「死ね」

 という言葉が耳元に囁きを残して心臓にざらざらしたノイズを残した。振り返る。すれ違いざま死の呪いを吐き捨てたとは思えないほどのうのうとした動作で、童顔の男子生徒は進行方向にあった友人に何やら喋り散らしていた。一度にやにやした気味の悪い顔でこっちを見た。
 週に一度行われる学級集会は二年生の教室がある棟の、それなりの広さを持った剣道場で行われる。学級集会と言われるくらいなので当然二年生は全員これに参加しなければならず、必然的に違うクラスのニンゲンと接触する機会も多かった。さっき真佳に呪いの言葉をかけた男も同じクラスの奴ではない。
 優越感に浸ってにやにやしている男に何らかの感情は覚えたはずだが、何だったか忘れてしまった。
 いつも真佳をけしかけてくる鬼莉も表に出てくる様子は無いようだった。こういうちっさいことに関して鬼莉は水槽の中でイカが墨を吐いたくらいの認識しか持たない奴だったので、それは何ら可笑しなことではなかった。寧ろこうやって徐々に精神をすり減らされている真佳を見て愉しんでいるような気さえする。きっと今まで苦しいことも汚いことも鬼莉に押し付けていた分の仕返しとして、奴は真佳の苦行を傍観してかき回して愉しむことにしたのだ。そう思うと気は楽だった。
 先日の進路調査の簡単な結果(主に将来を決めていない人間の危機感の無さに対する忠告)をたっぷり数十分かけて説教されて解放された。それで何か感銘を受けた生徒がいたとは思えないけど。だらだらした足取りで剣道場を離れていく人波を横目に、真佳も靴を履いて廊下に出た。
 真佳の方も例に漏れず何事か感銘を受けたつもりは無かったので、同じような歩き方になっている自覚はあった。将来に対してはやっぱり他人事で、まだ受験までには二年あるんだし来年考えればいいやと頭のどこかで思っている。まだ二年あると思っているかもしれんが二年なんてあっという間だぞと集会の途中に学級主任が言った気がしたが心には残らなかった。
 教室に帰る途中、一年の教室へ続く廊下の前を通りがかった。廊下の真ん中で仁王立ちしてこっちを、明らかに“外部”から来る他学年の方を威嚇している教師と、お互い無感情で消極的な視線を交わして先にこっちから視線を外した。









 神丘中学校二学年に在籍する生徒は総じて害悪であるという意識が何時の間に職員の中に沈殿し出したのか真佳は知らない。ただそれは、学校内でそれなりに権力のある大人が他学年に悪影響を及ぼさないよう真佳らの学年だけを隔離しようと考えるには十分な感情で、実際真佳らが進級した時から他学年との交流は学校行事でもない限り一切禁止の状態となった。
 それは真佳にとって不満感や不信感よりも何より安堵を抱かせた。教師が見張っている限り下級生に悪い影響を与えて誰かを自分と同じ心地にさせることは無いだろう。少なくとも二年生の影響からでは、という意味でだが。
 神丘中学校二年生、全四クラス。真佳の他にもいじめられている人間は各クラスに一人はいるとして、最低四人の被虐者が耐え卒業すれば事は終わるという意識が他学年を受け持った教師の中にはあるのだった。それは真佳も同じである。中学を卒業すれば少なくともこの呪縛から解放されると信じている。
 教室に入るや否やわっと膨れ上がった音の塊に体がのけぞった。男子の数人が窓の傍で何事かを囲んでいる。女子の方はきゃーきゃー言いながらその場から離れて仲のいい子同士で手と手を絡めあっていた。ただならぬ事態に好奇心は湧いたが野次馬に加わるのは御免だったので軽く眉を跳ね上げただけで自分の席に腰を下ろした。幸いなことに真佳の席は窓際には無い。
 じじじじじ、というノイズの塊みたいな音に集団がわっと距離を取った。その隙間から見えたものに、なぁんだ、と少し拍子抜けする。セミが飛び込んできたらしかった。翅を体の下にしてばたばたもがいている。ノイズ声が一層高く突き刺さった。男子や女子がぎゃーぎゃー騒ぐ。夏のうだるような陽光が窓から差し込んでべたつく空気を一層暑苦しく仕立て上げる。
 鬱陶しいなあ……。
 という感情がぷっかりと心に浮かんできた。すれ違い様かけられる悪言も将来についてわざわざ全学年を集めて語る先生も加害者でもない生徒を威嚇してくる教師の視線もセミごときで騒ぎ立てるクラスメイトも夏の暑さもセミの鳴き声もどれもこれもが鬱陶しい。
 前方の入り口から入ってきて、同じように怪訝に身を仰け反らせた姫風さくらと目が合った。
 鬱陶しい……。
 ぷっかり浮かんできたそいつが真っ黒な口を大きく開けて真佳の思考を丸呑みにした。




 目の前をまとわりつく羽虫を握りつぶした。拳を開くとスイカのタネに近い大きさを持ったものが手のひらにへばりついていて、それが不快でひしゃげた翅をつまんで教室の床に弾き飛ばした。手のひらに引っ付いた体液が引き攣れのような感触を残して気持ちが悪い。舌を打つ。前なら舐めとっていたかもしれないがそんな気にもならない。
 なんだか機嫌が悪い。夏の暑さだけじゃなく苛々する。いつからだっけ。ああ、姫風と会ってからかと思い至ってまた舌を打った。
 教卓の前で英語の例文を読み上げる教師の声を右から左へ受け流して、横目の視線を姫風の方へとやっていた。姫風が転校してくる前までは空席だった場所に湧いて出てきたように居座って教科書に目を落としているそいつを忌々しげに睨みやる。不規則に踊る硬いチョークの音と共に姫風がペンに手を伸ばす。自分はと言うと学生の身分でもないのにノートを取るなんていう無意味な行動を起こす理由が無かったので、そのまま視線を突き刺し続けた。
 特徴的な銀色の目に重たげな睫毛を被せて淀みなく英字を綴る様はそこだけ切り取って額縁に嵌めるだけで価値が出そうだ。目を伏せるだけで憂いを帯びた表情を作り出せる絶世の美少女。周りの日本人とは瞳の色が違うのに、白人の血が混じっているというだけで当たり前みたいに受け入れられてちやほやされて。
 ――困ってたんならそこらの人間に助けてでも何でも言えばいいじゃないの。
 保健室でかけられた台詞がフラッシュバックして脳に瞬いた。そのとき保健室の窓から零れていたのは気だるい夕方の光であったはずなのに、今真っ赤な双眸に滲むのは暗鬱とした色だけだった。
 助けを求めろって? 誰に? そいつが真に真佳を救ってやれる(、、、、、、、、、、、)とでも?
 根拠の無い期待を抱かせて真佳の心に揺さぶりをかける、姫風さくらが煩わしい存在になりつつあった。真佳を救ってやれるのはワタシだけ。真佳に安寧を与えられるのはワタシだけ。宇宙の法則を姫風に刻み付けてやらなければならない、と思った。
 左の手のひらをぺろりと舐めた。羽虫の体液の味を舌の上で転がした。






 ガスッ……というコンクリートを抉る音が手元でした。角を曲がってきたところだった姫風の首筋すれすれのところでクナイの刃が禍々しい光を放っている。そいつを横目で見て、姫風の白い喉がこくりと揺れた。天然ものの茶髪が二、三本ほど切れて風に飛ばされた。
 特別教室の並ぶ四階は他と比べて人の出入りが極端に少ない。六コマ目の終わりとなると普段はだらだらした足取りでだらだらしたお喋りに花を咲かせる生徒らも早々に帰り支度を始めて教室に帰ってしまうので、人気の無さが尚更目立った。人気が無い、というか、今現在鬼莉らのいる階段付近を含めて四階の廊下・教室を含めても存在するのは自分ら二人だけなのだ。

「……どういうつもり」

 か細くはあるが十分“凛とした”と形容してもいい部類だったので一瞬へえと感心した。数年前から犯罪大国とも蔑称されるアメリカで暮らしていたということが関係しているのか、綺麗な顔とは裏腹にそこそこ修羅場慣れしているらしい。
 こういう女には初めて会った。
 勿論秋風家に縁のある人間以外で、という意味で。
 初めて会ったということは、つまりそれだけ真佳の心に今までに無い鮮烈な思い出を残すかもしれないということだ。

「どういうツもりも何も……」

 わざとクナイの角度を変えながら涼しい口調で焦らすように言を紡いでちょっと微笑った。姫風の視線が近づいてきたそれに釘付けになる様があまりに滑稽で面白かったので。大迷宮で遭難するニンゲンを俯瞰する気分に近いかもしれなかった。

真佳の(、、、)周リヲうろちょろサれるととても迷惑なのデ、金輪際近寄るなってイう脅しのつもり?」

 小ばかにしたように肩を竦めた。
 姫風の目に剣呑を帯びた色が加味される。精細に造られた銀細工が途端に銀剣にナリを変える。

「アンタ誰?」

 目を瞠った。
 ――「アンタ誰?」頭の中で姫風の台詞がリピートされる。中々頭に入ってこなかったのでそれを何十回も繰り返して何十秒もかけて咀嚼してそれで漸く把握するという回りくどいことをしてしまった。これが戦場であったなら鬼莉は何の抵抗も出来ず殺されている。
 無防備な喉を刃に晒しておきながら奮然と此方を見下ろす姫風とすっかり立場が逆転している。今や頚動脈に当てて脅すはずの刃はすっかり意味をなくしていた。
 秋風真佳は秋風真佳である。秋風真佳を知るこの女が秋風真佳に向かって誰何する道理は無く、例え鬼莉が第三者の目で見たものをそのまま口にしたところで周囲の人間には秋風真佳の言葉として取られるに違いないし、いつもと態度が違ってもいつもと口調が違っても秋風真佳は秋風真佳にしかなり得ないはずであるが故に体調や精神の心配をされてもそこに“もう一人の他人”が居座っているなどという現実を超越した非現実を咄嗟に受け入れられることは無い。
 その常識をたった今ぶっ壊された。危険分子。

「……そう、ワタシは真佳じゃナい。ソれが分かったなら理解でキるよねェ? 秋風真佳に近づくな。ワタシは真佳みたいニお人好しじゃアないよ。――近づいタら殺す」

 最後の方は噛んで含めるようなじっとりとした言い方で、低く湿った声が真夏の日差しに切り取られた影に沈んでいった。動いた途端世界の均衡が崩れそうなちりちりした空気の中で、唾液が喉を鳴らす音が妙に拡大されて耳に届く。
 姫風はそこに突っ立っていた。心持ち色が失われた強張った顔で首筋に宛がわれたクナイに視線を固定させていた。そいつの乾き気味の唇から漏れる固い呼気が日常から隔絶された空間に非現実を塗りたくるのに一役買っている。
 クナイを離した。抜いた途端コンクリート片がぱらぱらと地面に降り積もった。
“脅し”はストレートに効いたようだった。他とは違って特異性の強い姫風のことだから突っぱねられる予感も多分にしていたのだが杞憂だったようだ。面倒なことにならなくてよかった。
 その日はもう姫風からは何のアクションも起こして来なかった。




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