「聞きたまえ、諸君! 教皇直々の承認状だ! やはり彼女は紛れも無くこの世界に舞い降りた異世界人――」

 音だけで鼓膜を突き破れるんじゃないかというほどの荒々しい音を立てて扉を開け入った大男中佐は、そこで言葉を切って執務室にきょとんとした視線を投げ込んだ。真佳の目の前に広げられているものに気がつくと、「あー……」合点したように丸めた羊皮紙をぽんぽんと肩に当てながら、

「なんだ、先に言ってしまったのか」

 とても残念そうな顔でのたまった。



異界語パルロ



「折角俺が話そうと意気込んでいたものを……。そもそもだ、まだ正式な決定がない状態でむやみやたらに異世界人の可能性があるなどと言ってしまうのはご法度ではないか? 彼女が極悪人であったと仮定するとしよう。教会が自分のことを異世界人だと誤解している、これは勝機! ――と、そういう思考になるのが自然だろう、なあ、コンティ少尉」
「は、……は、申し訳ありません」

 真佳の目の前、中腰の姿勢でテーブルに両手をついていたコンティが、大男中佐に名を呼ばれてそれでようやくはっとしたように上半身を起こして背筋を張った。彼が入って来るまで埃が緩やかに舞う静寂に満ちた部屋だったこともあるのだろう、ルッソもコンティも、突如入室してきた自分らの上司の長広舌に完全に圧倒されていた。二人の顔が揃って緊張に強張っているのがこちらからでも見て取れる。治安部隊とは云わば軍。軍の上下関係となれば、何か壮絶なものがあるのが普通である。
 そんな中、治安部隊とは全く関係の無い真佳はと言えば、
 ……見事に混乱の渦中にあった。
 何で? 異世界? 何で? どうして? だってさっきまで、普通に住宅街にいたじゃない。夕暮れの少し冷たい風も家々から漏れてくる夕飯の匂いもブレザーを通して伝わってくるコンクリート壁の感触すら、ついさっきの出来事のようにありありと思い起こすことが出来る。なのにいきなり異世界って。ありえない。ありえない、そんなこと。
 ――執務室と同じように何からどう片付けていいのかわからないごちゃごちゃした感情の荒波に襲われて目の前がくらくらする。ここはどこ。

「まあ過ぎたことをとやかく言っても仕方あるまい。ともあれだ、彼女が異世界人であると正式に認められた今、問題となるのは今後の――」
「私が」
「……ん?」

 大男中佐が言葉を切って小首を傾げた。真佳の言葉が幸いにも彼に届いたようだった。本当に小さな呟きだったのに。
 中佐のごつごつした大きな手には、いつの間に広げたのかA4サイズの羊皮紙が掲げられている。さっき彼が丸めて持っていたものだということはすぐに知れた。地図が描かれた羊皮紙よりも高級そうで、下の方に幾つかのサインと複雑な紋章の印鑑が押してある。
 教皇直々の承認状、と彼は言った。
 恐らくそれが、真佳を異世界人と決め付ける正式な書類。
 ――唇を湿らせる。
 ……落ち着け。冷静になれ。
 心の中で強く言い聞かせながら目を伏せて
 上げた。

「私が異世界から来たっていう根拠は?」

 一息に。
 教皇が、つまりこの国で一番偉い人間が承認状を出したということは、そうするに値するだけの根拠があったはずだ。残念ながら真佳にはどうしてもここが異世界だとは思えない。実感が湧かない。

「……申し訳ないけれど、私はここが異世界なんだって、どーっしても信じられない。もし証拠があるなら、」
「証拠ならある」

 口を噤んだ。
 大男中佐が羊皮紙をくるりと丸め脇に挟む様を思わず何のモーションも思いつかないまま見守ってしまってから、もう一度唇を湿らせる。男のぞんざいな扱いで高級そうな羊皮紙の中ほど辺りが見事にひしゃげたが、彼はさして気にした素振りも見せない。どころかそれが当たり前のように振舞った。教皇直々の承認状を。

「それも四つもだ。話して欲しいならば並べ立てて進ぜよう」

 尻上がりの言葉を投げかけながら大男中佐が軍服のズボンをぐいと引き上げると、腰巻とズボンが擦れ合って大きく衣擦れの音がした。エントロピーに満ちた部屋にそれは裂くように音を響かせる。
 人差し指をこちらに掲げるように立てて、彼は言った。二本、三本――立てる指を増やしながら。

「一つ。お嬢さん、君は何も無かったはずの場所に突然現れた。二つ。こちらでは見かけない服装をしている。三つ。この国、及び首都、並びに宗教を、君は知らない――」

 視線を跳ね上げる。跳ね上げた視線の先で、コンティはただ黙ってこちらを見下ろしているだけだった。驚きの色はその緑目に無い。一切無い。コンティだって知っているはずだ。真佳が国、首都、宗教を知らぬと態度で表現したのはこの部屋でが初めてで、ルッソとコンティ二人だけしか知らないのだということを。つまり、
 ……最初から真佳が“何も知らない”ことは推察されていた、ということか。コンティがしていたのは証拠集めではなく確証集めだったのだ。どちらにせよ真佳が異世界から来たのに違いないと、彼らは最初から決めてかかっていたんである。

「――そして四つ目――」

 四つ、岩を削って造られたみたいなごつごつした指を見事にピンと立てながら、男は髭面の奥で歯をむき出してにぃっと笑った。

「――君は日本語を介しておる」

 言われたことに眉根を寄せた。

「……それはキミたちだって同じでしょう。私がちゃんと理解出来てるんだから、キミたちが話している言葉も日本語でないはずがない」
「そうとも。だが君はこの国の言葉を話すことが出来ないし、聞きとることも出来ない」
「……何か問題でも?」

 注意深く小首を傾げる。男の言はまるでなぞなぞのようだった。迂遠に真実を語るなぞなぞのよう。未だ立ち上る湯気の向こうに大男中佐のガタイのいい体躯を見て、要領を得ない四つ目の根拠に眉間のシワを深くする。
 ……湯気?
 そういえばこの湯気――。
 意識が引かれるまま視線を下げようとしたその瞬間、「ではここで質問といこう!」大樹を切り裂く雷鳴のような中佐の大声が脳を揺さぶり、引かれた意識が再び引っ張り戻された。

「確かにこの国では日本語は公用語にすらなるほど国民に慣れ親しまれた言語である! しかし、では! この“日本語”は一体どこから伝わってきたものなのか? お嬢さん。君に答えられるかね?」
「……どこって。そりゃ、海の向こうにニホンって国が」
「残念ながら、そういった国は存在しない」
「…………存在、しない……」

 一瞬聞き間違えたのではないかと思った。
 確かに、世界地図では真佳のよく知る日本の形を見つけ出すことは叶わなかった。それは認めよう。でも、それでも少なくとも真佳の知る日本以外のニホン(つまり日本の形をしていない全く別の国、ということになるのだが)は、この世界地図上のどこかには存在する、または過去に存在していないと可笑しいのだ。だって普通そういう国があるからこそ“日本”語と名付けられるのであって、存在しないのならば日本語に日本語という名前がつくことすら――駄目だ段々混乱してきた。頭の中しっちゃかめっちゃかで頭痛がする。 米噛みに人差し指を押し付けた。

「ふっふっふ、分からんかね、分からんだろう。ではここで正解発表といかせていただこう!」

 両腕を勢いよく左右に広げ(危うくぶつかりかけたダンボール山が雪崩を起こしそうになってルッソが山に駆け寄りかけた)、大男中佐は口端を持ち上げて不敵に笑った。真佳の倍はある太い両腕が鋭い風を巻き起こし、本棚の隙間から差し込む陽光の中で大量の埃が迷惑そうに軌道を変えた。
 そんなこととは露知らず、中佐が浮かべているのは愉快で愉快で仕方がないとでも言わんばかりの実に大人気ない、勝ち誇った笑いである。真佳が分からないでいるのを楽しんでいるのは間違いない。

「話は今から五百年ほど前に遡る!!」

 大男中佐が喚くように言い放った。

「異世界からやって来たと名乗る男が現れた。無論初めは誰も信じちゃいない。だがしかし、しかしだ。そいつの持ってきた文明の機器というやつがもう凄いの何のとな! 遠くにいる者と話すことの出来る道具、小さな箱で別の風景を映す機械、音を閉じ込めておける箱、とてもこの国や他国で作られたものとは思えない品々だ! その数々に多くの国民は圧倒された! 国としても雑な扱いをさせておくわけにはいくまいと思ったのだろうな。当時の国王は彼を異界からの賓客として丁重に持て成すことにした。国が彼の滞在を認める代わりに、彼は様々な道具を我々スカッリア国民にもたらした。彼の存在あって今日まで人々の日常に溶け込んだものも多くある」

 広げたままだった腕を下ろして(よく腕が疲れなかったなと思う)、男は背中の後ろで手を組んだ。ひょいと軽く肩を竦めながら、髭に埋もれた唇に弧を描いたまま彼自身の言葉を継ぐ。

「その一つが日本語と言われておるのだよ。彼の母国語だというこの日本語は、五百年の時を経ても変わることなくこの国の一部として記録されている。もしもまた異界から客人が飛んできたとき、失礼の無いようにと……な」

 言い終わると同時に中佐は不遜に不敵ににやりと笑った。「どうだね? これ以上の証拠もなかろう」と、そう言いたいのがこちらを見やる茶目っ気たっぷりの緑目が何より雄弁に語っている。これを覆せる証拠が、“真佳が異世界から来ていない”という証拠があるのなら、さあ、今すぐ掲示してみろと。
 頬が引きつったたことで空いた口から、知らず震えた嘆声が漏れていた。成る程ね……。道理で何も知らぬとのたまう真佳の言を一蹴せず真摯に受け止め、あまつさえ持て成そうとしてくれていたわけだ。
 彼らの国の言葉を知らぬと言い、且つ異世界の言葉を流暢に操っていたあの時点。大男中佐らに出会ったその時にはもう、真佳のここまでの道筋は決まっていた。彼らにとっては異世界人なんて、自分らの生活を豊かにしてくれこそすれ害をもたらす存在では無かったわけなんだから待遇されていたのも当然。問題はここからだ。

「それじゃあ私が異世界人を騙ってるって可能性は? さっきキミだって言ってたじゃない。私が極悪人で、キミたちが勘違いしてるのを知って、こうしてキミたちを騙しているかもしれないよ?」
「それについても問題はない」

 と、中佐は大柄な体を屈託なく震わせて断言した。

「先ほど明言しただろう。教皇直々の承認状を貰ってきた。俺がここにいなかった間、ずっとそれについてお偉い方が会議を開いていたのでな。君に関してはそんな細工は見られないという結論に至ったよ。いやはや、目出度い。実に目出度い!」
「や、だから、その教皇すら騙してるかもしれないでしょって」
「君が本当に我々を担いでいるとして、教皇が騙されていることに何の問題があるのだね? その話を君から持ち出すことこそ何よりの証拠だと思うが」
「……全くもってその通り」

 頬を引きつらせて精一杯笑った。そう、真佳が彼らを騙す気満々の女であるならば、これ幸いと教皇の決定に従うはずだ。騙されてるかもしれないよと忠告してやる義理は無い。
 震える息を吐き終える。
 ……成る程。反論材料がまるでない。彼らの持つ全ての証拠が、秋風真佳が異世界から来たと証言している。“全ての不可能を消去して、最後に残ったものが如何に奇妙なことであってもそれが真実となる”――。彼らはこれを実行した。
 正直な話。
 ただの戯言だろうと思っていた。
 異世界に憧れた人間たちの、都合のいい解釈。でもどうやらこれは違う。彼らは本気で真佳を異世界人だと認定している。
 ならば。
 私も認めるしかないじゃないか。
 どうせ逃げ場が無いのなら、いつまでも駄々をこねていても始まらない。足掻いてもどうにもならないことは受け入れるしかない。となると差し当たり今すぐ向き合わなければならない問題が二、三点あるわけだが――……。
 まず一つ。今でこそこうして持て囃されているけれど、もし彼らの期待に応えられなければ……捨てられてしまうかもしれない、ということ。
 視線を伏せる。プリーツスカートから覗く白ソックスと運動靴、その隣。そこにいつも持ち歩いている学生鞄は存在しない。元の世界に置いてきた。つまり。五百年前に異世界人が持ってきたようなものが、今真佳の手元には無いということ。
 唇に舌を這わせて顔を上げる。

「分かった。認める。私は異世界からやってきた。それに関して反論する気は一切ない。ただ、……キミたちが欲しているような、異世界特有の珍しいものとかゆーのは……私、実は今持ってないんだ」
「ああ、そのことか。別に構わんさ。話を聞かせてもらえるだけで上も満足するだろう。そんなことは気にせず、君はどーんと構えておけばいい」
「うええ……」

 マジか。絶対じゃあいらんとばかり捨てられると思った。えええ何て太っ腹な。五百年前にさんざ見せてもらったからもういいということか? 流石に五百年経ったらこっちの文明も大分違ってきてるはずなんだけど。
 まあ……いいや。有難いことに変わりはないし。 話を聞かせるだけならやってやれないことはない。と思う。真佳だって伊達に十七年あちらで生活していない。これで何も話せなかったらただの馬鹿だ。……機械の構造とか尋ねられたら、アウトだけれど。

「……えーっと、また質問になるのだけど」
「何かね?」
「その、五百年前に来たっていう異世界人さん。その人は元の世界に帰れたの?」
「ああ、帰ってしまったと文献には書かれてある」
 ――帰っ、「え!?」

 驚きの声を聴覚が拾ったきっかり三秒後、それが自分のあげた大声なのだということを認識してまた驚いた。だってまさか帰ったなんて。尋ねておきながら真佳自身、その“異世界からやって来た男”が元の世界に帰って行ったなどとはさらさら思ってもいなかったのだ――ソファの上で身を乗り出した。自然口調にも熱っぽいものが加わった。

「じゃあ帰る方法とかっていうのも」
「ああ、それは」中佐が困ったように眉尻を下げた。「文献には何やら不思議な力で元の世界へ帰って行ったとあるだけで、具体的な方法というのは分からんのだ。我々スカッリアの人間が手を加えたのかも、男の手で異世界を渡ったのかも、何一つ分かっておらん。もしも書いてなどあったら俺も是非とも異世界へ行ってみたかったところなのだが」

 実に残念なことだと語りながら中佐は自らの顎鬚を扱いて見せた。蛍光灯から降りる光がマクシミリアヌスの髭に仄かな陰影を刻む。……息を吐いた。
 そりゃ、
 まあそうか。
 いきなり異界に飛ばされて、その原因も分からぬまますぐさま帰ることが出来るほど人生甘いものではない。でも、しかしだ。五百年前の異世界人は、確かに元の世界へ帰って行ったのだ――前例があるだけでもまだマシだ。希望はまだある。自分に強く言い聞かせる。唇をしめす。
 それに、とても幸運なことに彼らは異世界人というものに寛容だ。

「じゃあそれまで」

 目線を上げて真佳は言う。赤い瞳に、やはり中佐も、ルッソもコンティも怯まない。それが何よりの救いだった。
 ここが異世界であると諦めてから、考えていたことが一つある。右も左も分からぬこんな世界で、真佳一人で生きていくのは言うまでもなく困難だ。誰かの世話が必ず必要になってくる。捨てられるか捨てられないか、だからこそ真佳は心配だった。
 ツバを飲む。
 心の中で友人の姿を思い浮かべた。
 息を吐く。
 ……大丈夫。私は必ず元の世界に、ちゃんと生きて帰ってみせる。そのために。

「元の世界に帰る方法が見つかるまで、もし良かったら」唇が乾く。なんどもしめしてきたそれを、ここでもう一度湿らせる。「――もし良かったら、それまでキミたちのお世話に、……ならせてもらいたい。ん、だけど」
「勿論だとも!」

 返された答えに一瞬の迷いも無かった。笑う。中佐が。くしゃりと。笑うと目尻や頬に刻まれたシワが一層深くなって、子どもっぽさがぐんと増す。
 ……ゆっくりと、
 吐息。安心した。心の中で何度も独りごつ。もしも断られたら一人で元の世界に帰る方法を探さなければならないとずっと、ずっと考えていた。こんなよく知りもしない世界でたった独り。死んでしまうかもしれない中で――、……良かった。生きる望みが繋がった。

「自己紹介がまだだったな。マクシミリアヌス・カッラだ。治安部隊で中佐をしている」

 マクシミリアヌスのミリタリーブーツが部屋の床を軽快に踏む音がした。右手を差し出しながら近寄ってくるマクシミリアヌスを見てコンティがダンボールの山を崩さないよう注意深く脇へ寄り、真佳も安っぽいソファからお尻を引っぺがす。

「秋風真佳……あーっと、マナカ・アキカゼ、です」

 我ながらたどたどしい言い方で言ってから、……少し微笑った。

「……ありがとう。これから、お世話になります」
「おう、任せておけ! ――マナカ、うむ、不思議な響きの良い名だ。宜しく頼もう。君に今、ここで出会えたことに最大限度の感謝を」

 こちらの右手をがっしり握ったマクシミリアヌスの右手は、思った以上に力強く頼もしかった。

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