見知った顔を見かけてその場から跳ねるように立ち上がった。小学校の周りを囲うちょっとばかしの塀とそれに乗っかった鉄柵は学生らがさんざ遊び倒したに違いなく、等しく泥にまみれていたがセーラーのスカートが汚れたところで支障は無いので放置した。
 が、ブルーグレーの目と視線がかち合ったことで今さらスカートの泥が気になった。はたき落とし何とはなしに姿勢を正す。

「真佳っ?」

 小学生らしい丸みを帯びた顔にくしゃっとほころんだ笑みが咲く。どう反応するべきか迷っている間にはもうランドセルを背中で跳ねさせて拓斗がこっちへ駆け寄ってきている。校門前には拓斗と一緒に出てきた男の子らがいたが、「先に帰っとくからな〜」と「また明日」の応酬だけで話はついたらしかった。羨ましいなあ、と少しだけ思う。

「どしたの、真佳」

 走り寄ってきたからか頬を紅潮させて控えめな笑顔を浮かべてくる拓斗に先日のことを気にしている素振りは全くといっていいほど無い。小学六年生という多感な時期に何らかの感情が閃かないはずは無いと思うのだが。
 ひょっとしたら拓斗にとって自分はそこまで取り立てて特別な何かではないのかもしれないとちらりと思って、けれどすぐに考えを改めた。これはちゃんと拓斗を“見て”きた結果に弾き出される答えじゃない。

「……謝りに、きた」

 背中で組んだ両手の指をもぞもぞさせながら、拓斗の顔から少しずれた位置に視線を固定しつつぼそりと。単に自分が謝り慣れていないだけなのか、それとも拓斗が気にしたふうも無いのが謝りにくくさせているのか判別がつかないがそれを理由に逃げるわけにもいかない。好意を無下にして自分の大好きな人を傷つけたツケを払う義務が自分にはある。千利にもそうやって謝ってきた。
「あやま……?」ぽかんとしてから眉尻を下げて困惑したような顔をする。どんな謝罪を想像しているのか知らないが、それは千利と全く同じ反応だ。

「ん……、拓斗の気持ちとか考えないで、色々邪険にしちゃって、ごめんなさい」

 頭を下げる。下校途中の小学生からちらちらと怪訝な視線を向けられているのを肌で感じた。中学校の制服を着た女子がランドセルを背負った男子に頭を下げているという図は確かにちょっと奇怪かもしれないが羞恥は感じなかった。
 その代わりに拓斗が慌てた。

「ちょ、や、え、何それ!?」
「低頭謝罪……?」
「される筋合いないしっ! っていうか、謝るってなに、何のこと?」

 こっちの片腕に手を添えて下から覗き込んでくる拓斗に仕方なく頭を上げながら、やっぱり微妙に視線を泳がせて

「この前の……あの、もう送り迎えしなくていいから、ってゆーの……」

 背中で組み合わせなおした指をまたもぞもぞ。何やら表情筋を怪訝な形に硬直させてから深い息を吐く少しの間がとても長く感じた。

「何で真佳が謝るのさ……」
「何で、って」
「確かにちょっとぐさっときたけどさ、ほら、あれはオレが、真佳の気持ち考えずに勝手に話進めたのが悪いんじゃん。謝んなきゃなのはオレだろ」
「ちがっ……」

 勢い込んで言いかけたが途中で言葉に詰まった。違うというのは分かるのにどう違うのか上手く言葉に出来ない。理由はちゃんと胸の中にわだかまってるはずなのに、それを正確に伝えられるだけの伝達能力が決定的に不足している。
 考えながら、わだかまったもやもやに一番近くなるように言葉を搾り出そうとする。

「私、は、自分のことしか考えてなくて……」
「うん、それはオレも同じだよ?」
「ううん、違う、そうじゃなくて」頭の中で文字を整理するだけの間を置いて「……私は自分のことしか考えてなかった。拓斗が傷つけられることで自分が傷つくのが嫌で、だから多分……拓斗の信頼を裏切ったんだと思う。謝らなくちゃならないのは、そのことなんだ」

 ついこの間までの自分ならこれだけ寄せられている好意も何もかもを見ることが出来ずに“信頼されているわけがない”と卑屈に考えたかもしれなかった。誰かに信頼されたり信用されるほどの人間なんかじゃない、所詮は黴菌でしか無いんだって。
 けれども今は、ちゃんと誰かを見れるだけの目を持っているから迷わない。

「そんな」

 と拓斗はちょっと困ったような顔でそう言った。

「裏切って無いだろ。オレが傷つくことで真佳が傷つくって言うんなら、それはちゃんとオレのことを考えて想っててくれてたってことじゃん。オレら多分、相手のことを思う気持ちが同じ方向に向かなかったって、ただそれだけのことだと思う」
「で、も……だって、拓斗があれだけ私のこと考えててくれたのに、私は折角差し伸べられた手を取らなかったんだよ」
「……真佳、何か勘違いしてない?」

 言われてきょとんと瞬いた。拓斗の方はこっちのそんな反応にやっぱり困ったように笑いつつぽりぽりと頬を掻いて曰く。

「うー、ん。信頼を裏切るってさ、なんかこう、オレの期待を知って敢えて裏切ったとか、そういう悪意があってこそのものなんじゃないかなあ。それが無いんなら、勝手に真佳っていう虚像を作り上げた人が勝手に理想を重ねてただけに過ぎないんじゃない? 信頼されてるから必ずそれに応えなきゃいけないなんて、そんな強制的なものじゃないだろ。真佳が気負う必要は無いと思うけど……。
 それに、やっぱり真佳はオレの信頼を裏切っては無いよ。そうやって自己犠牲的なほどに人のこと考えれる真佳は、確かにオレが信頼を寄せてる真佳だもん」

 そう言って屈託無く笑った。拓斗の笑顔には丁度良い具合に気が抜けていて自然で、まだあどけなさの残る顔立ちと調和して真っ白な羽毛みたいな印象を受ける。だから見ているだけでこっちもふわふわした気持ちになって、ちょっとだけ、つられたように頬っぺたを綻ばせた。

「そっ、か。そういうものなのか」
「そうだよ。また誰かに言われた言葉をそのまんま受け取っただろ」

 微苦笑交じりに投げかけられてついもにゃもにゃした曖昧な反応になってしまった。
 拓斗に姫風のことはまだ言っていない。和解したのが昨日であることと経緯が色々と複雑だというのもあるが、話すにしてもまずは謝罪するのが先であろうと考えていたというのが大きい。

「まあいいや。真佳、これから用事ある? 無いんなら久しぶりに一緒に帰ろっか」

 何の気負いもなく当たり前という感じで放たれた誘い文句に、差し出された手を取った。









……end?

 Y字路で拓斗と分かれた途端、多分そうだろうなと想像していた通りにそいつ(、、、)は真佳の目の前に現れた。カーブミラーに映った真佳の姿を勝手に借りて冷ややかな顔で嗤っている。鬼莉だった。

「まタそうやってカンタンに信用しテ。裏切る側にしたら格好のカモだよネェ」

 小ばかにしたように鼻で笑って文字通りこっちを見下して、多分彼女は真佳の反応を待っているのだと思う。真佳が必死に反論したり心的外傷を思い起こす度本当に満足げに微笑む奴だったから。
 けれどもこのときは、不思議とそうやって反論する気も、無視して家に帰る気も起こらなかった。

「何とでも言えばいい。私はもうキミの言葉に引きずられたりはしないから」

 鬼莉のにやにや笑いが引っ込んだ。

「……へーえ。裏切らレることを許容するの? 許してあげるンだ? 真佳を売っていじめのネタにしてた女のコと忘れたの? どれだけキミの心臓抉り取っていっタのか。それを許しテあげるって?」

 じっとりと浸み込ませるような、聞いているだけで心を持っていかれそうなそんな声だった。毎回毎回、真佳が明るい道へ傾きかけているときにこいつは決まってエデンの園の蛇のように真佳を唆そうとする。屈しないって、多分よっぽどしっかりした意志が無ければ鬼莉には勝てない。
 だから両足を精一杯ふんばった。

「許さないよ。何も。裏切ったりいじめてきたりしてきた人間に対する怒りは消えない。それほど私はお人好しでもないし強くもない」
「なら、」
「ただッ」

 強い口調で相手の台詞をぶった切って、それからカーブミラーに映る鬼莉の、否、自分自身の虚像を睨みつけた。

「……ただ私が、自分より拓斗や千利や姫風が大事になった、それだけのことだ」

 虚像から視線を外すように背を向けた。
 眼前に並ぶ平穏な住宅街に似つかわしくない暗鬱でのっぺりした声色が未練がましく首筋に張り付いて、

「――いいよ。信じたけレば信じるといい。それでも裏切られたとキ、真佳がどんな世界を見ルか、楽しみにしてるよ?」

 押し殺したような笑い声と共に霧散した。




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