教会本部は真佳が思っているよりもずっと広いが、方向音痴にはありがたいことに分かれ道の無い一本道の建物だ。おかげで最初に連れてこられた執務室も、食堂の在処も自分の部屋も、全て苦もなく道筋を思い出すことが出来る。ダヴィド・エヴァンジェリスティという人間の仕事場兼私室についても、脳裏に刻みつけるまでもなく記憶出来るだろうと思われた。
 治安部隊棟一階――。食事が終わるや否や、膨らんだ腹を抱えた状態のままルッソとマクシミリアヌスにここまで連れてきてもらっていた。マクシミリアヌスの執務室がある階で、片側に並ぶ扉とシャンデリアの灯りに、真佳としては若干の懐かしさを感じないでもない。昨日のことだけど。……昨日のことなんだよな。改めて思った。色々なことがありすぎて、もう何週間もここにいる気がする。
 あいつ、大丈夫かな。
 自然と自分の元いた世界に残してきた友人のことを考えていた。

「マナカさん」
「はい?」

 目をきょとんと見開いた。呼びかけにというよりは、不意に飛び込んできたルッソの顔の方に驚いた。隣で足を動かしながら、ルッソは上半身だけをこちらに傾けて上目遣いで見上げるというなかなか器用なことをしている。
 何となくマクシミリアヌスの方に視線を投げると、彼は真佳らより二歩くらい先を歩いていた。振り返る気配は無い。

「緊張してます?」

 ルッソが姿勢を戻して言った。真佳もつられるようにそちらに視線をシフトしながら、頭半分で考える。緊張? 尋ねる前にルッソが口を開いた。

「カッラ中佐はああ言いましたけど、ダヴィドさんはそれほど怖い人では無いですよ。ええと、そりゃ確かにその、きっぱり物を言うし目付きは鋭いし偏屈な人ではありますが……」多分真佳じゃなかったら相手は一層不安になるんじゃないかと思う。何と言っていいやら分からないのかそこで言い淀んでふくよかな頬をルッソは掻いた。「……悪い人では無いです」

 締めくくられた言葉に、少しだけ真佳は微笑った。幼馴染に似てると思った。背格好や全体の雰囲気は違うけれど、こうやって気を遣ってくれるところ。人の悪口を言わないところ。

「うん、ありがとう。でもだいじょーぶ。あまりそーゆーのは心配してないから」

 笑って言うと、ルッソは安心したようにくしゃりと頬を綻ばせた。
 前方に視線を戻すと先の見えない長い廊下がまだまだずっと続いている。マクシミリアヌスが立ち止まる気配は無い。このままでは治安部隊棟唯一の曲がり角――八角形の線をぶった切ったような建物なので一本道なのに代わりは無いが――にぶち当たることになるが……まさか角部屋? マギスクリーバーっていうのはそんなに優遇された職業なのだろうか?
 マクシミリアヌスの背中に目をやった。広い背中だ。多分真佳が二人並んでようやく横が足りるくらいの。
 その前方から、軍人が二人こちらに向かって歩いてくるのに気がついた。マクシミリアヌスの背に隠れられるようにさり気なくコースをずらす。幸いにもあちらは真佳という名の珍客には気が付かなかったようだった。或いは目にも入っていなかったのかもしれない。マクシミリアヌスの姿を認めるや否や、談笑をやめて慌てたように踵を合わせて敬礼したので。左胸に右拳を当てるという少し代わった敬礼だ。
 階級章がルッソやコンティと同じなので多分少尉だろうか――マクシミリアヌスはそれに片手を挙げて応えただけだった。彼らを過ぎたところで、緊張の糸が緩んだような気配が後ろでした。
 広い背中をじっと見つめる。この静かな廊下で、真佳とルッソの会話が聞こえないわけはないので多分さっきの会話も聞こえていたんだろうと思う。
 少し考えて口を開いた。マクシミリアヌスに向かってではなく、ルッソに向かって。

「ああいうお皿って、誰でも作れるわけじゃないんだね」

 質問と言うよりかは確認するみたいな言い方になった。透明性のある皿に同化するように引かれた魔術式――。それを作ったのがマギスクリーバーという職に就いた人間で、そいつの部屋が玄関ホールから遠いところにあるということは、多分この国でも特別扱いされるものなのだろうと思う。特別扱いされるということは階級が高いと言うことだ。階級が高いと言うことは――それ相応の理由がある、ということ。
 隣に並んだルッソは、極々気軽に頷いた。

「ええ、そうですね。僕にもコンティ少尉にもカッラ中佐にも、それに教会の偉い方にだってマギスクリーバーの職にはつけないほどですから。この街にも、ダヴィドさんを含めて二、三人いるかいないかってところですね」

「そんなに」少ないのか、と真佳は目を瞠った。なるほど、特別扱いされるわけだ。マクシミリアヌスがダヴィドとかいう人を選んで真佳を連れて来たのにも合点がいった。

「おお、ここだここだ」

 唐突に独りごちたかと思ったら、マクシミリアヌスは数歩先、真佳の目にも十分見えるくらいの扉に向かって軽く駈け出していた。いつの間にカーブを超えたのだろう。そこは真佳の想像していた通り、角部屋にあたる扉だった。

「諸君!」

 マクシミリアヌスが声を張り上げた。
 玄関ホールにまで響き渡りそうな大声で(ルッソが隣で猫の子みたいにびくっとした)、それから何をするかと思ったら

「ここが目的の地! ダヴィド・エヴァンジェリスティの研究室兼私室である!!」

 右足の踵を軸に三百六十度一回転! こっちに向きあうのと同時に、ババッ! っとばかりに両腕を広げて、舞台に出てきた男優の如くキメ顔で一時停止――

「うるせぇ!! いちいち言動が大袈裟なんだよ貴様は!!」
Ahi(アイ)!!」

 開いた扉の隙間から飛び出した腕にしこたま顔面を叩かれていた。マクシミリアヌスの方が腕の主より三十センチくらい高いのでそういう具合になったのだろうが、それにしたって顔面に手のひらを叩きつけるというのは……。大の大男が両手を顔面にやって呻く様を同情的な視線でもって見守った。
 つばを吐くような音が隣でした。
 廊下の赤い絨毯の上に落ちた、使用済みの爪楊枝にしばらく視線を落としてから目線の先を持ち上げる。

「異世界人か」

 確認の言葉はそれだけだった。「そうです」と真佳は応じた。
 ダヴィド・エヴァンジェリスティ――マクシミリアヌスが研究室兼“私室”と発言したことから予想するに、多分今真佳の目の前に立っているのがそのダヴィドだ。大分後退して額が広くなった短い白髪に、シワに埋もれたしわくちゃな顔。年のほどは五十代後半辺りだろうか。骨ばった鼻に、横に細い眼鏡が乗っている。確かアンダーリムとか呼ばれているフレームだったように思う。何が気に食わないのか、眉間に深く寄せたシワと“へ”の字にひん曲げられた強情そうな口元が、周囲の人間を寄せ付けないよう働いているように見えた。ワークパンツもラフなTシャツもその上から羽織っている白衣も、何日洗濯していないのかと思うほどよれて少し黄ばんでいる。
 ふん、と老人は鼻を鳴らした。あっちの方も随分こちらを観察していたようだった。細められたダヴィドの黒目が、真佳の頭からつま先までを何往復かしていたので。

「で、何だ。魔術について聞きたいって?」
「あ、え、はい」

 まっすぐ真佳の方を見て言われたのでつい頷いてしまった。老人は枯れ枝みたいな腕を組みながら、戸口に寄りかかってあからさまに舌を打った。

「全く、何で俺が選ばれにゃあならんかったのか甚だ疑問だね。マギスクリーバーなら他にもいたろうに、ああ、光栄光栄。――マクシミリアヌス。あんたは知らんかもしらんがな、俺は最高に忙しいんだ」
「まあ爺さん、そう言いなさんなって」

 横から入ってきた野太い声に視線を振り向ける。顔面を片手で押さえたマクシミリアヌスが、丁度この世界の言葉で何とか言って顔をしかめながら大きな手を顔から引っぺがしているところだった。ライオンみたいな凛々しい顔には立派な紅葉の葉がへばりついている。かなり強い力で叩かれたらしい。鼻の位置に違和感でもあるのか、折り曲げた人差し指と親指でそいつをつまんで動かしながら彼は何やら難しそうな顔をした。

「あんた以外の適任がどこにいる? 確かにここにマギスクリーバーは他にもいるが、どれもあんたより一世代後の連中ばかりだ。最近ここに就いたばかり故到底人に物を教える余裕はあるまい。忙しいのはよぉっく分かるが、面会の約束は取り付けただろう?」

 肩越しに後ろを振り返る。当の“面会の約束を取り付けた”ルッソは、ふくよかな頬にひきつり笑いにも似た愛想笑いを張り付けてダヴィド老人を見据えていた。悪い人ではないと言ってはいたが、それでもやっぱり怖いらしい。
 ダヴィドは「ふん」と横柄に鼻を鳴らしただけだった。それから戸口から一歩下がって、

「入れ」

 短く言う。
 真佳はマクシミリアヌスと顔を見合わせて、二人同時に肩を竦めてからそっと中に足を踏み入れた。



魔術学入門



「わあ」

 踏み入れたと同時に小さな感嘆の言を漏らしていた。魔術師か錬金術師の部屋みたい。ダヴィドは実際のところ魔術師に分類される人間なので、“みたい”という表現はおかしいけれど。
 マクシミリアヌスの執務室ほどではないが、それでも十分ごちゃごちゃした部屋だった。家具らしきものは木製の本棚と机、それに椅子くらいしかなく、机と本棚は研磨処理がされなかったのかところどころ毛羽立っていて、少し触れただけで怪我をしてしまいそうだ。本棚の中には詰め込まれすぎてぱんぱんに膨れ上がったファイルが圧倒的スペースを占めており、一番上段に僅かばかり並んだハードカバー本も(タイトルは正確には読めないが)全て魔術の専門書らしかった。
 一番奥、窓際の傍に置かれた作業机の上に興味深いものが乗っている。宝石鑑定人や機械式時計の中を見たりするのに職人がよく持っている、ヘッドルーペというやつだ。レンズの部分は左側だけの単眼で、おまけに顕微鏡のリボルバーを丸ごとくっつけたみたいにそれぞれサイズの違う対物レンズじみたものが三つ付属している。作業の途中だったのか、平らな鉄板と湯気の立ったマグカップがルーペの横に置かれているのが見えた。机の隅の方には本棚にあるような専門者やファイルが、丁重と乱暴の中間くらいの扱いで立てかけられている。
 右側に扉の形の空洞が開いていた。その先にも部屋があったが、多分そっちはダヴィドの“私室”の方。
 そんな中で何より目を引くのが――

「これ全部魔術式?」

 私室と研究室とを分かつ壁にかかった紙を、一枚だけ人差し指の腹で持ち上げてみた。ダヴィドはちらとこちらを見ただけで、特に注意らしきものはしなかった。触ってもいいものらしい。

「仰るとおり。全て効果は違うがね」

 慇懃無礼な色を含ませてダヴィドは骨ばった肩を小さく竦めた。冬風に晒されながらも頑固に枝に張り付いている枯れ葉を彷彿とさせた。作業机とは違う、部屋の真ん中に置かれた大テーブルの椅子に、ダヴィドはよっこらせと腰を下ろす。こちらの机も勿論毛羽立っている。
 壁には一面の紙切れがあった。
 魔術式が描かれた紙。
 どれもほぼ正方形の色とりどりな小さな紙で、それがところ狭しと壁の白い部分を埋めている。紙の上に紙を貼っているものも珍しくなく、そういう理由から多くの紙が壁から六センチは離れた場所まで膨れ上がってしまっているのが大半だった。まるで魔術式の辞典みたい。こんなにいっぱいの、それも効果が違う魔術式があるというのは真佳の胸を無条件で高鳴らせた。

「で、あんたたちはそんな紙切れを見物するためにわざわざご足労くだすったんで?」

 この部屋の本棚みたいにささくれ立った物言いにちくちく促されて、渋々壁から離れることにした。ダヴィドの向かいに座る際、同じように部屋を見回していたらしいマクシミリアヌスとルッソが照れくさそうに苦笑していた。

「さて」

 ダヴィドが言う。

「出来ればそちらから質問してくれるとありがたいのだがね。俺は積極的に懇切丁寧他人に物を教えてやるような頭のふやけた人間ではないので」

 そう言って彼は皮肉げに片方の肩を竦めてみせた。真佳の左隣に腰を下ろしたマクシミリアヌスが、何でそんな言い方しか出来んのかねという顔で渋面した。

「じゃあ、私が魔術を使う方法について。さっきマクシミリアヌスと話していたとき、魔術は私にも使えるって聞かされたんだけど――単刀直入に聞く。どうしたら使うことが出来ますか」

 ダヴィドはシワに埋もれた顔を少しも動かすことなく、白衣かズボンのポケットから無造作に紙片を取り出して、
 バンッ!
 叩きつけるようにテーブルに置いた。右隣でルッソが面白いくらい肩を震わせたのが気配で分かった。どうやら目の前の老人は見かけ以上にこの状況に苛立ちを感じているらしい。
 ダヴィドが持ちだしたのは四つに折られた正方形の紙だった。あまり質の良くない、荒い羊皮紙だ。ダヴィドに問いかける視線を送ったが口を開く気配が無かったので、テーブルの上に広げて見ることにする。

「魔術式……」

 呟いた。羊皮紙に描かれていたのは正しくそれで、二重真円の中に一回り小さい正方形と、山括弧を二つ組み合わせた類のものが描かれてあった。山括弧がお互いにもう少しずれていたら、綺麗なバツ印が出来ただろうにと思う。
 これが一体何を意味するのか、視線を跳ね上げることでダヴィドに問うた。

「魔術式に指を添えて念じるだけだ。それだけでいい」
「念じる……って、何を?」
「内にある魔力を形にすることを」

 呪文みたいに言われて真佳は少し困惑した。顎に指を添えて難しい顔を取り繕い、しばし羊皮紙の魔術式と睨めっこしてみる。マクシミリアヌスやルッソから助言が飛んでこないということは、ダヴィドの言は別段不親切というわけでもないのだろう。
 魔術式の縁に指の腹を引っ掛ける。羊皮紙のざらついた感触を強く感じた。一体どんな媒体で描かれているのか、魔術式が描かれているところだけざらざらした感触を感じない。
 息を吐く。
 念じてみる。
 魔力を形にする想像。
 流れる海水が半ばでうねりぶつかり合い融合し、シーサーペントが鎌首をもたげるかの如く生成された水龍が天を仰ぎ強く高く咆哮する――
 ボッ
 と、
 炎が爆ぜるような音がした。

Complimenti(コンプリメンティ)!!」

 マクシミリアヌスがトーンの高い声で言う。多分今のは賞賛された。
 目を開ける。目の前に座った老人が、くしゃくしゃの煙草箱から紙巻煙草を一本唇で引き抜いた(建物内は禁煙だったように思うが、どうやらこの老人も規則を遵守する気は無いようだ)。
 羊皮紙を見つめて目を瞠り――

「……魔術――。これが」

 囁くように呟いた。
 魔術式の少し上、空中に浮かんで燃える炎があった。炎と言ってもそんなに過激なものではない。丁度充填式ガスライターか何かを着火したみたいな、大きくも小さくも無い無害な火だ。魔術式に触れたままの真佳の指に牙を剥く様子もない。
 真佳の呟きに答えたのはダヴィドだった。魔術式の上に現れたそいつで煙草に火をつけて、少し不明瞭な声で彼は言う。

「そう。それが自身に宿った魔力で魔術を扱う、最も基本的な方法だ」
「ってことは、応用もあるんだね」
「当然。ちょっと念じるのをやめてみてくれんかね」

 言われた通りに思考回路から水のイメージを除いてみると、そいつはあっけなく掻き消えた。魔術式や羊皮紙にこげついた跡は一つも無い。

「異世界人。あんた、火が出来るのに必要なものは何か知っているかね?」
「火?」

 きょとんとして聞き返してから、羊皮紙から離した指を顎に当てて考えた。理科は得意ではなかったけれど、確か――

「えーっと、燃料と酸素と……」……なんだっけ?
「熱だ馬鹿者」

 ダヴィドのぶった切るような助け舟。「はは」思わず誤魔化し笑いが口をついて出たが完全に空笑いに終わった。だから勉強は得意じゃないんだって。
 老人は煙草の煙を曲がった唇から吐き出して、ため息を吐いた。それでもありがたいことに説明をやめる気は無いようで、指の間に煙草を挟みながら言葉を紡ぐ。

「火に必要なのはその三つ。さて、酸素はそこらに転がっているとして、他二つはどこから来るか? ――答えは単純だ。魔術式。そこの」と彼は真佳の前に広がったままの羊皮紙を指さして「円の中にある記号に、それぞれの役割がある」

 羊皮紙を覗き込む。うねった黒髪が視界の端を侵食して邪魔だったので耳にかけた。ダヴィドは痰の絡んだ咳を一つしてから先を続けた。

「まず燃料。これは円の縁ぎりぎりにまで描かれた真四角のそいつだ。それが燃料の代わりをする。次に熱。もう分かるな。円と四角以外の記号。Xが崩れたみたいな。そいつが熱だ。便宜上カーミン・ピ・リッピと呼ばれている図だが、こいつはあんたの人生にそう影響を及ぼすものでもなかろう。忘れて構わん。
 以上熱に必要な三つを表す記号に、魔術式を表す円と発生のエネルギー、即ち魔力が加わることで火が作り出される。無論魔術式のどれか一つでも欠ければ術は成り立たず霧散する。それはどんな魔術式にしても同じことだ。
 これを基礎とした上で、特定の文字や記号を魔術式に描き加えることによってより強力な魔術を生じさせることが出来るというわけだ。これが、あんたがさっき俺に尋ねてきた応用」

 それからダヴィドは燃料を補給するみたいにもう一度煙草に口をつけて、大きく吸った。煙草の先端が赤く煌めく。
 改めて魔術式を覗き込む。それまでワケの分からなかった記号の意味を教えられたこの感覚は、初めて英語について学んだときのものとよく似ていた。絵の羅列にしか見えていなかったアルファベットの意味を知ったときの、世界が少し広がったようなあの感覚。
 火を発生させたことが基礎だと言うのなら、応用を重ねることで先刻マリピエロが出現させたあの氷龍を自身の手で生じさせることも可能なのだろうか。どうしてもああいうのをやってみたい。そう口にすると、しかしダヴィドは「ああ、そりゃ無理だな」とあっさり真佳の希望を打ち砕いた。

「誰かから聞かなかったのか。魔力は人によって指紋のようにその詳細は異なるが、大まかに分けて二つの種類がある」

 二本、節くれだった指を立ててダヴィドは言った。そういえばルッソも、最初に種類が違うとかどうとか言っていたような気がする。

「一つ目はあんたや俺や、そこにいるルッソが持っているような魔力。こいつは霧のように弱々しく、様々な属性がより集まったもんだ。俺は見ることが出来んが、見える奴には黒とか紺とかの暗色系の色として見えるらしい。大抵の人間が持ってる魔力はこいつだな」

 そこで一旦言葉を切った。長台詞が鬱陶しいのか、そもそもの顔つきからか、眉間に刻まれたシワは少しも緩む気配が無い。

「で、二つ目。あんたが言うマリピエロやマクシミリアヌスが有している魔力だが、こいつは魔力そのものが力強く、氷やら炎やらのいわゆる“属性”と呼ばれるものが存在する。普通属性は一つだが、二つ持つ奴も稀にはいるな。マリピエロのように氷の属性を持っていれば氷の魔術しか扱えん。しかしそれでもとんでもないことは確かだ。何せ簡単な魔術式だけで相当な魔術を展開することが出来るんだからな。俺らにとってみりゃバケモンさ。属性の他にもう一つ、“眷属”ってなもんもあるが、ややこしくなるんで割愛だ。で、俺は」煙草を吸って吐くだけの時間を置いてから、「前者の一般人が有する脆弱な魔力でも魔術を容易に扱うことが出来るよう、紙やら陶器やら鉄やらに魔術式を描き込む仕事をしている」

 両脇に座ったマクシミリアヌスとルッソに視線をやった。二人にとってこれは常識中の常識らしく、どちらともゆったりと腰を下ろして――時折ぼーっとした顔で壁際に目をやったりしながら――ダヴィドの講義を聞いているようだった。
 私には氷龍は出せないのか……。ちょっとだけがっかりして息を吐いた。
“眷属”。聞いてみたかったが、どうやらダヴィドには話す気は無さそうだ。この場では諦めることにする。どうせ知る機会はいくらでもある。
 話のしすぎて喉でも乾いたのだろうか。作業机からダヴィドがマグカップを引っ張り寄せてきた。香ばしいコーヒー豆の匂いが鼻孔をくすぐる。ずずっと音を立ててそいつをすするダヴィドに向かって、気持ちを切り替える意も込めて真佳は口を開いた。

「脆弱な魔力でも容易に扱えるように――ってことは、私たちの魔力にはこーゆー」魔術式が描かれた羊皮紙を一瞥して「マギスクリーバーの描いたグッズが、絶対に必要ってこと?」
「その通り」

 喉仏を上下させて口内のコーヒーを飲み下してからダヴィドは小さく頷いた。

「何せ俺らの魔力にはその程度の力も無いんでね。魔術式の強さで底上げしてやらんとどうしようもないし、そいつを引き出してやるのは簡単なもんじゃない。それを無理矢理引っ張り出してくるマギスクリーバーには、持って生まれた才能と十分すぎるほどの知識が必要になってくるってわけだ。おまけに、ほれ、さっきも言っただろう。魔力の性質は人によって指紋のように微妙に違う。そのどいつもが使えるような魔術式を生み出すのも俺の仕事だ。そりゃあ俺がいなけりゃ全く魔術が使えないってぇことは無いが、お前さんが自分でさっきの魔術式を真似て描いたところで一瞬火花が散るくらいの結果しか出んよ」

 そう言ってダヴィドはここへ来て初めて笑った。片頬を歪めただけの皮肉げな笑顔だったが。
 煙草の先を上下させて改めてそいつを口へ運ぶ。ニコチンのツンとした臭いが鼻をつく。紫煙がゆるりとたゆたって天井を埋め尽くしていく。その様をぼんやりと眺めながら、真佳は一つ嘆息した。本の中の世界みたいに、ちちんぷいぷいで誰でも何でも出来るわけじゃないらしい。やっかいなもんだ。ダヴィドが煙草をくゆらせながら喉の奥でくつくつ笑う。どうやらこちらがため息を吐いたのを見咎められたらしかった。

「そう悲観に暮れんでも、この男にも」と老人は煙草の先をマクシミリアヌスの方に向けて、「出来ないことはあるさ」
「出来ないこと……」

 呟きながら左隣に視線をやると、マクシミリアヌスは椅子の上にどっかと腰を下ろしたまま、参ったなあとでも言うように頬を掻いて笑っていた。照れ笑いにも似ている気がする。どちらにせよ、慌てた様子は全く無かった。
「万能な能力など神は作りゃあせんということさ」横からダヴィドの声が飛んできたので視線を戻した。胸ポケットから引っ張り出してきた携帯灰皿にちまちまと灰を落としながら、ダヴィドは続けた。

「マクシミリアヌスらのような魔力を持つ人間は、脆弱なマギスクリーバーの恩恵に与ることが出来んのだよ」

 煙草を咥えなおして「ふー」と一息。迂遠な物言いに真佳が少し考えていると、マクシミリアヌスがおほんと咳払いをした。

「なに、簡単なことだ。俺はダヴィドや他のマギスクリーバーが製造した、例えばさっきマナカがやってみたような、簡単に火が出る魔術式を扱うことは出来んのだ。魔力が強すぎるからな。場合によってはあの紙もろとも魔力でぶち壊してしまうかもしれん。まあものにもよる――例えばスクリーバーが大層強化してくれた魔術道具なら問題は無い。ただし作成も難しく金もかかるから、せいぜい都市部にある必要最低限の物品にしかかけられておらんがな」

 言って肩を竦めるマクシミリアヌスの反対隣で、「だから僕やコンティみたいな付き人が、絶対必要なんです」ルッソが耳打ちするように補足する。
 べたくたと壁に張られた魔術式を眺めやった。なるほど、これだけの量の、様々な属性を持った魔術式を扱うことが出来ないのは確かに大変だろうと思う。氷の属性を持った者は炎の魔術は使えない。もしこの世界にガスコンロなんてものが無いとしたら、都会に住んでいないマクシミリアヌスらの同類は生活にも大いに支障が出るだろう。部下がそんな彼らの付き人をするのは自然の成り行きということか。
 それでも、やっぱりマリピエロやマクシミリアヌスの魔力は羨ましいなあとも思うのだけど。何故なら真佳は、屋敷の外でマリピエロが見せた、あの力強い氷の龍にすっかり惚れ込んでしまったので。
 魔術式の強さで底上げ――。少し前のダヴィドの言葉が蘇る。

「……あのさ」

 思い切って口火を切った。
 指の間に煙草を挟んだまま、ダヴィドが鋭い一瞥をこちらにくれる。透き通ったとはとても言えない不透明な黒目に射られて妙な居心地の悪さを感じて視線を外してから、もう一度、今度はちゃんと受け止める気で正面を向いた。

「ダヴィド、物は相談なんだけど、もしよければ私に、魔術を教えてくれないかな」
「貴様に? 魔術を? 何故俺が教えねばならんのだ」
「何故って、だって」

 言いかけて、マクシミリアヌスが隣で何事か言い出しそうだったのを手で制した。言葉を続ける。

「貴方がこの街で一番魔術に詳しいんでしょ? たくさんの魔術式を知っているみたいだし、色々教えてもらうなら貴方以上の人はいないと思う。勉強しているうちに、」唇を湿らせる。……口を、開く。「……この国の魔術の中に、異世界に帰る方法が見つかるかもしれない」

 言い終えてからもう一度口唇に舌を這わせた。
 マクシミリアヌスが小さく呻る。ダヴィドが心外だとでも言いたげに眉根を寄せた。

「ふん、見つかるものか。そんなものがあればとうの昔にこの国の人間は異世界に旅立っとるよ」
「まだ見つかってないだけかもしれないじゃない。可能性はある、でしょ? それに、それだけじゃない。私の魔力でも実戦で戦えるレベルまで底上げしてくれる魔術式があるなら使ってみたいし、覚えたい」

 ダヴィドがちらりとこちらを見た。真っ直ぐ突き刺さってくるような鋭い目線――

「戦う気かね」

 硬い、少し意外そうなダヴィドの口調に、真佳はちょっとだけ困った感じで笑ってしまった。「もし必要になれば」曖昧に答えてから口元を引き締める。

「ダヴィドの仕事の邪魔にはならないように気をつけるし、勉強は嫌いだけどもし必要ならこの国の言葉もきっちり覚える。――異世界人が異界で生き残る術を、私に、身に付けさせて欲しいんだ」
「……嫌だ、と言ったらあんたどうする」

 少し、笑った。

「そしたらそしたで、キミ以外の人にお願いするよ」

 片目を眇め、ダヴィドが何やらとても渋い顔で煙草の煙を吐き出した。少し考えるように老人はマクシミリアヌスの巨体をちらりと見上げ(マクシミリアヌスは軽く肩を竦めただけで何も言わなかった)、もう一度こちらに視線を送る。

「いいだろう」

 頷いた。
 ……頷いた?

「え、ホントに!?」
「何度も言わせるな鬱陶しい。あんた生き延びるために俺にそう申し出たんだろう。若造にしちゃあいい心がけだと評価してやったんだよ。有り難く思っておくことだね。ただし」

 ふう、と煙草の煙を吐くだけの間を空けて、ダヴィドの乾いた唇が再び開いた。

「仕事の邪魔をしないというのが最低条件だ。少しでも邪魔に感じたら永久にこの部屋から叩き出すから覚悟しておくがいい」

 最後にふんと非常に横柄に鼻を鳴らしてまたそっぽを向いてしまった。
 一瞬すぐには飲み込めず頭の中で何度か言われた言葉を反芻して何十回も咀嚼して、それで
 それでようやく言われた言葉を理解した。
 次第に緩み始める頬の勢いそのままに椅子を蹴って立ち上がり

「ありがとう! これから宜しくお願いします!」

 部屋中に響き渡る大声で言った、
 刹那。
 ダヴィドの米神に視認出来るレベルで血管がぼこりと浮き上がった。

「……言ったそばから煩いとは一体どういう了見かね。お前さんはあれか? 耳の神経と脳みそがくっついて無い非常に希少な人間なのか? え?」
「わあああごめんなさいくっついてます!」

 地を這うような低声に思わずその場でピンと姿勢を正してしまった。


■ □ ■


 ………………。
 …………。
 ……。
 殺さなければならない、と、彼は思った。
 これが神の思し召し。彼女に長々とこの場にいてもらっては多くの者が犠牲になろうと、神は彼にそう告げた。
 土は土に。
 灰は灰に。
 塵は塵に。
 ……殺さなければ、と強く思う。
 赤目の女、
 秋風、真佳――。

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