教室を覗くと目的の人物はいなかった。一時限目終了後どこかへふらりと出かけて行ったのですぐ追いかけようとしたのだが、クラスメイトに話しかけられている間にどこかへ行ってしまったのだ。二時限目の授業まで残り三十秒と言えば流石にもう席についていないといけない時間のはずだが。そうこうしているうちに授業開始時刻まで残り二十九秒になっていた。
 堪らず立ち上がった。隣の席でクラスメイトがびっくりした風に「どうしたの?」とかいうようなことを言ったが、曖昧に答えただけで今度は立ち止まることなく教室の外へ飛び出した。

「姫風?」

 道中すれ違った教師の声が後ろの方へ飛ばされた。



 屋上の扉を初めて開けた。思った以上に重さのある鉄製のそいつを苦労して押し開けると、途端唸るような風の音が聴覚を拐って髪とセーラーのスカートを無茶苦茶にかき乱す。それらを押さえながら奥へと足を踏み入れた。
 そこに目的の人物がいた。
 鉄柵に上半身を預けてたおやかな黒髪を風の思うがままに任せているそいつは秋風真佳に違いなく、彼女の有する特徴的な赤目が此方に向けられているのがその何よりの証拠だった。
 保健室や図書室を幾ら回っても見つからないわけだ。最初からこいつは此処にいたんだから。

「真佳に近寄るナって言わなカったっけ?」

 ――違った。秋風じゃなかった。
 嫌な具合に跳ねる心臓を押さえつけてカラカラに乾いた上唇を舐める。二十メートルは距離のある相手から肌がちりちりと焼けるような殺気を感じるのは、さくらにとっては初めてのことだ。髪とスカートをかっさらわんと暴れている風が気にもならなくなるほどだった。
「秋風以外の人間に近づくな、とは言われてないわ」ぴしゃりと言い放って間髪いれずに、

「アンタ、“鬼莉”ね?」

 核心をついたがそいつは驚きはしなかった。クラスメイトから情報が漏れる程度のことは覚悟していたのだろうか。その表情は冷やかだ。「それがどうか?」答えた声もおざなりだった。

「強いトラウマから精神病を患うのはよくあることだわ。その中に自我の同一性が損なわれる疾患がある。一人の人間に二つ以上の同一性または人格状態が入れ替って現われる――解離性同一性障害」相手の目の色が変わったが構うことなく畳み掛けた。「秋風はこれに罹ってる」

 瞬間飛んできたクナイに心臓を打ち抜かれそうになって寸でで体を捻って避けた(セーラーの布地を幾つか掠め取られた)。後ろの方でからんと軽い音がする。それと比して重苦しいほどの圧力をさくらは全身を持って体験していた。
 いつの間に身を翻したのだろう。先ほどまで背を向けていた彼女はさくらと真正面から対峙していた。右手を此方に投げた状態で静止しているということはクナイを投げつけてきた犯人も十中八九こいつであり、つまりさくらを殺そうとしたのもこいつで間違いないのだろう。
 黒髪の隙間から睨みつけてくる赤い瞳を初めて恐ろしいと思った。暗闇で輝く赤い非常灯のような不気味さを想起する。見つめているだけで寒気が走る。真夏日であるはずの気温が此処へきて急激な冷え込みを見せたように思えた。

「それがどうか?」

 さっきと同じ言葉をさっきとは別のトーンで繰り返された。面倒くさげに忌々しいものを見る目はしていない。あの目に宿っているこれは明かな敵意のそれである。僅かながら身長が高いのは自分であるのに、この見下されてでもいるかのような感覚は何なのだろうか。この言いようのない圧迫感のようなものは。

「……解離性同一性障害の原因が強いトラウマなら、それなりの理由がアンタの存在にあるってことだわ」

 頬に伝った冷たい汗を親指の腹で拭い取る。「分カりきったコとを」小馬鹿にしたように鬼莉が言う。

「そこに、秋風があれほど頑なに他人を拒む理由がある」

 今度こそ鬼莉は瞠目した。宇宙人がいきなり流暢な日本語で話しかけてきたみたいな可笑しな顔で、それから彼女は少し笑った。微笑んだなんて可愛らしいものではなく、笑窪の浮いた片頬をにやりと持ち上げるような意地の悪い笑い方だった。

「惜シいね」
「惜しい?」
「真佳がニンゲンを拒ム理由は確かに強い心的外傷が原因だケれど、ワタシがいるのとは関係ナい。ワタシはそれよりズっと以前に此処にイる」

 そいつは秋風の胸元に右手を当ててそう言った。セーラーの赤いリボンの下で脈動する赤黒い心臓を指していることはすぐに分かった。それは生命の象徴だ。

「それよりずっと前って、……いつからよ?」
「さ〜あ」

 どうやら答える気は無いらしかった。秋風がいじめを受けてからかそれより前か聞き出そうと思ったのだが。
 仕方ない。代わりに別の話を口にする。

「秋風が他人と距離を置いてる原因は? 知ってるんでしょう?」
「そレを聞いてどうするつもり? どうせ何も出来ナいよ」
「さあね。聞き出してから考えるわ」

 明らかなはぐらかしに一瞬目尻をつり上げたような気がしたが、それもすぐに思案顔の中に消えていた。彼女の感情の起伏は思っていた以上に激しく何に気分を害し何に喜びを表すのかがイマイチよく掴めないでいたが、尋ねないではいられなかった。殺されるかもしれなかったがそれはそれで仕方が無い。生きていられるならそれに越したことは無いが、周りが思っているよりも生というものにそれほどの執着心は感じられなかった。
 ちょっと考えた末に鬼莉が言った。“grin like a Cheshire cat”――慣用句が脳裏を過ぎる。

「キミの前に一人の女学生が転校シてきたこトを知ってる?」

 とっておきの物語を教えるようなもったいぶった物言いで問いかけてくる。さくらは少し間を置いてから首を振り“No”の意思を示した。さくらより以前に転校してきた者の話など会話に上ったことがない。
 彼女が大仰に頷いたのがはっきり見えた。

「真佳とハ別のクラスのニンゲンになってルからそんなもんかモね。去年に転校してキた子なんテ面白味も何も無いもノ」

 鬼莉の言葉には明かな棘が含まれていたような気がした。秋風の敵は鬼莉の敵と同義であるということなのか、それとも個人的な怨恨が孕まれているのかはさくらには判別がつかない。

「去年の二学期に転校シてきたキノシタって子ね、いじめられテた真佳に近付いテきたのよ。いじめられてることを知っタ上で関係無いって近付いテきた子でネぇ……真佳も信頼して休み時間も放課後も一緒にいた子だッタんだケど――」

 赤い目を繊月に細めて声のトーンを低くする。暗く滲んだ双眸には恨みつらみの他に恍惚に似た光があった。親が子を想うのにも似た“愛情”。声のトーンに合わせて周りの温度も低下した気がするのは考えすぎだろうか。太陽の光を直に浴びながらこれほどの冷えを感じることになるとは流石に思いもしなかった。お化け屋敷に入ったときのあの雰囲気に少し似ている。静けさの後にくるのは決まって――

「そいつは真佳ヲ裏切っタ」

 温度の低下。
 さくらはさして驚かなかった。鬼莉は微笑う。

「真佳がキノシタに話したこトは次の日はクラス全員が知ってイた。好きな食べ物、苦手な教科、趣味、ぜんぶ」両腕を広げてから肩を竦めて、「知らないはズのことデ真っ正面から侮辱されてその発信源も明らかなノに疑おうともしないんダよ、あの子。馬鹿だよねェ?」

 小ばかにしたように鼻で笑った。愚かな人間の言動を俯瞰する堕神が如し女は、さくらの音無しの構えに興を削がれたように首を竦めはしたがへそを曲げて沈黙を貫くことはしなかった。

「二ヶ月も待たずにそイつは真佳の側から離れテ行った。キノシタといじめの首謀者とガ一緒にいるのヲ見るのにソう時間はかかラなかッタ」

 言い終わってから鬼莉はまた笑った。楽しみで楽しみで仕様がないのが明らかな笑みは、キノシタでも秋風でもなく真っ直ぐ此方に向いていた。

「いじめられてるとか関係無いよっテ優しく言ッてたニンゲンが情報をぜぇんぶリーク
してタんだから、優しくされればされルだけ警戒するのはトーゼンだよねぇ? それデ? 姫風はどうスる? これカらどうする?」

 そいつはさくらの答えが欲しいのだ。事態を好転させる解答ではなく、ただただ降参の一言が欲しいのだ。さくらに秋風は救えないことをさくら自身に認めさせる、それが恐らく奴の狙いだった。
 理由は分からないが、こいつは秋風を憎むと同時にどうしようもなく愛してもいるのだろう。ただしそれは、子どもが気に入りのぬいぐるみに接するのと同じくらい一方的なものだったが。

「これは秋風の問題だってことはよく分かったわ」

 にやけた顔で尋ねられたことには無視を決め込んで別の言葉を口にした。屋外の生温い強風と心理的要因が相まって唇は乾ききっていたが幸いなことに喉は正常のままだった。掠れた声では締まりが無い。
 唸る轟音の風に負けぬよう潤った声ではっきりと。

「アイツを救えるのはアイツでしかない。私がでしゃばっても状況は何も変わらないでしょう。だから私はアイツから助けを求めない限りは何もしない」
「そレって結局見て見ぬフリしてる奴らと一緒じゃナいかなあ?」
「そうなるかもね。助けないんですもの」

 事実嘲笑う鬼莉の問いかけに動揺しはしなかった。しないよう努めた、と言う方が適当か。戸惑いや躊躇いは見せてはいけない。感情を表面に出したとき鬼莉は「やっぱり」と
思うだろう。やっぱり真佳を救えるのは自分だけなんだと。失望と快感をない交ぜにして思うのだ。それでは何も変わらない。

「でも手は差し伸べ続ける。突っぱねられようが疎まれようが手だけは差し伸べ続けるわ。……少なくてもクラスから姿が見えなくなった秋風を、気にして探しに来るくらいにはね」

 初めてちょっと微笑ってやった。秋風に避けられていた原因が自分では無かったことに拍子抜けしたのかもしれない。鬼莉の怪訝そうな目がこっちを向いたのでそれもすぐに引っ込めた。
 品定めでもしているみたいなじっとりした眼差しだった。さくらの言葉に隙があれば即座に切り返してでもきそうな目付きをしていたので殊更平静を繕うと、少ししてから今度は向こうの方から笑い出す。くふっ、というどこか籠った笑い方で、それもやっぱり人を馬鹿にしたような印象が強い。

「できるノならドウぞ」

 そいつは挑発的に言ってのけてさくらより先に屋上から姿を消した。すれ違いざま鼻腔をくすぐったシャンプーの匂いは間違いなく秋風のそれで、鬼莉の中に確かに真佳がいることを今さらのように再認識した。









≪戻る 作品TOP 次へ≫
inserted by FC2 system