ルッソに連れて来られたのは真佳に宛てがわれた部屋より一つ上、教会棟の四階に当たる。階段を上がって、左側に少し行ったところだ。扉の間隔から鑑みて、そこは三階にある部屋を二つくらい繋ぎ合わせたに違いない面積を有していた。
 マクシミリアヌスは食堂で待っている、とルッソは言っていた。
 しかし食堂にしては、これはちょっと狭いのではないかと真佳は思う。だって教会行政棟にいる全ての人間がここで食事を取るのならどうしたって場所が足りない。真佳はここにどれほどの人間がいるか詳しく知らないが、これほど大きな建物に数十人だけということはないだろうし。
 その答えはそう間もない時間を置いて、すぐに知れることになる。
 ルッソが扉を押し開ける。促されるように部屋に足を踏み入れて、真佳はきょとんと目を瞬かせた。

「おお、いらしたか! ようこそ、異世界人殿。共に食事を取れること真に光栄!」

 奥から両手を広げて歩いてきたのはマクシミリアヌス一人だけで、他に食事を取っている人間の姿は見当たらない。
 横に長い楕円形の机が一卓、部屋の中央にどかんと置かれた部屋だ。机の周りには机と同じウォールナットの材質で出来た椅子が十二脚、下手に動かして崩すのが惜しいくらい整然と並べられている。床には廊下と同じ赤い絨毯が敷かれていたが、それほど毛は長く無かったので革靴に絡みつくことは無かった。

「あれ、他の人は?」

 周りを見回しながら尋ねると、今度はマクシミリアヌスの方がきょとんとした顔をする。ぱちくりと目を瞬かせながら、「他の人とは?」

「いや、だから他にご飯食べる人、……って、あー……」ふいに思い至ることがあった。こてん。小首を傾げて恐る恐る問いかける。「……もしかしてとは思うけど、私とマクシミリアヌスが食べるためだけにこの部屋……」
「無論である。君が教会行政棟の食堂や治安部隊棟の食堂に行けば即座に好奇の視線を浴びることになるからな。普段ここは教皇や枢機卿が、招いた客人と共に食事を取る非常に神聖な場所なのだが、なんと! 教皇が是非ともとおっしゃってくだすったのだ!」

 ……食堂と言うから、社員食堂みたいなものを想像していた。そりゃ狭いはずだ。
 頬を引き攣らせる真佳に対して、しかしマクシミリアヌスの方はどうやらこちらが喜ぶことを微塵も疑っていない様子で満足そうににっこり笑うのだった。口周りを覆った濃い髭に、弧を描いた唇がシワと一緒に埋もれている。「はははは」真佳も無理矢理に頬を引きつらせてみたが果たしてきちんと笑えているかどうか。
 ルッソと同じオリーブグリーンの軍服をマクシミリアヌスも着用していることから、やっぱり今はそれほど早い時間では無いのかもしれない。正確な時間は分からないけれど――と、視線を彷徨わせているうちに壁に取り付けられた柱時計が目に留まった。真佳の立っている戸口からは横側しか見えないが、奥へ歩いて行くと真佳にも文字盤を見通すことが出来る。
 十一時ちょっと過ぎ――だった。時間的にはこれは朝食というより昼食ではないだろうか。……えーと。そんなに眠っている自覚は無かったのだけど……。何だか悪いことをしてしまった。
 文字盤に視軸を固定しながらマクシミリアヌスの隣にまで歩いて行くと、「さあ、どうぞ」紳士的に言いながらマクシミリアヌスが静かに椅子を後方へ引く。座りやすくなった座席を見下ろし少し戸惑いして、
 一つ礼を送ってから、観念してゆっくりと椅子に腰を下ろすことにした。テーブルに戻すとき、少し椅子を持ち上げたのだろうか――椅子の脚が床を引きずる下品な音は全く聞こえて来なかった。マクシミリアヌスが傍から離れていそいそとテーブルをぐるりと廻る。
 背もたれに背を預ける。ベルベットが張られていた。柔らかで上品な手触りの、多分高価なベルベット――最初に連れて来られた応接間のソファとは大違いの感触が何だか少し変な感じ。とか言うと何だか貧乏臭いかもしれないけれど。
 テーブルの上には既に二人分のランチョンマットとナイフ、フォーク、スプーン、それにナプキンが並べられていた。後は料理を待つばかり。視線を正面に振り向ける。マクシミリアヌスが丁度そこに着座しようとしていたところだった。真佳の正面、つまり一辺に並んだ五つの椅子のうち真ん中に当たる椅子である。ルッソはと言うと、後ろに両手を組んだ状態で真佳の右隣に佇立したまま微動だにしない――食器の数からして彼の分は無いのだろうことは予測していたが、やっぱり立ったままでいるらしい。特別な部屋だからか、それとも魔法のことをマクシミリアヌスに言わなければならないからか、理由は分からないがルッソの顔はどことなく緊張で強張っている。
 ゆっくりと周囲に視線を巡らしてみた。なるほど、教皇や枢機卿の客人が招かれるだけのことはある――壁には高価そうな絵画がずらりと並び、マクシミリアヌスの後ろには壁一面を使わんばかりの硝子窓に広大な青空が映し込んでいる。この街に教会本部より高い建物は大聖堂くらいしかないらしく、大聖堂の反対側を映すこの窓に風景を阻むものは何も無かった。
 柱時計の向かい側、右側の壁に沿って幾つかの棚が並べられているのに気がついた。
 アンティーク風の、硝子戸が付いたキャビネットだ。中には魔法陣らしきものが描かれた皿が何枚か飾られていて、そのどれもが違う柄。何らかの魔法がかけられたものなのだということは真佳にも容易に予想出来る。

「それが何か分かるかね?」

 真佳の視線に気付いたのか、マクシミリアヌスがすぐと質問をぶつけてくる。にんまりとした笑顔と茶目っ気たっぷりにきらきら光る双眸を見るに、早く口にしたくて仕方がないんだろうということはすぐに分かる。子どもか。と内心で突っ込んだ。そんな子どもじみた悪戯心を邪魔する結果となるのは悪いけれど――
 心の中で不敵に笑う。
 残念。真佳は既に魔法の存在を知っているんでした。
 顎に手を当てて考える。魔法とそのまま口に出してしまってもいいけれど、出来ればそれより上をいきたい。何の効果がかかった魔法か――。自然思い出していたのは、応接間で出されたコーヒーが中々冷めなかったことだった。ルッソの言う通りこの国に魔法というものがあるのなら、あの現象にも勿論納得いく理由は付けられる。元の世界では魔法を題材にしたフィクション小説を何度も読んでいた真佳である。これくらいの予想は文字通り朝飯前だった。
 にやりと笑う。指で拳銃を形作った。銃口を真っ直ぐマクシミリアヌスへ向けながら、真佳はおもむろに口を開く。魔法の呪文を紡ぐみたいな抑揚で。

「乗せられた料理が冷めない魔法がかかったお皿」
Ahime(アイメ)!」

 多分この国の言葉で「なんたることだ!」みたいな意味の言葉を吐き出して、マクシミリアヌスは両目を見開き自分の額をぱちんと手のひらで叩いて見せた。

「何故分かった!? この世界に魔術があるとは俺は一言も言っていないはずだが!」

 どっしりした机に頬杖をついて、真佳は可笑しくなってくつくつ笑う。秘技、逆どっきり! 心の中でポーズを決めてにんまり笑って、どっきり成功とばかりにルッソの方へ視線を投げ――
 今にもぶっ倒れそうな青い顔をして立っていた。
 そ、そこまでびびらなくても……。いや、そりゃあ、ルッソの方は秘密を守れなかったことに対してマクシミリアヌスに怒られる可能性があるのは確かだけれど。……助け舟を出した方が良さそうだ。

「ああ、いや、違う違う。ルッソとかのせいじゃなくて。今朝、私が偶然マリピエロ准尉が見事な氷の龍を出しているのを目撃して」
「なにぃ!? 今日はあちら側での演習は禁止だと言っておいたはずだぞ!」

 そんなことまで命令していたのか……。正しくテレビ局もびっくりの徹底ぶり。周囲を躊躇いなく巻き込みまくったどっきり計画に、真佳としてはもう呆れ返るしかない。中佐ってそんな権限まであるものだったのか?

「あ、いえ、あの、すみません! 自分も止めたんですけど、どういうわけか聞き分けてくださらなくて……」

 ルッソは申し訳なさそうに目を伏せて、雷の轟音を恐れる小動物のようにふくよかな体を縮こまらせてそう言った。真佳としてはルッソが謝る理由は全く無いと思うのだけれど、しかし上司に逆らえないのが縦社会というもの。これもまた仕方のないことなのかもしれない。
 が。
 真佳だって大人しくルッソが怒られるのを見ているつもりは毛頭ない。そもそもマクシミリアヌスの凝り過ぎたどっきりが全ての原因だったのだし、もし怒るようなら阻止――

「……マリピエロ准尉、か……」

 目を
 瞬かせた。
 今に怒号を飛ばすだろうと思われたマクシミリアヌスは、しかし色素の薄い顎髭をしごきながら何やら別のことに意識を囚われていて怒ろうとする素振りは少しも見せない。ただ忌々しさと不信感の丁度中間辺りの感情を見せながら何やらぶつぶつ呟いているだけ。

「……マクシミリアヌスはマリピエロ准尉と仲悪いの?」

 脇に控えたルッソに向かってこっそり聞くと、ルッソは怒られなかったことで脱力して緩んでいた姿勢を慌てたように正しながら口を開いた。

「いえ、そんなことは……。戦争時にはカッラ中佐の隊にマリピエロ准尉が入ることもあったそうなんですが、最近は戦争自体あまりないのでそもそも接点が無いと……」
「ルッソ少尉」
「はい!?」

 唐突にマクシミリアヌスに名前を呼ばれて、ルッソがさっき以上に綺麗な“きをつけ”の姿勢を取った。真佳もそちらに視軸を飛ばす。

「彼女がマリピエロ准尉に会ったのは今朝が初めてか?」
「あ、え、いえ、昨日教会行政棟にお連れする際に玄関ホールで捕まってしまって……。その時、コンティ少尉が彼女を“修道士志望”とご紹介したんですが」
「ふむ」

 聞くことを聞いたあとはまた顎髭を撫で思考する仕事に戻っていった。
 ……そうか、なるほど――。大柄で馬鹿正直で空気が読めない、子どもじみた悪戯で部下を翻弄する困った中佐――だと思っていたが、でもどうやら――それだけが全てではない。間違いなく、マクシミリアヌスはマリピエロの怪しさに気がついた。

「まあ良い! 今朝は異世界からの客人との記念すべき最初の食事である! 魔術の存在に驚く彼女の顔を見ること叶わなかったのはちと残念だが過ぎたことは仕方あるまい! さあ、食事を持ってきたまえ!!」

 リン、リン、リン――脇にあったシルバー・ベルをマクシミリアヌスが力いっぱいに振り始めて、「ひっ、」首を竦めた。そこまでやらんでも外には響くよ! 大丈夫だよ! 攻撃的に鼓膜を叩く高音に心中でうっかり突っ込んだ。一体給仕がどれだけ離れたところにいると思っているの!
 食堂の扉が音を立てて開かれた。シルバー・ベルが鳴り止んだキンと響く静寂に、ゴロゴロとワゴンを転がす音がする。扉を支える二人の女性、その間をワゴンと共に通ってきたのは――ウエイターの服装をした数人の男たちだった。一、二、三……計六人。六人の給仕が皆、清潔そうな白いワイシャツに蝶ネクタイを締め、黒のベスト、ズボン、腰に巻いた黒いエプロンに身を包んでいる。ワゴンは二つあった。多分真佳とマクシミリアヌスのもの。しんがりの給仕が並んで運んでくるのを見るともなく眺めていると、くん、とてもいい匂いが鼻孔をくすぐる。ぐう、とお腹が鳴って口内に唾液が広がった。
 真佳の側とマクシミリアヌスの側、それぞれ三人ずつに分かれて屹立する。普段この食堂でお偉方の相手をしているのだろうか。実に優雅な立ち居振る舞い。対客用に訓練を受けているのは明白だ。

「どうぞ、お客人」

 ルッソが立っているのとは反対側、左隣をウェイターの一人が陣取った。真佳よりせいぜい二歳か三歳上くらいにしか見えない、まだ若い青年だ。色素の薄い茶髪を品良く流しているのが印象的なウェイター。
 青年の後方に控えたワゴンからシャンパングラスが取り出された。ランチョンマットの端に置かれたそれをじっと見ていると、青年給仕は綺麗な微笑を浮かべながら銀のポットから無色透明な液体を中に注ぎ入れる。お酒、かと思ったがただの水だ。炭酸が発する泡は一つも現れていない。真佳が未成年だからだろうかとも思ったが、ふと見てみるとマクシミリアヌスの前に置かれたグラスにもそれらしい気泡は見当たらない。単に朝食だから水が選ばれただけかもしれない。
 次にワゴンから取り出されたのはサラダだった。透明性のある丸い皿に、レタスに似た緑色のやパプリカらしき赤や黄色のものが品よく飾り立てられている。サラミや生ハムっぽいものも混じっていた。上にドレッシングらしきものが、円を描くようにかけられている。
 続いて山吹色の液体が注がれたスープ皿、スクランブルエッグが乗った浅めの皿――ランチョンマットの外側をぐるりと埋め、最後にクロワッサンが乗ったメイン皿が中央に据えられた。場所が異世界ということもあって見たこともない料理が運ばれてくるのではとちょっとわくわくしていたのだが、差し当たり見たことのない食べ物は見当たらない。単に同じような形をしているだけで、元は全く別の生物だった可能性はあるけれど。
 ランチョンマット上に繰り広げられる色とりどりの朝食を眺め回して、
 ……あれ。
 今更ながらに引っかかることがあった。反射的に視線をぱっと跳ね上げる。

「本日の朝食に御座います」

 給仕が言った。ナイフとフォークには手をつけず、マクシミリアヌスの方をじっと見つめる。この世界での真佳にとって数少ない、信頼出来るに値する大男。並べられた馳走の数々に舌なめずりし軍服の襟元にナプキンを突っ込みはじめるマクシミリアヌスに、……あっれ、説明なしですか。心の中でずっこけた。

「あの、えー、マクシミリアヌスさーん?」
「ん?」

 緑色の双眸がきょとんと瞬く。フォークとナイフこそ構えているが、どうやら真佳の話を聞いてくれる体勢には入ったらしい。ほっと安堵の息を吐く。何となく食べだしたらこっちの持つ微妙な心持ちに気がついてくれなさそうな気がしたので。

「えっと、」

 左脇に控えた給仕にちらと視線をやって問いかけようと口を開くと同時、「あー、ああ、そうか、そうだったな」尋ねる前に気がつかれて逆に真佳が目を瞬かせた。こちらから言うのは気が引けていたので(客が使用人に何事か言うと主人にいらぬ誤解を招くことがある)察してくれたのは願ったり叶ったりなのだが、まさか本当に気がついてくれるとは思っていなかったのでびっくりした。
 一つ咳払いして、マクシミリアヌスが言を紡ぐ。

「彼が日本語を介しているのが不思議なのだろう。いや、君が食事中に知らぬ言語で話されて折角の料理が味わえないとなると問題だろうと思うてな。彼らには君がどこから来たのか、既に話しておいたのだ」
「……ありがとう。それは、凄く助かる」

 確かにマクシミリアヌスの言う通り、自分だけ蚊帳の外で外国語を(異世界語を?)話されたら落ち着かない。そういう配慮をしてくれていたのか……と思うとちょっと気恥ずかしい。無意味に爪先で絨毯を掘ってみたりする。
 左隣、斜め上に視線をやった。端正な顔立ちをした青年がにこりと控えめに微笑んだ。アイスブルーの双眸がとても綺麗だと真佳は思う。見習い……だろうか。でも普通見習いは客人の前には寄越さないものだ。

「さあ、さあ、食事だ。ここの料理は上手いぞぉ!」

 言うがはやいか生ハムをフォークの切っ先でかっさらって大口開け、ばくりと一口。マクシミリアヌスの操るナイフとフォークががちゃっと大きく皿を叩く。それまで上品に保たれていた静寂がぶっ壊されたことに一瞬ぽかんとしてから、――のろのろとナプキンを膝に広げた。やっぱり食べ始めたら真佳の視線には気がついてくれなかったかも。
 ナイフとフォークを両手に構える。ちょっとだけ考えてみてからレタスっぽいものに狙いを定め、ナイフで掬ってフォークで刺す。
 口へ運んで
 ばくりと一口。咀嚼。
 サラダにかかっていた透明なドレッシングには刻んだハーブが多く混じっていた。レモンか何かだろうか。酸味が効いていて実に美味。舌の上でドレッシングのお味を転がしながら、段々上機嫌になってきて頬をほころばせた。美味しい。でもやっぱり、味もレタスに近い気も――
「ほっ」さっきまでレタスがあった場所に何かが描かれてあるのに気がついた。
 皿にほとんど同化しそうに薄っすらと引かれた線だ。おかげですぐには気が付くことが出来なかったが、これは――。
 レタスをごくりと飲み込んで、口を開く。

「マックシミリアヌスー。これも魔法陣?」
「……魔法陣?」

 よく分かっていないっぽい反応をされてきょとんとした。クロワッサンを口に放り込みながら同じくきょとんと目を瞬かせるマクシミリアヌスと見つめ合うこと数秒……って、あれ、魔法陣……じゃないのか?
「あー、ああ」ちょっと考える素振りをした後、得心したようにマクシミリアヌスが頷いた。顎を動かしながら口の中にものが入っているのを気にしたふうもなく大男は口を開く。

「魔術式だな」
「……まじゅつしき」

 ぱちくりと、瞬き二回。
 マクシミリアヌスが口中のものを喉に落としこむ音がした。

「――ほほう、君らの世界ではこれを魔法陣と呼ぶのだな。文献には書かれていなかった部分だ。いやはや、この世界で誰よりもこの俺が一番に知ることが出来たこと、誇りに思おう!」

 顎髭をしごいて何だか得意げに言ってはいるがここには少なくともルッソと給仕数人がいるので別にマクシミリアヌス一人が特別というわけではない。

「や、じゃなくて、これ魔術式ってゆーの?」
「いかにも。魔術式は魔術を行うに当たって非常に重要なものだ。そこに魔力を送り込むことによって、術が発動する仕組みになる」
「ほーん。このお皿にはどんな魔法がかかってんの?」
「魔法でも間違ってはいないが、正確には魔術だ。まあ、そうさなあ……。俺はあまりここで飯を食えるほど偉くはないから確かではないが、ここにかかっているとしたら、鮮度を保つ魔術くらいだろうな」
「カッラ中佐殿、流石の観察眼で御座いますね」

 マクシミリアヌスの隣に控えた壮年の男が控えめに賞賛したが、マクシミリアヌスは特別大仰に喜びはしなかった。「まあな」と適当にあしらって、それまでと同じようにクロワッサンをがっつき始める。あまり興味が無いようだ。
 ふうん、と真佳は鼻から息を漏らした。言われてみれば、ここに盛られたレタスは噛む度しゃきしゃきと音を立てて小気味良い。それに他より甘い気がした。
 レタスや生ハムをつっつき口に運びながら、さり気なく魔術式の全体像を眺めやる。二重になった真円に囲まれた不思議な記号――この部屋の棚に飾られている皿の模様とはまた違うものだ。菱形の中央を貫くように横線が一本引かれている。線の中央には小さなバツ印があって、周囲にアルファベットとは思えない文字がずらりと描かれている――これが鮮度を保つ魔術式。咀嚼しきったサラミを飲み下して胸中で呟く。……顔を上げた。

「マクシミリアヌス。こーゆー魔術って、私にも使える?」
「無論だ。五百年前に来た異世界人も、少し試してみただけで成功させておったからな」
「おおお、何だそれ凄い! じゃあ異世界人にも魔力あるんだねぇ。さっき、魔術式を発動させるのには魔力が必要、みたいなこと言ってたし」

 内に沸き起こる熱情を押さえ込めぬまま尋ねると、マクシミリアヌスは右手にフォークを持ったまま歯を剥きだしてニカッと子どもみたいに笑って見せた。握りこまれたフォークにはレタスと生ハムが刺さったままだった。

「無論だ。魔力にも二種類あってそれぞれ勝手は違うが、しかし持っていない者というのは非常に稀だ。マナカは魔術が使いたいか?」
「是非とも!」

 答えるのに間はいらなかった。間髪入れず頷いた。

「おお、そうだろうとも、そうだろうとも」と、マクシミリアヌスは頷いた。「自分の世界に無い未知なる力というのは一度は試してみたくなるものだ。うむ、結構。実に結構」

 もったいぶるように顎髭を撫で何度も何度も頷いて、それから、ぽん! 勢いよく膝を打つ。テーブルに隠れているので真佳の側から彼の膝は見えないが、手で打つときにテーブルに甲をぶつけなかったのはある種の奇跡だ。

「宜しい!」

 唐突に張り上げられた声にマクシミリアヌスの後ろにある窓がびりびり震えた。真佳も微妙に身を引いた。よく見ればルッソもそうしている。動じない給仕凄い。

「本来ならばあやつも忙しい身の上であるが、他ならぬ異世界人からの頼みである!――」

 エキサイトした勢いのまま大きく両腕を広げてみせ、

「俺が話を通しておこう!」

 直後レタスが一枚吹っ飛んだ。
 マクシミリアヌスの持っていたフォークに刺さっていた奴だ! ついでに彼の前に置かれたシャンパングラスが彼の右腕に煽られて斜めに傾ぐ……!
 あわや倒れそうになったところに素早く手を差し伸べた者がいた。
 給仕である。
 マクシミリアヌスの慧眼を賞賛した壮年の給仕が、大きく傾ぎ中身の波打つグラスに手を添え的確に且つ優雅に惨事を回避したのだ。別の給仕がさりげなくレタスを回収し、何事も無かったかのように元の場所に整列する。その間僅か一秒とかからず。お、お見事。何という落ち着きっぷり。教会に雇われた給仕マジ凄い。
 ……それにしても。
 ちらりと呆れた視線を大男に固定させる。
 マクシミリアヌスの周囲に対する無関心ぶりときたら。自分が惨事を引き起こそうとしたことなどまるで無かったかのように、彼は恍惚とした双眸を天井に向けて大仰に平和そうに笑っていた。シャンデリアの光を受けて彼のエメラルドに似た緑目がきらきら光る。給仕がいなかったら全くどうなっていたことやら……。
 脱力から抜け出るだけの時間を空けて、

「……あやつ……」

 ようやくマクシミリアヌスが発した言の前半部分が脳みそに引っかかった。

「って、どなた?」

 首を傾げて尤もらしい問いかけを投げかける。マクシミリアヌスはそれまで天井に向けていた眼差しを思ったよりあっさりとこっちに引き戻してから、うむ。一つ頷いた。

「君が指摘した、サラダの盛られたこの皿に魔術式を施した男だ。ダヴィド・エヴァンジェリスティと言う。気難しい男だが、魔術について語らせるならこの都市にこれ以上の男はいない。何せあやつはマギスクリーバーだからな」
「まぎすくりーばー……」

 耳慣れない単語に眉根を寄せた。真佳の世界には無かった言葉だ。
 マクシミリアヌスがフォークに刺さったままだったレタスと生ハムを豪快に口に放り込んでほくそ笑む(弾け飛んだレタスに関してはやっぱり気にしていないらしい)。口中のものを全て飲み込んでから、マクシミリアヌスは何だか得意げに口を開いた。

「この世界にある職業の一つだな。それについてもダヴィドに説明させるとしよう。それより、さあ、食事に集中しようではないか。俺はこれでも中々に腹が減っているのだ。それに、そうだ。君たちの世界では“腹が減っては戦が出来ぬ”という格言があるのだろう?」

 厳密には勉強は戦ではない。いや、真佳も元の世界にいたときはテスト勉強前に使っていたから人のことは言えないんだけども……。
 心のなかで突っ込んでいる間にマクシミリアヌスは話すための口を閉じてしまった。スクランブルエッグを口一杯に放り込むマクシミリアヌスを見て、……息を吐く。真佳と一緒に食べるために、真佳が起きるまで何も食べていなかったのかもしれない。その勢いは凄まじい。
 ところで、真佳は時々十二時を超えて三時、四時まで眠りこけていることがあるのだが――三時辺りまで起きなかったらこの人どうするつもりだったんだろう。忠犬みたいに待っていたんだろうか……忠犬中佐ちょっと可愛い。
 レタスを生ハムでくるりと包んで口の中に入れたとき、嚥下し終えたマクシミリアヌスが思い出したように付け足した。

「ああ、そうそう。ルッソ少尉。先に行って、ダヴィドに話を通しておいてくれるか。いきなり押しかけたら最高に不機嫌な顔のあやつに閉め出されかねん」
「あ、はい!」

 首を縦に振ると同時にルッソが慌ただしく部屋を出ていくのを、クロワッサンのぱりぱりした感触を舌先で味わいながら見送った。




魔術式コラッツィオーネ

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