先生はずるいなあといつも思う。特に熱気を孕んだべたついた空気に加え開け放たれた廊下の窓からじーわじーわと飛び込んでくるセミらの大合唱に精神力と体力を徐々にすり減らされたりしていると、門扉を一歩潜った先に循環する冷気がどれほどの価値を持っているかということは想像に難くないであろう。職員室にいる間中こんな心地よい場所に陣取っていられるなんて先生はずるい。

「授業中は秋風さんと同じく冷房の無い教室で授業してるじゃないですか」

 汗で頬に張り付く髪に不快感を覚えながら不平を垂れると千利はちょっと苦笑してそんなことを言った。“秋風さん”の部分がそこだけ別のところから音声を借りてきたみたいに不自然だ。呼びなれていないことはすぐに分かる。

「しかしながら生徒は休み時間中にも暑気に晒されねばならないわけで?」
「申し訳ないですが我慢してくださいとしか言いようがありません。全部の教室に冷暖房機を設置できるほどのお金が無いんです、此処」

 冗談半分本気半分で真佳が言うと良心がちくちくと痛んででもいるかのような顔で微妙に視線を逸らして学校の裏事情をぼやいた。
 相手が自分の仕える家の娘とは言え、無理なものは無理なのだからもっと堂々としていれば良いのにと不平を漏らす表の顔とは裏腹に妙に冷めた頭で考えた。表と裏の顔とを使い分けることに躊躇が無くなったのはいつの頃からだっただろう。

「それより秋風さん、今は一応高校受験先に目星をつけるための進路相談の場ですので、私語は謹んでいただけると」

 はっきりとは言い切れないのか歯切れの悪い物言いになっている。やっぱり“秋風さん”の部分が不自然だった。
 向かい合わせに座った千利のネクタイの結び目辺りに視線を漂わせて「んー……」やる気の無い相槌。進路と言われても、中学二年の段階で明確な未来のビジョンを真佳が持っているはずもない。一週間後の未来だって真面目に考えてやしないのである。
 普段は気持ちのいいほどに片付けてある千利の机の上に、幾つかの高校のパンフレットが並んでいた。この中のどこか、或いはそれ以外のところに一年後、通うことになるかもしれないという実感がすぐには湧いてこない。多分どれだけ時間をかけても湧いてはこないだろうと思う。同級生がバラバラになるのでいじめは自然消滅するだろうとか、その程度。
 此方に考える意思が無いことを汲み取ったのか知らないが、千利が細いため息を吐いた。

「……まあ、本格的な決定は三年生になってからですから、今すぐに決める必要はありませんが」千利の視線を歪ませるフレームレスの眼鏡を中指できゅっと押し上げて「三年生になってから実力以上の高校へ行くと決めると後が大変なので、今からしっかり考えておいてくださいよ」

 一クラス総勢四十二人を二分しその一方を任された者とは思えないほどの甘い言葉だ、と思ったが、でも中学二年の進路相談なんてそんなものかもしれない。私立中学校でも何でもない普通の公立の中学校で、自分の将来を明確に意識している人間は少ない。
 その例に漏れず真佳は非常にやる気の無い感じでスチール椅子をきいきい言わせて両足をぱたつかせた。

「そー言われても、家に近いとことか制服が可愛いとことか、それくらいしか思いつかないしなあ」
「将来の夢は無いんですか?」
「んんんー…………無いかなあ」
「……御家を継ぐ気は」

 声を低くして告げられたことにぴょこんと視線を跳ね上げる。考えていなかったとかいうのではなく、此処でその話が出るとは思わなかったのだ。
 真佳が生まれ育った秋風という家には特異性が二つある。一つ。政治家資産家その他諸々の権力者の弱みを網羅していること。それ故暗殺や誘拐の対象となることが多く、千利他セキュリティポリスを傍に置いておくと同時に秋風家のそれぞれが並外れた戦闘能力を有するということ。これが二つ目。幼少期から祖母の訓練を強制的に受けさせられていた真佳も当然例外ではない。
 千利の言う“御家を継ぐ”というのは、即ち権力者の弱みを握り管理している祖母の跡目を継ぐということになる。

「……継ぐにしても、本格指導は高校卒業してからでしょ?」

 机を挟んだ向こう側を教師が通るのを横目で見ながら此方も声量を低くして応じた。千利は何も言わなかったが、祖母が真佳の戦闘能力をどれだけ買っていて自分がどれだけ強いのかということくらい地球が丸いのと同じくらい自然に知っている。
 同時にこれが問題を先送りにしただけであることも知っていた。高校を卒業したら何になるか考えるなんて、高校生活をエンジョイしているのすら想像できない真佳には難しいどころかいっそ人事である。

「――秋風さん。怪我したんですか」

 千利の言葉にぴくっと肩が反応した。いつもは学校規定に沿って膝下まで垂らしているセーラーのスカートが、椅子に腰掛けたことによってめくれて膝小僧が露になっている。そこに張り替えたばかりの絆創膏と湿布があった。
「階段で転んだ」さり気ない感じを装ってスカートで膝小僧を隠しながら言った。

「二回もですか?」

 眼鏡の奥のアイスブルーの双眸が鋭く光った気がした。居心地の悪さを感じて膝と膝をもぞもぞさせる。一度の転倒でほぼ同じ場所に擦り傷と打ち身が出来ているのが疑念を呼んだのかもしれない。

「……可笑しい?」

 語尾が若干上ずった感じになったことに一瞬肝を冷やしたが、疑問系のしり上がりに上手い具合に混ざり合ったので感づかれたとは考えにくいと思い直す。
 千利は答えず話題を変えた。

「藤雛さんとの登下校、止めたと聞きました」

 連続で痛いところを突かれて心臓が嫌な具合に跳ねる。自然上目遣いに千利の下まぶた辺りを見ていた。今まで知っていながら何も聞いてこなかったくせに、膝小僧の件――つまり平たく言うといじめの件だが――と何らかの繋がりを嗅ぎ付けるほどには鼻が利くのだからやりにくいったらない。
 元々秋風家お抱えの殺し屋集団のボスが扱いやすいはずが無かったのだ。

「お嬢」

 と千利は言いなれた呼称で真佳を呼んだ。学校ではそれは禁句ですよの決まり文句を口にする時間を千利は与えてくれなかった。

「そろそろ全て話してくださいませんか。藤雛さんのことも怪我のことも。他にも聞きたいことが山ほどあるんですよ、俺には。お嬢の、」

 ぎちぎちに張り詰めたような一瞬の間。

「……お嬢の頭に傷入れやがった不埒者はどこのどいつですか……とか」

 前半部分に黒々とした思念が渦巻いているのを肌で感じて背筋が凍った。
 流石秋風家お抱えの殺し屋と褒め称えるべきか、威圧しようと思えば幾らでも威圧的態度で相手を竦ませるだけの度量を持っている奴なのである。まさかそれが真佳自身にも通用するものとは夢にも思っていなかったけれど。
 恐怖意識の突端が突き出すことで持ち上がった口角のまま、歪んだ笑顔を形作って真佳は千利を仰ぎ見た。後半部分の台詞で幾分か緩和されはしたものの、ついさっきまで確かに普段の千利からは考えられない禍々しいオーラがそこにあったことを真佳は皮膚神経で理解している。
 今まで何も言動には表さなかったから気付かなかっただけで、こいつはずっと怒っていたのだ。
 真佳がパイプ椅子で殴られて病院に運ばれてから――否、もしかしたらもっとずっと前、真佳が何者かから被虐を受けていると知ったその時からずっと。三年間のどろどろした思いをその一言にぎゅうぎゅう詰めにしたみたいな、そう思わせるに十分な感情がそこにはあった。
 しかし千利が怒っているのはクラスメイトにだけではないのだと真佳は知っている。クラスメイトに怒りを抱くと同時に、千利はそれとは別のものにも同じ怒りを抱いているのだ。

「頼みますから」

 その一端を千利は見せた。

「頼みますから、辛いときは辛いと言ってください。でないとお力になれません」

 故意に視線を外して千利の表情を読み取らないようにした。どんな顔をしていたか、どんな感情を抱えているか、知ることを拒否した真佳にはいつもとトーンの違う千利の声から読み取るしか術が無い。

「……そうだね。辛かったらね」

 席を立った。
 最後まで千利の顔は見なかった。




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