いずれ向こうから折れるだろうと思っていた。どうしたって人は一人では生きていけないのだから助けを呼んでくれるのも時間の問題だろうと。甘かった。
 あれから何日かが経ったが秋風からは何のアクションも起こそうとはしなかった。考えてみれば当然だ。さくらだって他人に弱音を吐いたことなど無かったではないか。ましてや相手は猜疑心でガチガチに固められた秋風である。伸ばした手を繋いでくれるのには結構な時間が必要そうだった。
 分厚い入道雲の行進を空に見留めてぼんやりと思う。
 夏休みが始まるまで、もうほんの少ししかない。



「姫風さん?」

 校舎のコの字型に切り取られた青空の手前、浮かんだそいつを無言で追っていたところへ、にゅっと出てきた何かに視界を遮られた。プチトマトを器用に箸に掴んだ女子だった。さくらと同じセーラーに身を包んでいることからも分かる通り同じ学校の生徒である。席は確か同じ列の前から二番目。あまり話題の合う子ではないが転校初日に昼ごはんに誘われてからというもの当たり前みたいに昼食に誘われるようになった。昼食を共にするようになったら移動教室や放課後もそのグループで一緒に過ごすのが女子グループのデフォルトだ。
 黒に縁取られた目がぱちぱちと瞬くのを眺めながらちょっと考えて、

「ああ……大丈夫、何でも無い」

 ぎこちなく笑った。世間一般の女子中学生が持つ許容範囲の境界線が不明なのでどこまで思ったことを口に出したらいいのかさっぱり分からないのである。多分自分は今中学生の娘を持つ中年男性と同じ気持ちを抱いている。秋風とは普通に話せた理由が謎だ。
 なんだあ、とその子は言って屈託なく笑った。普通に可愛い子だとは思うのだが、先ほどから彼女の参加してる話題は専ら親や教師を口汚く罵っているだけの話題だったりするのが勿体ない。英語での悪口に比べれば可愛らしいものか。
 膝の上に広げた弁当箱が落ちないよう気を遣いながらベンチの背もたれに体重を預けると、金属が軋む音がした。屋上での旋風よりも幾分か柔らかい風が髪を撫でて飛んでった。
 さくらには悪口を言う相手がいない。転校してから良くはしてくれこそすれ見下されたこともないし勉強を強要されることに異論はないし、親はいない。どころかアメリカにいる際一時期だけだがアジア系の血が混じった顔立ちで色々言われることも多かったので、クラスメイトのこういうお喋りにだけはどうしてもついていけなかった。同意を求められれば曖昧な相槌は打ちはしていたけれど。
 多分それも鬼莉にマイナスに映る要因なのだろうと思う。歪みきってはいるが何だかんだであの子は秋風が好きなので(憶測。でも自信はある)、秋風の心を抉るような言動は何にせよ嫌いなのだ。そのくせ自分でも傷つけてみたくなる厄介者。それらは結局秋風が持つ性格の一部分が表面化したもので、全くの他人というわけでは無いのだろう。
 教師の誰々が不潔で気持ち悪いとかいう話題から標的が秋風へシフトしかけたときに予鈴が鳴った。弁当箱を仕舞う段になっても個人の悪口に花を咲かせているものはいなかったが安堵はしなかった。どす黒いものから一転して日常へ、その変化があまりに自然で鮮やかだったから、これが日常風景であることを嫌でも叩き込まれた気分だ。



 しかし逃げ込んだはずの日常は、期待に逸れてどす黒いもののままだった。
 廊下側の席で行われていたことだったので教室に入ってきたばかりだったさくらには最初それに気がつかなかったが、そこにいるクラスメイトの全員が其方に視線を向けていたことで視線を振り向ける羽目になってしまった。
 秋風がいた。そこは実際秋風に割り振られた席だったのでそれに何ら可笑しな点は無いのだが、それにしては様子が可笑しい。悪口を言われても怪我をしても自分のことではないみたいにどこ吹く風で飄々と構えていた秋風が、自分の机にぐったりと上半身を預けていた。重ねた手首に額をくっつけて伏せた状態でいるので顔は分からない。ただその背中が時折跳ね上がってるみたいに思えた。しゃくりあげているようにも見える。よくよく見るとその背中は濡れていた。
 咄嗟に視線を巡らせる。秋風のすぐ傍に女生徒が一人立っている。うちのクラスの人間ではないがちょくちょく遊びに来てるから顔は知ってる。比較的派手な部類に入る女子のリーダー的存在――。
 そいつが片手にヤカンを一つ提げていた。――ヤカン! もしも沸騰直後のそれを頭からかけられたのだとしたら。すぐさまその考えに至って慄然とした。しかし幸いなことにヤカンの湯はすっかり冷め切ってしまっていたようで、秋風が熱がったり痛がったりしている様子は見られなかった。
 この学校では昼休みに入ると同時に担当の人間が湯水の出る水道から直接ヤカンに注ぐらしい。昼休みの始まりから四十五分が過ぎているから、その間に冷めたのだろう。湯を沸かしてはいないので冷めてなかったとしてもある程度なら無傷で済む。遅まきながら思い出して心の底から安堵した。
 しかし火傷の危険性が無くなったとしても、事態は全く好転していない。湯をぶっ掛けただけでは飽き足らず、そいつはあろうことか今度は秋風の後頭部に黒板消しの裏っ側を叩きつけた。何度も何度も。狂ったせせら笑いを上げながら。秋風の黒いたおやかな髪がより濃く白に染まる度に脅えたように肩が僅か跳ね上がる。いつもはにやついた笑いでそれを眺めるクラスメイトも今回ばかりは完全に引いていた。
 どうして鬼莉が出てこないんだと反射的に思ってすぐに舌を打った。秋風を助けるのは鬼莉じゃない。

「あ……」

 名前を呼ぶ前に視線を振り向けた秋風の目に言葉を呑んだ。線の細い腕から覗く目尻に溜まる水滴は紛れも無く本物であろうに、口だけは三日月型の弧を描いている。泣き笑いみたいな。そこにいるのが秋風なのか鬼莉なのか咄嗟に判断がつかなくなってどうすればいいか分からなくなった。

 ――ほうら、やっぱり。

「こらぁ! 何やってる!」古いコールタールに似た女の声が鼓膜に張り付いた気がしたが、体育教師のだみ声ですぐにそれも消し飛んだ。
 教師が飛び込んできた出入り口に隠れるみたいにして女生徒が二人隠れているのがちらりと見えた。あまり事情を知らない別クラスの子らが先生を呼んできたらしかった。犯行を犯した女子がやばいというふうに表情を強張らせたがもう遅い。
 教師の介入に驚いたのか秋風はもう机に突っ伏してはいなかった。僅か見開かれた赤目が痛々しいくらいに腫れているのが横顔だけでもすぐに分かった。頬に伝った幾筋もの涙に絶句したと思ったら、

「秋風ッ」

 唐突に秋風は走り出していた。体育教師の方にではない。まるで逃げるみたいにして全くの反対側に。「おい、秋風、待て、どこへ行く!」体育教師が制止の声を張り上げたときにはさくらはそれを追いかけていた。



「秋風っ、こら、なんで逃げんのよ!!」

 曲がり角のところでもたついてたところを腕を取って引き止めたときには、随分の距離を走っていた。階段を何度も上り下りしたので互いに息が切れている。秋風の方は直前に嗚咽していたことも手伝って危険なくらい引き攣った呼吸を繰り返していた。どこかで落ち着かせないとぶっ倒れてしまいそうな気がする。

「とりあえず教室戻りなさい。先生も心配して、」

 乱暴に腕を振り払われた。
 出ない言葉の代用品はそれと不審の眼差しで、口で言われない分全身で現された拒絶は何だか結構さくらの心臓の奥の方を抉り裂いた。
 一度胃の奥にあるもの全部を吐き出すみたいな咳をして、秋風がやつれた目をこっちへ向けた。

「戻りたくない。放っておいて」

 それは多分に呪いだった。
 息の切れた状態で吐き捨てられた言葉は掠れていて覇気は無かったが、それでも確かにこいつは何かを呪ってはいたのだった。
 何を?
 いじめの実行犯を?
 それともこの世界の全てを?

「放っておくわけにもいかないでしょう。心配しないでも、教師に現行犯で捕まったんだから言い訳も出来ないわよ。あいつもすぐに非を認めて、」
「放っといてって言ってるじゃん! 何でしつこくするのっ、どうせまた裏切るくせに!! すぐに取り上げられるような優しさなんていらない、信じて弱くなったときに裏切られて、もうそんなのは真っ平なんだッ!!」
「なっ――」

 絶句した。
 あの秋風がこうやって感情のまま叫んでいるということに。それから遅れて別のことにも絶句した。それがはっきりした言葉に変換されるのには少しの時間がかかっていて、そしてその間に秋風は文字通りその場から逃げ出しているのだった。









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