息が切れていた。
 酸素不足で視界が暗く、ゆらゆらと揺らめく狭い外の世界に橙色の光が瞬いている。ちかちかちか。息苦しいほどにちかちかと。自分が立てる荒い息遣いが耳のすぐ傍で聞こえている気がした。さっきまで肺がきりきりと痛みを訴えていたはずだが、今はそれも感じられないほど脳が麻痺してしまっている。霞がかかったように難しいことが考えられない。ただここで荒い呼吸を繰り返すべきでないことは理解していた。頭ではなく体の部分に染み付いている。
「いたか」という誰かの声がした。息を殺した。喉のところで引っかかった呼気がじくじくと喉を痛めた。「いいや、いない。あっちは」別の声が続く。
 狭い視界で頭上を仰ぐ。空はもう夕方から夜へ移行しようとしているらしかった。そろそろ追っ手の視界も奪われる。いくら道の端々に街灯の灯る住宅街の一画と言ったって限度はある。彼らもそろそろ諦める頃合だろう。
 背を預けた路地裏のコンクリート壁が徐々に体温を奪っていくのを感じた。冷えた指先がぴくりと動く。話し声が段々こちらに近づいてくる――
 コンクリート壁から背中を離して屹立した瞬間、

「はっ……!?」

 足が。
 地面を、
 踏み抜いた。


瞞着のインクローチオ


 ずい、といきなり切っ先を突きつけられた。尻に重い衝撃を食らった直後の話である。太陽光を反射して鈍く光る鋼の剣が真佳の視線を釘付けにした。夜目が利いてきた目にそれは強く真佳の網膜を刺激する。
 昼間? 何で? だって今は夕方のはず。日の傾いた夕焼け空を、確かに真佳は確認した。それなのに。

「――!」

 野太く鋭い声に呼応するように視線を跳ね上げた。長く大きな剣を持った大男。そいつが何事か喚いている。彼の両脇に控えた二人の男もこちらを牽制するように細い剣を構えていた。大男の持っているような大剣ではない、華奢な刀身の洋剣。鋭く睨める視線は皆真佳に向いている。
 ……どういうこと?
 状況に全く追いつけない。映画の途中でいきなり別の関係ない画像が割り込んできたかのようだ。前後の繋がりがまるでない。

「――! ――!」

 落雷のように重く腹に響く大声で大男がまた叫んだ。真佳の知らない言語だった。強いて言うなら英語に近いが、西洋の国の言葉は皆同じに聞こえるので違うかもしれない。どちらにせよ聞き取れないのであまり意味の無いことだ。
 周囲に視線を巡らせた。真佳と大男、それに両脇に控えた男らから随分距離を開けたところにドーナツ型の人だかりができている。木材や花や紙袋を手に手にささめき合う声も男の介す言葉と同じ響き。黒髪黒目をした者が少ないことに加え、石造りの低い家々が立ち並ぶこの石畳の広場――どう見ても日本の風景ではない。ではここはどこ? そもそもいつの時代? 通行人らは皆、一昔前のヨーロッパを思わせる洋装に身を包んでいる。仮装パーティか何かか? こんな大勢でこんな場所で? 全くワケが分からない。

「えーっと、ちょっ、あの」

 切っ先を向けて相変わらず意味の分からない言語でまくし立てる男に向かって挙手をした。混乱した頭を何とか働かせてみた結果、まず男に言葉が通じないことを理解してもらわなければならないということに思い至ったのだ。怪しいものではないのだと分かってもらって、剣を下ろしてもらわなければならない。
 男が訝しげに口を閉じたのを見計らって――閉じたというかぽかんと口を開けたままなので正確には開いたままなのだが、とりあえず一方的にまくし立てることは無くなっているのでよしとすることにして――再び口を開いた。日本語では恐らく通じないので身振り手振りも交えつつ、

「多分言語が違うとゆーか何とゆーか、まあともあれ私外国語は話せないので、貴方が何を言っているか――」
「……日本語、だと?」

 大男の口から真佳に分かる言語が飛び出したことに目を瞠った。……日本語を話した? 男と同じようなニュアンスで心の中で呟いた。
 男の顔をまじまじと観察する。緑色の目。天然ものっぽい茶色の髪。フルフェイスの髭を蓄えた強面の顔は目鼻立ちがくっきりとした、遠目でも西洋人と分かる顔をしている。……とても日本語を理解してもらえるとは思えなかったのに。まあいいけど。話が通じるのならばそれに越したことはない。

「あー、えーっと、通じるんならいいや。いきなりで悪いんですけど、ここはどこですか? あと私怪しい者じゃないんで、出来ればそれ下ろしてもらえると嬉しいかなって」

 言ってはみたものの、客観的に見て物凄く怪しいのが真佳なのであまり期待はしていない。一先ずこちらに敵意が無いことを理解してくれればそれでいい。
 大男の方は何やら深刻な顔でまじまじとこちらの顔を見つめていた。その両脇に控えた二人の男もひそひそと小声で言葉を交わしているが、真佳の知らない言語なので勿論何を話しているのか分からない。
 大男も脇に控える男らも、皆殆ど同じ格好をしていることに真佳は気がついていた。
 軍服だろうか。折り襟と詰襟を合わせたみたいなオリーブグリーンの上下を揃えて着込んでいる。ミリタリーブーツに裾が収まったズボンは、右足側にスリットの入った同色の腰巻に包まれていた。あまり軍服には詳しくないのでどこの国のものなのか判別がつかないのが残念だ。
 襟元には一際輝く金のアクセサリがつけられている。一本の直線した棒の真ん中に、中央が繰り抜かれたひし形をねじ込んだみたいな変なアクセサリ。何かの紋章だろうか。真佳は見たことのないものだ。

「……本当にここがどこだか分からないと言うのか」

 たっぷり思案する時間をおいて、大男の方が言った。ごわごわした髭に覆われた唇を戦慄かせたような硬い声だった。不審に思いつつも頷くと、それに合わせて男の喉がごくりと鳴る。後ろの二人が息を呑む。何なんだ、何なんだ一体。何も分かりませんアピールはもしかして逆効果だったのか?

「……まさかとは思ったが……」

 大男が乾いた唇で掠れた言を漏らし出す。大剣を背に差した鞘に仕舞ったのが意外で少しだけ両目を見開いた。本当に下ろしてくれるんだ。
 鼻先に迫っていた圧迫感が無くなったことに若干ほっとするも、彼らの行動の意図が読めない今警戒線を解くわけにはいかない。場合によっては人ごみを掻き分けて逃げないといけなくなるかも。石畳にぺたんと尻をつけたまま身を強張らせる。

「良かろう。今日一日、我々は君に危害を加えることはしない。今ここでそれを宣言しよう。我々の信仰するソウイル神に誓ってだ。ソウイル神を裏切ることは己の心の臓を自らの手で貫くのと同義。それをお分かりいただいた上で、我々に付いて来ていただきたいのだが、どうか」
「……」

 どうか、と言われても……と、真佳は困惑を顕にする。出会い頭にいきなり切っ先を突きつけられた相手にのこのこ付いて行けるほど無邪気な性格はしていないつもりだ。
 大男の後ろに付いた二人にちらりと視線をやった。まだ若い顔つきを緊張で強張らせている。片方がまだ剣を構えていたのに気付いて慌てて鞘に戻した。一回手元を狂わせて石畳にやかましい音を響かせた。
 ……ふうん、と鼻を鳴らす。

「もしも危険を感じたら、私はすぐに逃げるけど、それでも今日一日は絶対に私に危害を加えない?」
「無論だ」

 重々しく頷いて彼ははっきりそう言った。市民の平穏を請け負った軍隊然とした彼らならばすぐに仲間を呼んで無理矢理に真佳をひっ捕らえることだって出来るだろう。それでもわざわざ武器を仕舞って真佳に許可を求めるということは、少なくとも今のところは真佳に害をもたらす気は無い、ということ。

「分かった。貴方たちに付いて行く」

 細く長い安堵の吐息が大男の唇から流れ出たのを真佳は聞いた。「恩に着る」重々しい口調で男が言う。
 男が一歩こちらに歩み寄ってくる。何をするのかと思ったら、手を差し出された。ごつごつした大きな手。岩山とかに落ちてある岩を荒く削って作り上げたみたいな。

「……」

 少しだけ逡巡してから大男のそれに手を重ねると、何の苦もなく引き上げられてびっくりする。体格から力はあるだろうなと思っていたが、こうもいともたやすく引っ張り上げられるとは。
 手を離されると同時にプリーツスカートについた土埃を手のひらではたき落とした。マリンブルーのブレザーに藤色のスカート、学校に指定された制服そのまんまの格好でいる者は真佳の他には見当たらない。
 周りを見渡せば見渡すほど、ここが真佳の知っている日本とは違う場所だということが良く分かった。全体的に建物が低く、それに比例して空には悠々とした青空が広がっている。鼻腔をくすぐる空気のにおいも慣れ親しんだものとは違う気がする。
 ドーナツ型に固まった通行人らが皆、どこか困惑したような視線でこっちをじろじろ見ていることに気がついた。うんと距離を空けているのでさっきの会話は聞こえなかったのだろうか。つまり彼ら彼女らにとって自分は未だ不審者ということだ。男らにとってもそうかもしれないけれど。

「こちらへ」

 大男に先を指し示されるように言を投げかけられた。手のひら全体を使った丁寧な対応に少しだけ困惑する。先ほどまで敵意むき出しに切っ先を向けていたというのに……。あまりの態度の違いにますます警戒線を引き上げる真佳である。
 彼らに視線をやりながら運動靴で一歩を踏み出すと、それを合図として男らが先導するように先に立った。脇に控えていた二人が真佳の後ろか左右に付くことを想像していたのだが、彼らは大男の両脇に控えたまま、真佳が逃げないか監視してくる素振りも見せない。正しく予測不可能な対応に疑問符が降り積もっていく。彼らは一体何がしたいの?
 彼らの進む先に固まっていた通行人たち、が畏怖と好奇とをない交ぜにした戸惑った顔をしたまま左右に避けた。出来上がった通路を三人の男は当たり前のように闊歩する。すぐ目の前にある大男の大きな背中が邪魔をしてその先を見通すことは出来ない。目のやり場に困ったまま仕方なく上空を仰ぎ見て――
 真佳は思わず息を呑んだ。
 尖塔――天を貫かんと頭上高くに聳えた尖塔がそこにあった。大人十人くらいが両手を目一杯伸ばしてようやく囲むことが出来るくらいの大きな大きな塔である。何百年くらい前に建てられたのだろうか。灰色に近い石造りのそれは街の風景によく馴染み、且つ威厳を損なわせないまま佇立している。
 よくよく見やると、どうやらそれは城の一部なのだった。
 くだんの巨大な尖塔を真ん中に、それより低めの尖塔が二本、城の胴体と思われる同じく石造りの部分からにょっきりと生えて左右に控えている。この二本も他の建物と比べると相当にでかいのだが、真ん中のそれと比べるとどうにも見劣りがしてしまう。
 真ん中にそそり立つ尖塔の天辺に、彼らの衣服につけられていたアクセサリと同じ紋章がつけられているのに気がついた。直線の中央にひし形をねじ込んだみたいなあの紋章――。そいつが傲然とこちらを睨み下ろしている。
 教会……だろうか。
 真佳の良く知る教会が掲げる紋章とは違うものだが、扱いを見るに教会が一番近い気がする。
 おもむろに背後を振り返った。さわさわと異国の言葉を発する野次馬たちが視界に入る。彼らの目には映っているはずだ――胸元まで伸びるウェーブのかかった黒髪に、日本人として異質としか言いようがない真佳の赤い赤い、深緋色のまあるい瞳。しかし本来ならば向けられるはずの赤目に対する拒絶反応が、不思議なことに彼らの側からは見られない。薄気味悪いものを見るような目を向けられるのに慣れていた真佳にとって、それはこれ以上ないほどに異常なことである。
 ここはどこ。
 心中で問う
 一体私はどこに迷い込んだ? そもそもこれは、現実か、それとも夢か?
 ――答える声はまだ聞けない。

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