同時だった。ゆったりした歩き方。怠惰を孕んだ歩き方。
 出口へ向かう彼を父の方も止めはしない。ただ一歩退いて、角を曲がったマリピエロの背中をじっと見据えているだけだった。本棚の影に隠れてしまってフランキスカの側からはマリピエロの全身は見通せない。一度消え失せた警戒心みたいなものが、思い出したようにちらりと父の表情を走ったのは……果たしてフランキスカの気のせいだったろうか。

「マリピエロ」

 父が名を呼ぶ。書架の隙間、マリピエロの大きな背中が振り返った。それを慌てて覗きこむ。マリピエロは父より上背があるため、顔半分どころか首から上が見当たず表情の変化は分からない。少しシワのある軍服がただ無感情にこちらを見返しているのみで、それにひどくやきもきする。
 どうやら父は、マリピエロの存在を忘れていたわけでは無いようだった。

「あまり首を突っ込みすぎるなよ」

 父が言う。何のことかフランキスカには分からない。
 はっ、と、マリピエロの方で笑うような呼気の音。

「ご忠告痛み入るがね、カルドゥッチ。俺ぁ自分がやりたいことをやるだけだ」

 最後に片手を上げておいて、マリピエロは書庫の中から一足先に去ってしまった。短い会話。マリピエロは一体何に首を突っ込んでいると言うのだろう。フランキスカが聞いたところで、きっと誰も答えてなどくれないけれど。
 父の顔をそっと見上げた。父はいつになく真摯な瞳で、マリピエロが消えた扉の向こうをじっと、静かに見つめていた。



我執その三

 TOP 

inserted by FC2 system