床には赤く、高級そうな絨毯が継ぎ目なく敷き詰められていた。真佳の足音やルッソ、コンティの足音は全てそいつが吸収してしまって辺りはシンと静まり返っている。時折ルッソらと同じ軍服を着た男が真佳らの脇を通り過ぎていってはらはらした。客扱いされてるとは言え部外者がこんなところに、とかって、不審がられていやしないだろうか。ルッソとコンティがいるからセーフだろうか。
 横に五人並んでもまだ余裕のある幅と、真佳の身長の一・五倍はあろうかと思われる高い天井を持った廊下だ――一定間隔で垂れ下がったシャンデリアがじんわりとした明かりを足元に落とし、片側に並ぶ木製の扉に温かみある雰囲気を添えている。扉の向かいにある無骨な窓からは夕暮れの光が差していた。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。

「マナカさんが異世界人だということは、まだ僕とコンティ少尉、それに、治安部隊員では一部の将官と、将官以上の上層部の人間しか知りません。知った途端、多分皆我先にと貴方の元へ駆けつけてくることになるでしょうから」

 と、道中ルッソが耳打ちして教えてくれた。いつかは国を治める者として国民に大々的に発表しなければならないだろうが、そう焦らずともいいだろうという判断らしい。真佳が来たばかりで疲れていることをきちんと配慮してくれたようだった。正直な話それはとても助かる。実際脳のキャパシティを超える様々な情報を詰め込まれて非常に参っていたので。
 けれどどちらかというと、真佳よりかはマクシミリアヌスの方が大変のような気がする、と真佳は思う。
 自己紹介を終えた後、あの大柄なマクシミリアヌス中佐はと言えばまたすぐと部屋を飛び出して慌しくどこかへ行ってしまったのだった。まるで「遅刻遅刻」と叫びながら穴に飛び込む白ウサギみたいに。後で聞いたところによると、今彼は真佳の来訪の件で日用品の手配や手続きに奔走せねばならない状況にあるらしい。ルッソやコンティなんかは「名誉なことだと中佐は喜んでいた」と苦笑混じりに言ってくれたが、それでもやっぱり申し訳ない。
 廊下の先に一つの区切りが見えてきた。長方形に開いた出入り口の向こう側で、人が忙しく行き交っているのが見える。あれがいわゆる玄関ホール――真佳も最初ここに連れて来られたときに通ったので覚えている。
 廊下に伸びる高級な真紅の絨毯を辿るように、真佳はルッソとコンティに続いて玄関ホールに飛び出した。最初に見た通り――広く大きな会場だ。背の高い天井には大きな銀細工のシャンデリアが一つ、重たげにぶら下がっている。真佳から見て左手には大きな樫で出来た両開きの玄関扉。握り心地の良さそうなブロンズの把手が取り付けられ、外から入ってきた男が丁度扉をばたんと閉めた。鼻孔をくすぐる風の匂いは紛れもなく春の色――豊かな陽光と色とりどりの花の匂い。時間帯のせいもあるんだろう、どこかの家から流れる夕飯の香りも混じっているような気がした。
 玄関扉の正面、つまり真佳から見て右側には、扉と同じく樫で形作られたカウンターが構えられていた。その向こうで黒のワンピースっぽい服を着た女性が数人立ち働いているのが見える。服に教会の紋章が入っていた。修道士か何かかもしれない。カウンターの前には数人の客が描く直線、計二本。最初マクシミリアヌスに連れられてここを通ったときよりは数が減っている気がするが、列を織りなす人間の服装が協会関係者と一般人、種種雑多なのには変わりが無い。玄関ホールが休憩所にもなっているのだろうか――玄関ホールの出っ張った部分、玄関扉の両端に簡易ソファが幾つか設えられていた。列に並んでいない人間がちらほらとソファの上でくつろいでいる。
 ホールを挟んだ丁度正面。
 そこに、目的地である教会行政棟側の通路がほぼ真っ直ぐに伸びていた。

「よーお、ルッソにコンティじゃないか」

 不明瞭な声を張り上げて誰かがルッソとコンティの名を呼んだのにきょとんと視線を振り向ける。……ルッソの体が邪魔になって姿を見ることが出来なかった。代わりにツンとキツイ煙草のにおいが鼻をつく。真佳のまん前でびっくりとルッソが肩を跳ね上げた。

「マ、マリピエロ准尉」

 聞きなれない名をルッソが呼んだ。すかさずコンティが口を挟む。

「建物内は禁煙のはずですよ、マリピエロ准尉」
「まーまー硬いことは気にすんなって! ほれ、見ろ、だーれも俺を咎めたりしてこねぇ」
「それは貴方があまりに人の言うことを聞かなすぎるからです」

 コンティがため息を吐き出すのが真佳の耳にも響いてきた。やれやれとでも言いたげな、苦渋に満ちた嘆息である。声からして男と思われる喫煙者、マリピエロ准尉はそれすら吹き飛ばさん勢いで「がはは」と大きな声で笑ったようだ。ホールにいる何人かの視軸がこちらへ向いたのが真佳にも分かった。
 ルッソの影からひょこりと顔を出してみる。声の主は――すぐ近くにいた。くすんだススキ色の髪を短くした、青目の男。髪と同じ色の無精髭が点々と頬に散っている。想像していた通り、口元にはひしゃげた煙草が咥えられていた。服装はルッソやコンティらと同じオリーブグリーンの軍服姿で間違いなかったが、ただし肩にある階級章のラインがルッソやコンティよりも一本少ない。そういえば――マクシミリアヌスは階級章の色も違っていたような気がする。
 こちらが観察している間にマリピエロ准尉の方も真佳を観察していたようだった。しばらくまじまじとこっちの顔を見つめてから、青い目を大きく見開いて、

「こいつぁあたまげた! 女の子じゃないか! お前ら、この子をどうしたんだ、え?」

 何の予備動作もなく飛んで来た言葉にびっくりした――それ以外のところで彼には既に警戒線を引いていたので尚の事。
 ……まず間違いなく真佳に向けて言ったのではないそれに、どういう反応をすればいいのか少し本気で考えた。本人を目の前にして本人以外の人間に本人のことを尋ねるというのはちょっと錯綜した状況ではなかろうか。なんだか微妙な立場に立たされてしまった。

「いや、あの、この子はっ」

 言いながらルッソが横にずれたので、真佳の眼前に唐突にオリーブグリーンが飛び出してくる結果となった。
 頭上を仰ぎ見る。ルッソの坊主頭が彼のほとんど見えない首に乗っかっていた。マリピエロの不躾な視線の砲撃は彼の背中に阻まれて真佳の元へは届かない。どうやらルッソに庇われた。……庇われた。おおう。なんと新鮮な響きであろう。

「なに、私の遠い親戚ですよ。修道女になりたいと申し出されましてね。折角なので積もる話に花咲かせてから教会行政棟にお送りしようと、今こうして向かっているところです」

 後ろでコンティがそんなことを宣ったので引き寄せられるように振り返った。コンティはこちらを見てはおらず、ただ真っ直ぐにマリピエロの方を向いている。素知らぬ顔を取り繕いながらもぴくぴくと眉尻が痙攣していた。多分――ポーカーフェイスを取り繕おうとしているのだ。前方ではルッソがこくこくとコンティの言葉に何度も何度も頷いている。
 ……な、なんだろう、こう、こそばゆい……。慣れていないからだろうか。嬉しいのだけれど、嬉しいのだけれど、こうだな……。片頬の筋肉がひきつって、真佳の表情も多分今下手な能面みたいになっている。
「ふーん?」マリピエロが尻上がりの相槌を漏らした。煙草のにおいがきつくなる。少し考えて、ルッソを挟んだ向こう側で吐息したのだと思い至った。

「修道女ねぇ、そいつぁあ残念だ。修道女になられちゃ口説けもしねぇ。にしても可笑しな格好をしてやがる。あれか? 仮装か何かか? いくら明日から祭りっつっても、今からはちょいと早いんじゃねぇのかね?」
「女性の服装にケチをつけるものではありませんよ、マリピエロ准尉。最初に口にしたのは貴方でしょう」
「ははは、そりゃそうだ。こりゃあ一本取られたな」

 マリピエロが呵呵と笑った。拡声器でも使ったみたいな大声で、多分今玄関ホールにいる人間だけでなく治安部隊棟及び協会行政棟のホール付近に存在する人間には全員聞き取れたんじゃないだろうか――それでなくても話し声が高いのに。ホールにいる人間からの視線がひどく痛い。いや私たちじゃないですよ。マリピエロ准尉がですね。この煙草の人がですね――心のなかで言い訳じみたことを呟いている最中に、ふと思いついたことがあって、
 表情が凍った。
 今、どれほど背の高い男二人に挟まれていると言ったってここにいる全ての人間の目から真佳の姿を消去することは不可能だ。マリピエロが言うように風変わりな格好をした真佳のことを誰がいつ不審に思うかも分からない。おまけに今、自分の周りにいる男たちは全員日本語を話している(・・・・・・・・・)のだ――。
 唇を湿らせた。
 ここで自分が異世界人であることが知られてしまったらどうなるか? 考えるまでもない。ルッソが言うように、真佳の元へ我先にと人が押しかけてくるだろう。濁流の如く突撃してくる人波と呑まれる自分を想像して肝が冷えた。それはちょっとご遠慮願いたいかなー……なんて。ルッソがマリピエロと自分の間に入った真意がようやっと分かった。

「――マリピエロ准尉、私たちはそろそろ」

 だからコンティがそう言ってくれたのが聞こえたとき、
 肺にある全ての空気が安堵となってどっと唇の隙間から零れ落ちた。
 助かった……! 濁流回避……!

「ああ、そうさな、俺もそろそろ執務室にでも戻らねぇと、サボってんのがバレちまう」
「またサボられていたんですか」
「ほんのちょっとだけだって、ンな怖い顔すんなよ」

 コンティの半眼に動じることなく軽薄な声音で言う准尉は相当に度胸が据わっていると真佳は思う。コンティは少尉でマリピエロは准尉。真佳も漫画で読んで知っている。准尉よりも少尉の方が階級は上だ。つまりマリピエロは、

「わ、ちょ、」

 ルッソの右肩に肘を乗せて、マリピエロがひょっこりと顔をこちらにつきだしてきたのに「は!?」目を瞠った。つまりマリピエロは、ルッソとコンティの部下……の、はず……なのだけど? あれ?

「じゃあな、お嬢ちゃん! そろそろコンティ少尉に怒られちまうかもしんねーから帰るわ。今度ゆっくりお茶でも飲もうぜぇ!」

 言い終えると同時にご丁寧にもこちらにウインクを飛ばしてきた。頬が引きつる。元の世界の日本人男子ならほとんどの人が躊躇うことを安易と。
 ルッソが身を捩ってマリピエロの腕を振り払おうとしたが一瞬遅かった。その時には既にマリピエロは身を引いて、飄々とした足取りで離れている。……口笛を吹きながら背中を揺らして歩行するマリピエロを見つめながら、

「……部下、だよね。ルッソとコンティの」
「はあ、まあ……」

 ルッソが疲れたようにそう言った。
 先程マリピエロがルッソの肩越しから覗かせた顔は呆れるくらい生気に満ちた破顔だったが、今しがた実際に彼と会話を交わしたルッソとコンティの方はと言えば逆にすっかり疲れ果てた廃れた表情を浮かべていた。まるで吸血鬼にでも生気を吸い取られたみたいだ。マリピエロが吸血鬼……似合っているかもしれない。

「階級上では我々の方が上司の位置にありますが」

 とコンティは言った。

「士官学校を卒業してすぐに少尉になった我々と違って、マリピエロ准尉は二等兵からもう長いことここに属していますから。事実上、あちらの方が上司みたいなものですよ」

 吐息混じりの説明に、ふうん、と真佳は相槌を打つ。吐息混じりとは言えコンティの説明口調はいつもとてもハキハキしていて、聞いていて心地よく頭に残る。

「士官学校って治安部隊に入るための学校みたいなものだよね? 士官学校に入学しないで治安部隊になる方法もあるんだ?」
「そちらの方が早く職につけますからね。士官学校に入るためには勉強が必要ですが、治安部隊に入るために必要なのは健康な体だけです。後は入隊してから鍛え上げればいい」
「へえ」

 後方に伸びた廊下をマイペースに歩く彼の後姿を何とはなしに見送った。そう言えば、今更だけれどルッソやコンティと違って彼には隙というものが無かったような気がする。成る程、ただ長くここにいるわけでは無いということか。
 目を細める。
 ルッソはさっき、治安部隊員では将官以上の上層部しか真佳の出身地は知らないと言っていた。マリピエロは准尉だ。無論、知っているはずがない。

「さあ、不審がられる前に早くここを離れましょう」

 コンティの骨ばった手に背を押されるがままに歩き出した。
 歩き出しながらちらと思う。ルッソとコンティはどうやら気がついていないようだけれど――
 もう一度だけ振り返る。
 マリピエロの背中がどんどん小さくなっていくのを見つめて、それから今度こそ教会行政棟側に一歩、足を踏み入れた。
 マリピエロ准尉。
 あの人、私の正体を知っている。



パリアッチョ

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