チクタクチクタク、音を立てて秒針が回る。ぺたんとした硬いソファに深く腰掛けて、真佳は室内に幾度目か分からぬ視線を這わせ始める。
 部屋の隅にある応接スペースだ。二人がけのソファが二つ、テーブルを挟んで向かい合うように設置されている。衝立も何も無い、本当にソファとテーブルが置かれているだけのスペースで、あまりここにはお偉いさんが座らないのに違いないと真佳は思った。
 あれから数分歩いた後にここへ来た。秩序という言葉を知らないのではないかというくらいに雑然とした、生活臭がべったりと染み込んだ――恐らく一人の人間のための執務室。
 六畳に満たないくらいの部屋に様々なものがぎゅっと濃縮されている。室内に入って真っ先に目を引いたのは扉の正面奥にどんと置かれた樫の執務机。調べ物の途中だったのか、羊皮紙と羽ペン、それに何冊もの書物が卓上に適当っぽく置き去られている。脇に固めて置かれた円柱形した入れ物には、くるくる巻かれたポスターサイズの羊皮紙が何本も突っ込まれてイソギンチャクの標本を作り出している。本来ならば窓があったのだろう場所は、隙間もなく壁に並ぶ本棚で全て塞がれてしまっていた。本棚には分厚い書物が、これまたぎっしりと隙間をうめている。普通に入れるだけではスペースが足りなかったのだろう、何十冊もの本が横向きにされて本棚の空いたスペースに適当っぽく突っ込まれていた。何かの書類だろうか、薄い紙が本の間に挟まっているのが散見される。赤いぺらぺらした絨毯の上にはそれでも本棚に入りきらなかった分が山となって積まれていて、あれだけぎゅうぎゅうに本棚を使用しておいてまだ足りなかったらしいことがよおくうかがい知れた。まるで執務室がただの書庫だ。仕事部屋にこの蔵書量、恐れ入る。
 真佳の座るソファのすぐ隣にも、中に何が入っているか分からないダンボール箱が床に置かれた本と同じく積み上げられていた。いつ落っこちてくるのかと思うと気が気ではない。ここまで歩いてくるのも一苦労。何せちょっと歩いただけで羊皮紙の先とか本の山とかダンボールの端だとか、そういったものが服の端に引っかかってくるのである。いつかここで生き埋めになった死体が出てくるんじゃないか。現に今地震が起きたら確実に真佳はダンボールに埋まる。
 こうして応接スペースを確保出来たのが奇跡のような気がしてくるくらいには、この部屋にはエントロピーが増大されまくっているのだった。
 ……息を吐く。揃えた膝の上に両肘をつき、開いた手のひらに顎を乗せた。真佳が吐いた息で目の前をたゆたう湯気の軌道が逸らされる。すぐ目の前には取っ手のところが少しかけたティーカップ。ミルクをたっぷりそそがれたコーヒーが入れられているが、真佳はまだ口をつけていなかった。こういう場合、飲み物には口をつけてはいけないことになっている。
 天井で回る三枚羽根のシーリングファンを眺めてやる。ここに来てもう何時間経っただろう。「ここで暫し待っていてくれ」と大男に言われたままずっと放置されている。
 カチッ。
 時針が何度目かの音を立てて盤上を移動する。チクタクチクタク秒針が回る。
 …………。
 遅い。

「ねー」

 ついにたまらず口を開いた。
 この部屋の唯一の出入り口、片扉の両脇に配置された家具みたいな感じで突っ立ってた男二人が、その声にびくっと肩を震わせる。私は野獣か。

「いくらなんでも遅すぎやしませんか」
「え、と、……多分話し合いに手間取っているのでは、と……」
「みゅーん」

 不満たらたらに言いながらソファにくったりとぞんざいに背中を預けると、明らかに困ったぞという顔で男二人がたじろいだ。腿がソファにくっつく度に安っぽい皮が張り付いてべたべたする。

「っはー……」

 背もたれの上に後頭部を乗せて呆けたようなため息をついた。いくら駄々をこねてもどうやら時間は加速してくれない。
 大男と部屋の戸口に立ってる二人。この三人に見つけられてここまで連れてこられて放置されて、三十分までは何とか警戒線の糸を張り続けていたけれど、もう無理だ。限界だ。そこまで長期間他人に敵意を向けていられない。面倒くさい。

「キミたち名前はなんてゆーの」

 天井のシミがまるでカメレオンみたいだなあとかいうようなことを考えながら頭半分で問うてみると、戸口の方からちょっと戸惑ったような空気が漂ってきた気がした。後頭部を持ち上げて二人の男に目をやる。何だか畏まったようにびしっと“気をつけ”の姿勢をされた。
 この二人、何というかどうにも対照的な二人である。真佳から見て手前側、緊張という言葉を体全体で表現するかのように立っているのは髪を胡麻塩頭にした少しぽっちゃり目の男で、どんぐりのような丸くてぱっちりした灰色の目でおずおずとこっちを見つめている。対して向こう側に立っているのは全体的に骨ばった印象を受ける男。重力を無視して立てられた金髪に切れ長の緑目。余裕ある姿勢でしゃんと背筋を伸ばしてはいるが若干顔を強張らせている。頬骨が通常の人より出っ張っているのがよく目立つ。
 大男が真佳の傍を離れても変わらずずっと真佳の傍にいるため、実質この地で最も時間を共にしているのがこの二人。大男の副官か何かだろうか。幾ら人より長い時間を過ごしていても、真佳は彼らのことを何も知らない。

「なっまえー」

 ふてくされたような語調で再度言うと、「ル、ルッソでありめっ、あります」「……コンティです」何とか口を利いてくれた。ごま塩頭の方がルッソで、頬骨が出っ張ってる方がコンティだ。因みにさっき大男の横で剣を取り落としたのはルッソの方。思いっきり横文字の名前だが、どうやらこの二人も日本語を話せるらしい。そのことに少しだけほっとする。

「で、ルッソさんとコンティさんは私の見張り役か何かですかー。なら扉の外にいることをオススメしますー。窓使えないし逃げられないし。どっちにしても同じことだよー。だいじょーぶ武器は取らない」まだ。
「え、いえ、あの、」

 柔らかくもない背もたれに背を預けて適当っぽく言ってみると、ルッソが戸惑ったように口ごもった。図星をつかれて焦っているふうでもなく、別の何かを隠しているふうでもなく。
 疑問を表す前にコンティがその先を引き継いだ。

「中佐殿には、貴方に何かありましたらすぐに対応するようにと仰せつかっただけですが。……あの、コーヒーがお嫌いなのであれば紅茶をご用意しましょうか。菓子が必要ならば申し付けてください。街に出なければならないので、少し時間がかかりますが」
「……えーっと、街に出ている間に私が外に逃げてたらどうするの」
「……」

 コンティが今気付いたみたいな、しまったみたいな顔で黙りこくってしまったのを真佳はこの目でしっかりと見た。
 ……驚いた。
 この人たち、本当に真佳を歓迎しようと動いているだけで、逃がさないようにとか危害を加えようとか、そういうことは全く考えていないのだ。彼らが中佐と呼んだのはあの大男のことだろうが、その彼に付いていたときのあのこなれない態度を見るに堂々と嘘を吐けるほどの器量を持っていないのは明白。特にルッソなどすぐ顔に出る。これで担がれているのだとしたら彼らは相当な役者だと舌を巻くしかない。
 ……となると、少し勝手が違ってくるような……。
 微妙に頬を引きつらせて居住まいを正す。何だかお尻がもぞもぞしてきた。

「えーっと、ルッソもコンティも、そんな別に畏まらなくてもいいんだけど……ってゆーか、何で私こんなもてなされているのかな?」
「それは――」

 何か先に続くような言葉を確かに口にしたのに、すぐにコンティは思いとどまったように口を閉ざしてしまった。代わりに、言おうとしたこととは多分別のことを彼は舌に乗せる。

「……例えば貴方は、この建物についてどこまで知っていますか?」
「……はい?」

 予想だにしていなかった問いを返されてひっくり返った声が出た。どこまでと言われても、今初めて連れてこられた建物について詳しく知っているわけがない。
 真佳が教会と認識した、城みたいな建物――そいつを半分囲う形で後ろに控えた洋風建築こそが、真佳が連れてこられた場所だった。教会を大きく回った先、建物の中心と思われる位置に少しの階段とドアがある。ざっと数えてみたところ建物の階数は四。丁度八角形の線を半分にぶった切ったみたいな形をしている。
 今真佳らのいるこの雑然とした部屋は、建物の向かって左側に配置されていた。窓は本棚で塞がれていてその向こう側を見ることは出来ないが、本来ならここから教会の一部が見通せるはずだ。そういう位置にある場所だから。
 部屋に通される途中すれ違った人たちが皆、服装のどこかに教会の紋章をピンバッジとしてくっつけていたのを真佳は見逃さなかった。あの城が教会で間違いないのなら、ここは多分教会に関係した建物に違いない。
 分かってせいぜいそれくらい。
 真佳の答えを丸っきり想定していたかのように、コンティが小さく首を振った。表情筋を全く動かさない頷き方だった。

「この建物の正面にあります荘厳な城は、この国で最も一般的な宗教、ソウイル教の大聖堂になります。ここはそのソウイル教の教会本部。教皇や枢機卿、大司教、修道士等の居住区及び勤務先がありますのが向かって右側の教会行政棟、我々のような治安部隊の居住区及び勤務先がこちら、建物の向かって左側にあります治安部隊棟」

 肉皮の薄い節くれだった人差し指で右側とこちらとを指差してコンティは言った。
 ソウイル、という言葉には聞き覚えがある。大男中佐がソウイル神ソウイル神とやたら主張していた言葉だったから。

「大国と謳われる我が国スカッリアは、実質ソウイル教が治めていると言っても過言ではありません。そしてソウイル教の総本山がこの街。国の首都にも当たるペシェチエーロ。無論この国の人間も諸外国の人間も、これを知らない者はいないでしょう」

 へぇ、とも、ふぅん、とも取れる相槌を打った。スカッリアなんて国名は勿論知らない。知らないけれど、社会、特に地理は苦手な方なので、ただ単に真佳が知らないだけでそういう国もあるのかもしれないと思った。大国、知らない者はいない、とコンティは言うが、それが実際本当のことなのかどうかは分からない。ただ勝手に彼が有名な国と主張しているだけの可能性は大いにある。

「ルッソ少尉」

 と、コンティが相棒の名を呼んだ。それまで特に何もないのにはらはらと成り行きを見守っていた胡麻塩頭の男が「は、はいっ」裏返った返事をした。「はい」より「はひ」の方に近かった。

「この部屋のどこに地図があるかご存知ですか?」
「ああ、はぁ……ええと、世界地図とスカッリア地図どっちの……」
「世界地図でお願いします」
「ならその本棚の前ですね。丸めて壷に入れておいたんですけど、中佐が他の羊皮紙も一緒に突っ込んでしまったのでそのうちのどれかまでは……」
「いえ、十分です。ありがとうございます」

 まるで感情のこもってない「ありがとう」を口にして、コンティはルッソに指された方につま先を向けた。本棚の前に、中央部分がぷっくりと膨らんだ赤茶色い大きな壷がある。高さだけなら真佳の胴くらいまではあるのではなかろうか。幅は多分真佳一・五人分。その壷に、高さのまちまちな羊皮紙が幾つか丸めてぎゅうぎゅうに詰め込まれている。あのうちの幾つかはひしゃげてしまっているに違いない。
 二、三個中身を確認した後、コンティが一本の羊皮紙を引き抜いて戻ってきた。やっぱり羊皮紙の一部がひしゃげてシワが寄っていた。コンティの指に何となく似ている。

「これがここの世界地図になります」

 真佳の前に置かれたコーヒーを脇にやってから、コンティはテーブルの上に羊皮紙を広げてみせた。世界地図なんて何のためにと眉を顰めながら適当に視線を流して――数秒も経たず可笑しなことに気がついた。
 日本がどこにも見当たらないのだ。
 日本だけじゃない、アメリカもオーストラリアも中国大陸も、真佳の知る限りのありとあらゆる国が存在しなかった。中心とする国が日本でないからそう見えるだけなのかとも思ったのだが、どうやらそもそも地形が違う。黄ばんだ荒い紙質に描かれた広大な海の上に、ぽん、ぽん、ぽん、と幾つかの大陸が浮かんでいる。目立つもののみを数えると全部で五つ。一枚の紙をサイコロの五の目のような配置で引き裂いたみたいな。
 特に目を引くのが五の目の中心部分に当たる国。紙の真ん中、恐らく赤道と思われるものより数センチ上の方に、オーストラリアを二周り大きくしたみたいなほぼ楕円形の国がある。国の中央下部が抉られたように凹んでいて、まるで魚の鱗を一枚剥いだみたいだと真佳は思った。
 国を描いた上に何か文字が書いてある。Scaglia――すかぐりあ……、……まさかとは思うけど、……スカッリア?
 慎重に顔を持ち上げる。テーブルに両手をついてこちらの様子を伺っていたに違いないコンティは、真佳の心情を心得てでもいるかのように深く頷き返してきた。

「……この地図、……本物?」
「ええ、この世界の地図で間違いありません」

 ……言われたことに目の前が一瞬真っ白になった。
 思考回路が何だか麻痺していてイマイチ脳みそが働かない。本物の世界地図? これが? こんな、こんな世界、私は知らない――。

「……これで予測がほぼ確実のものとなりました」

 コンティがぽつりと言葉を零す。顔を伏せ、体中に張り詰めていた緊張の糸を少しだけ口から吐き出すかのように、彼は強張った息を吐く。唾を呑む音が大きく聞こえた。戸口に立ったルッソが硬い表情でこちらを見つめていた。

「お嬢さん」

 コンティが顔を上げる。
 宝石みたいな威厳を湛える小さな緑目がこちらを真っ直ぐ見据えてくる――。

「貴方は、十中八九異世界からやって来た人間です」



エントロピーに埋もれだす

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