「何でアンタはそんな無茶をするの」と彼女は言った。ちょっと怒ったような、それでいて呆れきったような顔をして。綺麗な顔が台無しだと真佳は思ったが、彼女にそんな表情をさせているのは間違いなく真佳自身だったので口に出しては言わなかった。
 日が傾き始めた夕暮れの空が向こうの方に見える。真佳らの学年に宛がわれた教室は校舎の上の方にあって、だから下の階よりも空の割合が大きかった。教室の中には真佳と彼女以外には誰もおらず、整然と並べられた机と椅子が西日を受けてより橙色に輝いている。
 視線を落とす。裏門には男がいた。門柱に張り付くように、時々校舎の方にちらちらと視線をやっている。多分一人だけじゃない。学校の出入り口という出入り口に彼の仲間が複数潜んでいるのは経験上明らかだった。

「無茶でも何でも、そうしないと帰れないよ」

 真佳は言った。彼女が抑えたように息を吐いた。

「マンションで」
「うん、マンションで」

 別れの言葉はそれで十分だった。



 目を開けた。明々としたシャンデリアの光に網膜を刺されて一度ぎゅっと目を閉じてから、恐る恐る薄目を開ける。
 スカッリア国教会本部、教会行政棟に並べられた客間の一つだった。大人が三人は優に眠れそうなクイーンサイズの天蓋付きベッドに、樫で出来た大きめのクローゼット、細部に精細な細工の施されたドレッサー、白く塗られた背の高い丸テーブルと椅子がワンセット、それに小型のワインセラーから一人用の小さな冷蔵庫まで。真佳一人が使っていいのかと思うような家具の数々が、二十畳はある長方形の部屋に余裕のある距離を取って置かれている。扉の正面には半月型をしたバルコニーがあるが、今はカーテンをぴったりと閉めてしまっているので外の様子は目に見えない。
 毛の長い絨毯の上で丸まって、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。ちょっと周りを見回して探してみたが、時計は見当たらなかったので自分がどれくらい眠ってしまっていたのかは分からない。カーテンの向こうから日の光が差してくる様子が無いのを見ると、まだ朝にはなっていないようだけど。
 一つ。くあっと欠伸をして起き上がりながらのっぺりした黒髪を掻き毟る。そういえばお風呂にも入っていない。異世界人に関する文献と晩御飯とを受け取って、それから後外に人が立った記憶が真佳には無い。
 寝ている間に膝の上から滑り落ちたらしい文献に手を伸ばした。
 分厚い冊子だ。カバーを取り付けるなどの装飾は施されておらず、同じ大きさに切られた羊皮紙がむき出しのまま紐で横綴じされている。それが二冊。うち一冊はここの国の文字なのだろう言語が羅列されていて、真佳には読み取ることが出来なかった。多分もう一冊、日本語に翻訳されたものの原本。
 原本ではない、翻訳本の方の表紙を、もう一度だけめくってみた。指の腹で直筆された文字の羅列をすっと横に撫でてみる。記された文字は間違いなく日本語だが、文字方向は全て横書き。多分これを書き記した人がいつもの調子で書き進めてしまったのだと思う。縦書きにしろと偉い人に怒られたりしただろうか。羊皮紙がすっかり黄ばんでしまうまで月日が経った今、当時の記憶を読み取るのは真佳には難しい。

 ――異世界から賓客がやって来たのは、風に春の香りが混じり始めた頃だった。

 達筆というよりかはお手本をそのままコピーしたような字で。それでも大人になった人間が異世界人から字を教えてもらって書いたにしては十分上手い。後半になるともっと書き慣れたような字になるが、読みやすいのは一貫して変わらなかった。
 冒頭に書かれている通り、異世界人がやって来たのは春の初め。とある民族が丘で彼に声をかけられたのが、この世界と真佳の住み慣れた世界とが触れ合った最初の瞬間だったそうだ。その後彼は暫く民族の家で世話になっていたが、異世界から来た人間だという噂が都まで広まって城に招き入れられる。
 異界から来たという男は当時の世界に無い機械を持ち、当時の世界に無い道具を操って人々に様々な現象を語った。空を飛ぶ鉄の塊、地上を凄い勢いで駆けて多くの人を移送する乗り物、火を使わず食品を加熱する機械など。エレベーターや電話機の話も当然のようにそこに記されていた。男が語った道具は真佳が見ても多種多彩で、中には現代に近いものからうんと昔、戦前に出回ったものらしき話もある。日本語の話も勿論あった。男は複雑な絵にしか見えない文字を、何度も寸分たがわず描き出すことが出来たと言う。
 多くの道具が挿絵と文字とで紹介され、異世界人の様相や日々の生活の仕方まで事細かに書かれたこれは、確かにこの世界の人間から見たら幼少期に心踊らされるファンタジーになっても可笑しくは無い。けれどそれは、真佳に何らかの答えを記す魔法の書物にはならなかった。

 ――何か不思議な力が働いたのだろうか。空間を切り裂くような裂傷が突如出現したかと思うと、彼はそこへ潜り込むように姿を消し、そのまま帰ってくることは無かった。

 文献に書かれた文はそれが最後だった。後は著者の見解みたいなものが数行綴られているだけで、異世界人に関する確かな情報は書かれていない。マクシミリアヌス中佐が“不思議な力”と言っていたのも納得で、多分著者にも何が起きたのかきちんと把握出来ていなかったのだろう。これじゃあまるで参考にはなりやしない。目撃者なんてものがいたら話を聞くことも出来るのだが、それも五百年前となると難しい。
 文献を閉じて長息した。何も書かれていない裏表紙のざらざらした感触と、右側にある閉じ紐を指先で弄びながら真佳は一人、暫くぼうっと座り込んでいた。何か次の手がかりを探さないといけない。それは分かっているし、文献に大した情報が無いこともマクシミリアヌス中佐に告げられた時から知っていたことではあるのだが、こうまでワケの分からない力で帰ってしまったとなるとこれからどうすればいいのかてんで分からなくなってしまった。せめて何か特別な力とか何とかが、この世界にあったりするといいんだけど。例えば某児童書にあるような魔法とか。だって異世界なのだもの。魔法にだって期待していいはずだ。そうすればまだ光明を見いだせるのだが……。

「マリピエロ准尉のこともあるしー……」

 こてん。絨毯に再びダイブする。マリピエロ准尉、あの人、真佳がルッソとコンティと共に玄関ホールに出た瞬間から既に日本語を話していた。名前通りピエロみたいな人だったから、もしかしたらそういう掴めないところが彼の本質なのかもしれないけれど――用心するに越したことは無い。秋風家の人間は決して楽観視をしないものだ。起こりうる出来事の対処法を用意して、それで漸く一息吐く。

「――早く帰んないと」

 でないと彼女が心配する。
 ――ま、

「考えてても八方塞がりなことには変わりないんだけどね」

 自分を鼓舞する思いもあって敢えて口に出して呟いてみる。うん、と頷いて起き上がった。考えたって分からないものは分からないんだから仕方がない。そもそも真佳自身こっちへ来た経緯は“不思議な力”が働いたとしか思えなかったのだし。帰る方法がそれと同じでも何も不思議は無いではないか。文献は原本と翻訳本重ねてテーブルの上にでも置いて、朝起きてからルッソだかコンティだかに返そう。もうこの本から学び取れることは何も無い。早々に別の方法を探すべきだ。そう、大丈夫。何とかなる。
 女中らしき人が文献と共に持ってきてくれたネグリジェを持ち上げながら、「……あー」ふと頭に引っかかるものがあった。
 そういえば、五百年前に来たという異世界人は、どうやってこの世界にやって来たんだろう?




斜陽の中の約束

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