優しさは毒だと真佳は思う。
 ボディーブローのようにじわじわと被毒者の警戒心を奪っていくそいつは、しかし信じきったときには信頼を裏切って実にあっさりと命を奪い取って行く。だから優しさに毒されて信じきっては死んでしまうのだと真佳は考えた。法では裁けない殺し方があるのだとしたらまずこれが入っているのに違いない。
 優しさに狂わされて死ぬのは嫌だった。優しさに狂わされて死なないようにするには、優しさを遠ざけるしかないとそう思った。
 だから、逃げた。









 げほっ、と、胃液を吐くみたいに空気の塊を肺の奥から搾り取った。喉が引き攣った状態で無茶苦茶に走り回ったせいだ。口から漏れるのはもはや喘ぎ声でも何でもない笛みたいな甲高い呼気だけになっていた。喉と肺がひりひりする。もう殆ど走れなくなっていたが細長い廊下の壁に肩口をこすりつけるみたいにして前に進んだ。少しでも先に進むのを止めたらその途端に腕を掴まれそうな気がしていた。真佳の命を削り取っていくことが生きがいのあんな奴らに追いつかれたら何をされるか分からない。怖い――。多分十三年間生きてきて初めて何より人間が怖いと思っていた。
 申し訳程度の玄関ホールをふらついた足取りで抜けて外へ出た。今、教室がどうなっているかは知らないが持ち物を取りに帰る気にはならない。敵地に足を踏み入れるなど自殺行為だ。
 玄関扉に片手をついて一瞬だけ立ち止まった。数十分ぶりにまともに肺に空気を流し込むと肺が疼痛を訴えて派手に咳き込む羽目になった。それでも低い吐息を繰り返しながら視線を前にやっていた。霞んで見える視界の先にはどんよりした光しかなくて外に出たところで逃げ切れないことは漠然と理解していたが、それでも捕食者の巣窟にいるよりはマシだった。

「黒髪赤目……」

 誰かが何かを呟いた。赤目、という言葉が妙に耳にこびり付いて屈折した何かを脳に伝えたような気がした。

「なに? いた?」
「自分から出てきてくれるとは気前いいねぇ」
「ラッキぃ! 手間省けるじゃん」

 息を切らす。返事が出来ない。
 正門玄関の支柱にだらだらと集まっていたのはチンピラ風の男だった。ざっと見積もって十五人ほどか。そのどいつもが竹刀や鉄パイプを手に提げている。
 武器を携えて自分を待ち伏せていた男共。此処までされて分からない馬鹿ではない。秋風家に弱味を握られた政治家か何かが街のチンピラに真佳の誘拐か殺害を依頼したのだ。プロの殺し屋を雇わないのは単なる金の出し惜しみか。もしかしたら中小企業の社長か何かが依頼人かもしれない。どんよりした光しか見えないわけだ。

「ンな恐い顔しなさんなって。大人しくしてくれりゃあ痛い目は見せねぇよ」
「そーそー。俺たちお嬢ちゃんの婆ちゃんとちょっと仕事の話したいだけなの」

 子どもにするような猫撫で声にそこここで馬鹿にしたような下品な笑いが沸き起こった。依頼人に何も聞かされていないのか、この反応は明らかにたかだか中学生と見くびっている人間のそれである。或いは自分の力に酔っているのか。
 一つ小さく咳き込んだ。酸素不足で頭は霞がかかったかのように不明瞭で目の前にいるこいつらがブラウン管の外にいる人間かさえ自信が無い。このまま十五人、他の校門にも人員を割いているのだとしたらそれよりもっと沢山を相手にして勝てるものかどうか。
 逃げたい。
 でもやるしかなかった。
 学校の外に出られないのなら逃げ道なんてどこにもない。

「なんだ、大人しく捕まってくれんの?」

 濡れそぼった運動靴のつま先を戸外へ向けて歩き出したのをどうやらそう解釈されたようで、鉄パイプの先で自分の肩をとんとん叩きながらどちらかというと残念そうに言ってのけた。あちらさんは暴力を振るいたかったのだろうが校内で暴力沙汰を起こすわけにはいかなかった。騒ぎを聞きつけて野次馬が増えると、千利と姫風をも呼び寄せることになる。それでは逃げた意味がない。――なんてことを説明してやれるほど酸素の余裕が無かったので、無言で歩くに徹しておいた。
 校門から出たところで十数人の男らが此方を取り囲むように立っているのに気がついた。大人しく出てきたターゲットに油断したかと思ったが、意外にチームワークはしっかりしてるらしい。

「そんじゃあお付き合い願おうか。恨むんなら人に恨み買ったあんたの婆さんを――」

 気軽な感じで肩に添えられた手を掴んで捻り上げ、後ろ手に周るや否や渾身の力で引き寄せた。背に添えた腕を軸に一回転したそいつが顔面からアスファルトのテクスチャに沈む。ぐしゃっと嫌な音がした。

「…………こっ、」

 一拍遅れて顔を赤らめる別の男を一瞥して足元の男に視線を投げて、

「加害者を恨みこそすれ被害者を恨む理由がどこに?」

 多分既に意識の飛んでる男に冷ややかな声で吐き捨てた。声は執拗なまでに掠れていたが気持ちは驚くほどに凪いでいた。灼けるように痛む肺から喉に響く息を吐く。落ち着いたらやれる。十五人くらいなんてことはない。だいじょうぶ――。

「ンのアマぁあ!!」

 独創的とは言えない絶叫で駆け寄りざま鉄バットを横に薙ぐ。後退してかわし、しゃがみ込んだ先に待ち構えるように佇立していた男の顎に飛び上がると同時に掌底を叩き込んでやった。そいつが沈むその一瞬の隙にさっきの鉄バットの男と別の男が二人、それぞれの武器を構えながら奇声を発して突っ込んできていた。
 三方向からの突撃に相手の相打ちを狙いたかったが、瞬間肺に強烈な痛みを覚えて咳き込んだ。万全の状態でもないのに強く息を吸い込みすぎたのだ。くの字になったその一瞬の隙が戦場で命取りになるのは今更語るまでもない。
 顔を上げた。
 激しいしわぶきのせいで涙の膜が張ったぼやけた視界の中、逃げるいとまも無いほど近くに奴らが迫るのは明確だった。
 男が、
 笑った。




 ――ごしゃっ

 という何かが潰れるような音はすぐ近く、真佳の頭上から聞こえてきた。明らかに何かが何かに殴られたような聞き覚えのある音だったが、この場所で唯一殴られる側の立場にいる真佳に痛みは無い。図らずとも相打ちと相成ったのかとも思ったがどうやらそれも違うようだ。男のうち一人は確かに倒れてはいたが、他の二人はむしろ何が起きたのか分からないという顔で武器を振り上げたままぽかんとそこに突っ立っている。
 なかなかにグロテスクなその音はそいつらとは別の、全くの局外から飛んできたのだった。

「……っとに、チンピラっつーのはどうしてこう物騒なもん持ってくるんだか」

 その“物騒なもん”で今しがた人の頭を殴打したそいつは涼しい顔でうそぶいた。線の細い肩に血糊の付着した鉄パイプをあてがう様は紺のセーラー服を身に纏った少女がするにはあまりに非現実的で、だというのに辺りを牽制する鋭い銀の双眸はこの状況にあつらえたようにぴったりで。二重にかみ合わない現実にそんな場合でもないのにくらくらと眩暈を覚えるほどだった。
 ぺたりとその場に尻餅をついた。
 姫風さくらだ。
 今、自分の背後で金剛力士像のように睨みをきかせているのは他ならぬクラスメイトの姫風さくらその人だった。よくよく見れば、彼女の持っている鉄パイプは最初に真佳が伸した男が所持していたものだ。いつの間に自分のものにしたんだろう。
「……ちゅう、がくせい……?」誰かが呆然と呟いた。

「な、……にしに……」
「助けにきた人間に“何しに”は無いでしょう。礼くらい言えないのアンタは。助けようと思って助けたわけじゃないから言えたとしてもいらないけど」

 竹を割ったようなさっぱりした口調で話の方向を二、三回くらい折り曲げられてついていけなくなりぱくぱくと口を開閉させる。それで漸く初めの、真佳の問いの答えに戻ってきたらしかった。

「何しにって、アンタに文句言いに来たに決まってるでしょう」

 怒気の孕まれた鋭い口調できっぱりと。
 あまりと言えばあまりな物言いに当然のように大口開けたまま静止した。

「っとに、この馬鹿は。“また”とか“どうせ”とか勝手に被害妄想突っ走らせていじけてんじゃないわよ。勝手に枠に嵌められたこっちとしてはいい迷惑なのよね。アンタが今までどんな人間と関わってきたかは知らないけど、そっちの常識を全く面識の無い人間にも当てはめて裏切られる前提で壁作って拒絶して、馬鹿みたい」

 オブラートに包むという慣用句は彼女の辞書には無いんじゃなかろうか。頭上から浴びせられる集中砲火をモロに顔面に食らいながら真佳は口をぱくつかせた。爆弾の威力が強すぎて言い放たれた台詞を理解するのに時間がかかって、「な……」それで漸く反応らしい反応をした。

「なん、な……だっ、……」すぐには言葉が出てこなくて六秒ばかり喘いでいるうちにだんだん感情が追い付いてきて「裏切られる可能性が一パーセントでもあるなら信じない方がいいに決まってるっ。騙される方が悪いんでしょ? それが裏切る側の常套句じゃん! 人の生き方にケチつけるってことは、キミの言う通りに人を信じて裏切られた後、責任取ってくれるわけっ? できもしないくせに偉そうなこと言わないでっ!」

 むっかりと立てた腹を言葉という媒介に叩きつけるように叫んだ。肺と喉が灼けるように痛んだがそれでも叫ぶのは止めなかった。
 もはや誘拐どころの騒ぎではなくなっていたが、真佳も、そして多分姫風もそんな些末なことに気をかけてはいなかった。

「誰も彼もが裏切りを画策するほど全人類に注目されもしてないくせに過剰防衛すぎんのよ! アンタただの普通の女子中学生でしょうが!」
「そんな普通の女子中学生になれたらどんなに良かったかっ!」

 絶叫。
 秋風家の娘。黒髪赤目。兵器。最高傑作。体の共有者。悪魔。害虫。色んな単語が頭の中で複雑にからまり合ってついでに舌ももつれて唇を噛んだ。
 秋風真佳として見ていたのは一般常識という概念すら分からなかった少しの時間に出会った幼馴染みだけで、余計なものが付属した人類にとって真佳はいつだってヒトではなくて単なる記号でしかなかった。だからきっと簡単に裏切るし簡単に虐めるし簡単に殺すのだろう。
 普通の女子中学生になれたらどんなに良かったか。

「……なりたかったのに……結局、どうしたって誰も《わたし》を見てはくれないじゃないか……」

 声に出した瞬間泣きそうになって歯を食いしばった。多分それは意地だった。人前で泣かない強い自分を演じるためのしょうもない意地だった。
 冷めた目でこっちを見下ろす少女の口からため息が漏れる音がした。

「アンタは、何もしないでも他人が自分を見てくれると、本気でそう思ってんの?」

 冷水を浴びせかけるような情け容赦の無い言葉だった。しゃくりあげそうになる喉を無理に抑えたせいでさっきよりも喉の奥がひりひりする。しゃくりあげるということは痛いとか辛いとかいう感情を世間にさらけ出すことだ。痛いとか辛いとかいう感情を世間にさらけ出すということは、人に弱みを見せるということだ。人に弱みを見せるということは、つけこまれると――

「アンタが他人を見ない限り誰もアンタを見てくれるわけがないでしょうが」

 目を瞠った。

「なっ……ちがっ……ちゃんと見て、だから嫌いに、」
「見てない。ちゃんと見てる奴は人のどうってことない親切見て裏切るに違いないなんて穿った見方はしない」

 言い切られて二の句が継げずに口を噤んだ。黒いずくずくしたものが喉と胸を圧迫していて息苦しい。
 見てない……? そんなわけが
 ……無い、とは何故か言い切れないことに気がついた。
 では本当に“見て”いなかったのか? ちゃんと見れていないのは下手に信用するからではなかったのか? あの時の自分は確かに信用という言葉に邪魔されて物事が見れていなかったのだろう。だから信じないようにしていたはずだったのに。

「アンタは自分が大事で守りたいから傷つかないために防衛線を張ってるだけよ。最初っから自分のことしか見てない。下心の無い好意を何でもかんでも自分に害あるものだからと突っぱねられる人間の気持ちなんて、これっぽっちも見てない。そんなアンタが誰かに見てもらえてあまつさえ好かれるわけがないでしょう」
「あ……う、」

 喉と胸を圧迫していた何かがすとんとどこかに落ちてそれで漸く口を利くことが出来たが、無意味な喘ぎ声が漏れただけで何の意味も持たなかった。
 姫風の言葉を頭の中で反芻して反芻して反芻して、
 脱力して頭上を仰ぎ見たまま後ろに倒れこみそうになった。
 誰のことも見ちゃいなかった。祖母のことも千利のことも拓斗のことも。大好きな人たちだったのに、いつの間にか自分のことしか考えていなかった。傷つきたくないからって突っぱねて追いやって、“誰も味方なんかいないんだ”なんて。なんて虚しい一人喜劇であろうか。
 姫風のことも。
 彼女の手に握られた歪んだ鉄パイプを見て思う。いじめられてることを知っていながらそれでも他と変わりなく接してくれて、酷い言葉を投げかけてもいじめる側には回らずにこうして駆けつけてくれた。
 どうして疑ったりなんかしたんだろう。最初からちゃんと“見て”いればすぐに気がついたはずなのに。

「……ごめ……なさい……」

 痛む喉からそれでも強引に言葉を搾り出していた。今まで自分がしてきたこと、全部謝らないといけない。一生許してもらえなくても、それでも。それだけのことを自分はしたのだと思う。

「許す」

 すぐ反応出来なかったのでぽかんと仰ぎ見るだけになった。勝手にプリンを食べられて喧嘩してたみたいな軽さで許されては逆にこっちが焦る。何なんだこの女。
 姫風の視線が前を向いたのでつられるようにそれを追ってみると同じようなぽかんとした間抜け面を引っ提げたチンピラと目が合った(そういえばいたな、こんなのも)。同じ間抜け面にはなりたくなかったので口を閉じてから怪訝に思って視線を戻してみると、いつの間にか彼女もこっちを向いていておまけに何かを促すみたいな目を向けられていた。姫風のなかではもう許す云々の話は既に終わっていて、今はそれとは違った別の話題が進行しているらしかった。だからそんなに軽く扱われると逆にこっちが。
 いい加減イラついてるに違いない目付きでどうするのと訴えかけられたような気がしてきて、肺の痛みにけほけほやりつつ仕方なしに考え込む。
 ――困ってたんならそこらの人間に助けてでも何でも言えばいいじゃないの。
 かつて姫風本人に言われた言葉が心の琴線に引っ掛かった。

「…………」

 優等生だったりヒロイックだったり慎ましやかだったりな意見が一瞬で脳裏に閃いたが、真っ直ぐに見つめ返してくる姫風の銀目を見ているとどれも下らないことのような気がして苦笑した。それに何より、見栄を張れるほど万全の態勢ではないわけで。

「えと……たすけてくれると嬉しい……です……」

 言い慣れない言葉を口の中でもごもごさせたので尻すぼみになってしまった。カタコトで未完成品な助勢の請願だったが、それでも姫風は多分今まで見せてくれた中で一番自然で綺麗な笑顔をこっちへ向けて、こう言った。

「上出来」




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