教会本部は真佳が思っているよりもずっと広いが、方向音痴にはありがたいことに分かれ道の無い一本道の建物だ。おかげで最初に連れてこられた執務室も、食堂の在処も自分の部屋も、全て苦もなく道筋を思い出すことが出来る。ダヴィド・エヴァンジェリスティという人間の仕事場兼私室についても、脳裏に刻みつけるまでもなく記憶出来るだろうと思われた。
治安部隊棟一階――。食事が終わるや否や、膨らんだ腹を抱えた状態のままルッソとマクシミリアヌスにここまで連れてきてもらっていた。マクシミリアヌスの執務室がある階で、片側に並ぶ扉とシャンデリアの灯りに、真佳としては若干の懐かしさを感じないでもない。昨日のことだけど。……昨日のことなんだよな。改めて思った。色々なことがありすぎて、もう何週間もここにいる気がする。
あいつ、大丈夫かな。
自然と自分の元いた世界に残してきた友人のことを考えていた。
「マナカさん」
「はい?」
目をきょとんと見開いた。呼びかけにというよりは、不意に飛び込んできたルッソの顔の方に驚いた。隣で足を動かしながら、ルッソは上半身だけをこちらに傾けて上目遣いで見上げるというなかなか器用なことをしている。
何となくマクシミリアヌスの方に視線を投げると、彼は真佳らより二歩くらい先を歩いていた。振り返る気配は無い。
「緊張してます?」
ルッソが姿勢を戻して言った。真佳もつられるようにそちらに視線をシフトしながら、頭半分で考える。緊張? 尋ねる前にルッソが口を開いた。
「カッラ中佐はああ言いましたけど、ダヴィドさんはそれほど怖い人では無いですよ。ええと、そりゃ確かにその、きっぱり物を言うし目付きは鋭いし偏屈な人ではありますが……」多分真佳じゃなかったら相手は一層不安になるんじゃないかと思う。何と言っていいやら分からないのかそこで言い淀んでふくよかな頬をルッソは掻いた。「……悪い人では無いです」
締めくくられた言葉に、少しだけ真佳は微笑った。幼馴染に似てると思った。背格好や全体の雰囲気は違うけれど、こうやって気を遣ってくれるところ。人の悪口を言わないところ。
「うん、ありがとう。でもだいじょーぶ。あまりそーゆーのは心配してないから」
笑って言うと、ルッソは安心したようにくしゃりと頬を綻ばせた。
前方に視線を戻すと先の見えない長い廊下がまだまだずっと続いている。マクシミリアヌスが立ち止まる気配は無い。このままでは治安部隊棟唯一の曲がり角――八角形の線をぶった切ったような建物なので一本道なのに代わりは無いが――にぶち当たることになるが……まさか角部屋? マギスクリーバーっていうのはそんなに優遇された職業なのだろうか?
マクシミリアヌスの背中に目をやった。広い背中だ。多分真佳が二人並んでようやく横が足りるくらいの。
その前方から、軍人が二人こちらに向かって歩いてくるのに気がついた。マクシミリアヌスの背に隠れられるようにさり気なくコースをずらす。幸いにもあちらは真佳という名の珍客には気が付かなかったようだった。或いは目にも入っていなかったのかもしれない。マクシミリアヌスの姿を認めるや否や、談笑をやめて慌てたように踵を合わせて敬礼したので。左胸に右拳を当てるという少し代わった敬礼だ。
階級章がルッソやコンティと同じなので多分少尉だろうか――マクシミリアヌスはそれに片手を挙げて応えただけだった。彼らを過ぎたところで、緊張の糸が緩んだような気配が後ろでした。
広い背中をじっと見つめる。この静かな廊下で、真佳とルッソの会話が聞こえないわけはないので多分さっきの会話も聞こえていたんだろうと思う。
少し考えて口を開いた。マクシミリアヌスに向かってではなく、ルッソに向かって。
「ああいうお皿って、誰でも作れるわけじゃないんだね」
質問と言うよりかは確認するみたいな言い方になった。透明性のある皿に同化するように引かれた魔術式――。それを作ったのがマギスクリーバーという職に就いた人間で、そいつの部屋が玄関ホールから遠いところにあるということは、多分この国でも特別扱いされるものなのだろうと思う。特別扱いされるということは階級が高いと言うことだ。階級が高いと言うことは――それ相応の理由がある、ということ。
隣に並んだルッソは、極々気軽に頷いた。
「ええ、そうですね。僕にもコンティ少尉にもカッラ中佐にも、それに教会の偉い方にだってマギスクリーバーの職にはつけないほどですから。この街にも、ダヴィドさんを含めて二、三人いるかいないかってところですね」
「そんなに」少ないのか、と真佳は目を瞠った。なるほど、特別扱いされるわけだ。マクシミリアヌスがダヴィドとかいう人を選んで真佳を連れて来たのにも合点がいった。
「おお、ここだここだ」
唐突に独りごちたかと思ったら、マクシミリアヌスは数歩先、真佳の目にも十分見えるくらいの扉に向かって軽く駈け出していた。いつの間にカーブを超えたのだろう。そこは真佳の想像していた通り、角部屋にあたる扉だった。
「諸君!」
マクシミリアヌスが声を張り上げた。
玄関ホールにまで響き渡りそうな大声で(ルッソが隣で猫の子みたいにびくっとした)、それから何をするかと思ったら
「ここが目的の地! ダヴィド・エヴァンジェリスティの研究室兼私室である!!」
右足の踵を軸に三百六十度一回転! こっちに向きあうのと同時に、ババッ! っとばかりに両腕を広げて、舞台に出てきた男優の如くキメ顔で一時停止――
「うるせぇ!! いちいち言動が大袈裟なんだよ貴様は!!」
「Ahi!!」
開いた扉の隙間から飛び出した腕にしこたま顔面を叩かれていた。マクシミリアヌスの方が腕の主より三十センチくらい高いのでそういう具合になったのだろうが、それにしたって顔面に手のひらを叩きつけるというのは……。大の大男が両手を顔面にやって呻く様を同情的な視線でもって見守った。
つばを吐くような音が隣でした。
廊下の赤い絨毯の上に落ちた、使用済みの爪楊枝にしばらく視線を落としてから目線の先を持ち上げる。
「異世界人か」
確認の言葉はそれだけだった。「そうです」と真佳は応じた。
ダヴィド・エヴァンジェリスティ――マクシミリアヌスが研究室兼“私室”と発言したことから予想するに、多分今真佳の目の前に立っているのがそのダヴィドだ。大分後退して額が広くなった短い白髪に、シワに埋もれたしわくちゃな顔。年のほどは五十代後半辺りだろうか。骨ばった鼻に、横に細い眼鏡が乗っている。確かアンダーリムとか呼ばれているフレームだったように思う。何が気に食わないのか、眉間に深く寄せたシワと“へ”の字にひん曲げられた強情そうな口元が、周囲の人間を寄せ付けないよう働いているように見えた。ワークパンツもラフなTシャツもその上から羽織っている白衣も、何日洗濯していないのかと思うほどよれて少し黄ばんでいる。
ふん、と老人は鼻を鳴らした。あっちの方も随分こちらを観察していたようだった。細められたダヴィドの黒目が、真佳の頭からつま先までを何往復かしていたので。
「で、何だ。魔術について聞きたいって?」
「あ、え、はい」
まっすぐ真佳の方を見て言われたのでつい頷いてしまった。老人は枯れ枝みたいな腕を組みながら、戸口に寄りかかってあからさまに舌を打った。
「全く、何で俺が選ばれにゃあならんかったのか甚だ疑問だね。マギスクリーバーなら他にもいたろうに、ああ、光栄光栄。――マクシミリアヌス。あんたは知らんかもしらんがな、俺は最高に忙しいんだ」
「まあ爺さん、そう言いなさんなって」
横から入ってきた野太い声に視線を振り向ける。顔面を片手で押さえたマクシミリアヌスが、丁度この世界の言葉で何とか言って顔をしかめながら大きな手を顔から引っぺがしているところだった。ライオンみたいな凛々しい顔には立派な紅葉の葉がへばりついている。かなり強い力で叩かれたらしい。鼻の位置に違和感でもあるのか、折り曲げた人差し指と親指でそいつをつまんで動かしながら彼は何やら難しそうな顔をした。
「あんた以外の適任がどこにいる? 確かにここにマギスクリーバーは他にもいるが、どれもあんたより一世代後の連中ばかりだ。最近ここに就いたばかり故到底人に物を教える余裕はあるまい。忙しいのはよぉっく分かるが、面会の約束は取り付けただろう?」
肩越しに後ろを振り返る。当の“面会の約束を取り付けた”ルッソは、ふくよかな頬にひきつり笑いにも似た愛想笑いを張り付けてダヴィド老人を見据えていた。悪い人ではないと言ってはいたが、それでもやっぱり怖いらしい。
ダヴィドは「ふん」と横柄に鼻を鳴らしただけだった。それから戸口から一歩下がって、
「入れ」
短く言う。
真佳はマクシミリアヌスと顔を見合わせて、二人同時に肩を竦めてからそっと中に足を踏み入れた。