聖書における虹の扱いは単なる大気中の水滴によって太陽・月の光が反射、屈折される際に起こる光学現象などではない。それよりももっと単純で、そして簡単だ。ソウイル教会が掲げる聖典の中から、一節抜き出してみよう。と、その時のクリスティアヌスはそう言って、革表紙の分厚い本を開いて見せた。

「わたしはここにあなた方との繋がりを置く。わたしがあなた方へ何らかの働きかけをする場合、必ずこの五色の虹が天と地とを繋ぐであろう。これはわたしとあなた方とが、繋がっている証である」

 事実これはその通りで、聖書に書かれた後の出来事でも神から人に何らかの働きかけをした場合、必ずや五色の虹が曇天を晴天を宵闇を駆けていたと書かれている。
 病気で苦しんでいる者の元へ薬草が届けられたとき。
 民を苦しめる暴君に神の裁きを下したとき。
 そして、神がこの世に神の遣いをお与えになったとき……。
 神の遣い。
 神の言葉を民に伝え、神の示した道に従って民を救う者。
 それが私だ。
 と、クリスティアヌスは目の前の民に向かってそう言った。
 今から大凡数年前の出来事である。




邂逅




 今宵の月は満月だった。
 空にかかった二つの月が、銅色と月白色、それぞれの色を漂わせて宵闇の高いところで煌めいている。首都の外にある街道や小さな村々に街灯というものはないが、双子の満月が昇っているのなら住民にとって何も困ることは起きないだろう。この惑星を巡る五つの月全てが天にかかれば薄雲が舞う昼間時と変わらぬほどの明るさになるが、それは非常に稀なことだ。
 部屋には巨大なディヴァーノ・クッシーノ(クッションソファ)があった。
 その中央に片足を立てて座っているのが、クリスティアヌス・ベッカリーアである。こうして座ると目の前にある大きな窓から二つの月と街の様子が丁度良く見渡せるのだ。部屋の電気は点いてはおらず、クリスティアヌスを照らすのは天から降り注ぐじんわりとした月の明かりだけ。大理石の床に、窓の格子型をした光の影が落ちていた。
 ほんの少しだけ目を閉じて、
 開く。
 三度のブッザレ(ノック)が静謐な室内に控えめに響き渡ったのとぴったり同じ時刻だった。

「入って」

 と、クリスティアヌスは許可を出したが、実際に彼が体ごと振り向いたのは訪問者が中へ入りぴったりと扉を閉め切った一拍後のことであった。廊下側から漏れるランパダリオ(シャンデリア)の明かりが、ポルタ(ドア)の下部にあるほんの僅かな隙間から訪問者の足元を照らしている。

「デ・マッキ枢機卿。この程はまたよく私の元へいらっしゃる」
「からかわんでください」

 訪問者、枢機卿がシワに埋もれた眉間に新たな縦線を刻んで言う。丈の長い橙色のダルマティカに、ピッツォ(レース)で編まれた短めのブリオー。その上から肘ほどの長さがある、白く光沢を放つポンチョを着用している。ソウイル教会の枢機卿を表す衣服であった。協会関係者を示す金のアッチェッソーリ(アクセサリ)は、ポンチョの襟元にて月明かりを反射しにぶい光を放っている。――すっかり薄くなった白髪にシワにまみれた丸い顔。鼻の頭に乗った老眼鏡が、枢機卿たる男の年齢を如実に表しているようだった。
 何十年もの人生を重ねてきた老人が相対している青年は二十か二十一になったばかりの男なのに、それでもクリスティアヌスに向かって飛ぶ老人の口ぶりはいつだって正確な敬語だった。彼の目には逆光になって自分の姿を見ることは出来ないだろう――軍帽を深くかぶり直してクリスティアヌスは軽く笑う。

「異世界人は眠ったようだね」
「……やはり、お分かりになられますか」
「そりゃそうさ。君が昼間からずっと気を揉んでいるのは彼女のことだろう」
「……」

 答えは無い。けれどそれが答えだった。もう一度薄く笑って、クッシーノ(クッション)の上で膝を抱えた。クリスティアヌスの纏う軍服は軍服には代わりないが、一般の治安部隊員が着用しているものとは違うものだ。
 軍靴の踵をぶつけ合わせて音を鳴らせた。コツ、コツ、コツ――。

「前にも言わなかったか。彼女は君の存在を脅かすものではないよ。運命鑑定士もそう告げたのだろう。だから教会は彼女を招き入れた」
「それはそうですが――しかし運命鑑定士はこうも言っておりました。“そう遠くない未来の話だ。異邦人の存在が最後の歯車となり”――」
「――“世界は波乱に満ちるだろう”――」
「! クリスティアヌス様、まさか聞いて……!」

 ぴたり。
 人差し指で――目を
 示す。
 波長の長い色を全て吸収したが故に青しか残らなかった、不思議な不思議な海の色。

「千里眼。君たちは私の能力をよく忘れる。私がその場におらずとも、私の目と耳は常に君たちの傍にいる」
「……申し訳ありません」
「何故謝る? 謝られても困ってしまう。――さて、どこまで話したか。ああ、運命鑑定士だね」

 言いながらクリスティアヌスは右肩から斜めに掛かった革帯をすっ……と指で撫でた。人差し指と中指の腹がチンタ(ウェストベルト)に触れる感触と共に右手を持ち上げて、二指の腹にふっと息を吐きかける。

「あの予言ならば心配することはない。どちらにせよ、貴方の地位は覆らない。これは不動だ。私の名をもって保証する」

 それでようやっと、多少ではあるがデ・マッキ枢機卿の懸念は一時的に取り払われたようだった。安堵の吐息が静に支配された室内の空気を震わせる。クリスティアヌスはくつりと笑う。

「彼女、あれは――」

 クリスティアヌスが差し向けた発言は全く脈絡もない指示代名詞だったが、デ・マッキはどうやらすぐと合点したようだった。月光の当たらない物陰で枢機卿の老眼鏡が、底の見えないのっぺりした深淵のように白目の黄ばんだ男の眼球を隠匿している。

「ええ、まだ如何ほどのものを持っているか分かりませんね」
「ははは、それは楽しみだ。もしかしたら私や、彼女の周りの治安部隊員のよりも強いものかもしれないよ?」
「ご冗談を――」

 軽くあしらいながらも枢機卿の声には軽い動揺が孕まれているのをクリスティアヌスは聞き逃さなかった。この男はすぐに揺らぐ。丁度空にかかる双子月を映しこんだ、風耐えぬ水面のように。
 クリスティアヌスはくつくつと声を立てて笑った。

「安心しなさい。私の見たところでは彼女のそれはそう強くはないよ。せいぜい一般人レベルだね」

 と言ったって、使い方によっては我々と互角に争えるほどの力を持っているのだけれど――しかしそれはこの国、ひいては全世界全ての一般人に言えること。特筆して危ぶむべき存在ではない。そもそもクリスティアヌスは然程彼女を特別視してはいない。
 目を瞑る。
 オンダ(ウェーブ)のかかった濡羽色の長髪に深緋色の瞳――色彩は確かに少し稀な取り合わせではあるけれど。この国にも赤目はいるが、それは闇のような毛茸を持ってはいない。
 瞼の裏に彼女の姿を思い描いて、クリスティアヌスは目を開けた。

「現在はカッラ中佐が中心となって彼女の世話をしているのだね」
「ええ、はい――」
「あの男には私は会ったことはないが、言動を見ていれば分かる。それなりに食えない男だ」
「別の者に変えた方が宜しいでしょうか」
「やめておいた方がいい。いらぬ誤解と不審感を抱く。川の流れに逆らい続けるのもいいが、それではいつか恨みを買ってしまうよ。覚えておいた方がいいね」
「はぁ……」

 デ・マッキは曖昧な返事をした。クリスティアヌスの文言は、残念ながら彼の中枢を叩かなかったらしい。それでもいいが。彼には余裕がなさすぎる。上唇をちらりと舐めた。

「そう悲嘆にくれるな。いいかね、私は君の元に現れたのだよ。ソウイル神は君こそが覇者に相応しいと仰られたのだ。だから今、君は“そこ”にいる。そのことを忘れないでいただきたい」

 言って片方の肩を持ち上げくつりと笑った。
 振り返って月を仰ぐ。
 銅色と月白色、今二つの月が中天に昇って舞台に立った。星々は月の明かりに恐れおののき姿を隠す。巡る流星体はかなたを強く刺激する。
 君の役割は、一体なんだい?

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