「Noooooo!!――」
どこからか誰かの慌てるような叫び声が聞こえている。何か大きいものが地面を叩き擦る音と、「Maresciallo Malipiero! aspettare、――!!」段々近づいてくる叫び声。
ぴょこん、
と寝癖で跳ねた黒髪と一緒に頭を起こした。聞き覚えのある声……。叫んだ名前もどこかで聞いたことのあるような……。
寝ぼけた頭で数秒考えて、
「ルッソ……?」
まだはっきりしない意識の中、辛うじて引っかかった人物の名前を口にする。叫び声は……ルッソのものだ。その彼が叫んだ名前は――マリピエロ?
ぱっと瞼を押し上げた。すかさずベッドの天蓋越しにシャンデリアの強烈な光線が眼球を強く刺激する。堪らずもう一度目を瞑って、恐る恐る薄目を開けた。
……そういえば、自分では電気を消すことが出来ないので付けっぱなしのまま寝たのだった――文献を持ってきてもらった際に「ご用があればなんなりと申し付けてください」と壁際に設えられたベルを示されはしたのだが、ベッドに入った時刻が(恐らく)深夜だったので人を呼ぶのが躊躇われたのだ。同じ理由で晩御飯の皿もテーブルの上に放り出したまま放置している。
「aspettare、aspettare!――」
ルッソの声は窓の向こうから聞こえているようだった。けれどもこのまま太陽光を浴びたら確実に目が死に至るので少し明かりに慣らしてから、「……おう」ネグリジェのままベッドから這い出す。心地よい布団の温もりから開放されると同時に春の朝の怠惰な温度が肌を撫でた。長毛の絨毯に素足をつけると柔らかな毛が真佳の足に絡みつく。冷たくない……ありがたい……。
眠気混じりのよたよたした歩き方でも何とか窓のところまでたどり着いたので、眉根を寄せながら思い切ってぴったり閉じられたカーテンと窓とを同時に開けて、
冷風に煽られた瞬間その場にぴったりと制止した。
「……は?」
頬が引きつっているのが自分で分かった。確認のために一度目をぎゅうっと瞑ってまた開ける。……消えない。幻じゃない。
……窓を開けた先には“目”があった。
真佳の顔くらいはある大きな目玉。職人の熟練した技能で削り上げられたみたいな真丸をしていて、丁度真ん中にこれまた真円の瞳孔が描かれている。そいつが眼窩に埋まっていた。真佳の方からは横顔しか見えないがその骨格は人間ではなく――
「あー!!」
バルコニーを素足で踏んで、更に手すりにべったり張り付いてそいつをよくよく観察していると、半月型をしたバルコニーの下の方で誰かの絶望的な叫声が聞こえてきた。春なのに冬に流れる風に似ている、ひんやりした冷気が顔面を刺す。「よぉ、嬢ちゃん。修道士志望にしてはいい部屋に案内されてんなぁ!」マリピエロの軽薄な声がかかったが真佳の意識には入らなかった。
龍だ。
真佳の眼前でその巨躯を晒しているのは、紛れも無く中国神話の生物と名高いあの龍だった。ラクダの頭に兎の目、蛇の体、鯉の鱗、鹿の角……それら全てが丸まる氷で出来ている。一つの巨大な氷から何人もの職人が精巧に削り取ったにしても何十年はかかりそうな出来で、しかもそいつは
ぱちり、
と。
真佳の前で巨大な瞼を閉じ確かに瞬きして見せた。
……この龍、生きている。
――せめて何か特別な力とか何とかが、この世界にあったりするといいんだけど――
――例えば某児童書にあるような魔法とか――
龍の首元に文様が描かれているのに気がついた。
二重真円に収まるように、不思議な記号と文言とが複雑怪奇にからみ合ってまるでケルト模様か何かのよう。……魔法陣。真佳はすぐに直感した。ということは、これは
「……ま、ほう……?」
どくん。
胸郭の下で心臓が
吠えた。
「あああああ……」バルコニー下からルッソの絶望的な喘ぎ声が聞こえた気がした。