小学校中学年の頃のことだ。
 当時から真佳は既に負けず嫌いの性格を有しており、男子に冗談でからかわれたときには追いかけてとっ捕まえて、笑いながら軽くはたいてみたりするような、要するに男子みたいな奴だった。小学校に入学した頃から女子よりも男子と遊ぶことの方が多く、その影響だろうと思われる。女子の押し付けがましいまでの人間関係よりも男子のサバサバしたそれの方がよっぽど真佳の肌には合っていた。
 男女でグループが分かれだしたのはいつからだったか、はっきりしたものは憶えていない。ただ男子は男子と遊ぶことが多くなり、必然的に真佳は女子の集団に放り込まれることになった。
 仲の良い子はいたが、それでも真佳は女子という集団がそれほど好きではなかった。一個人の持つ思想を多くで共有しようとし、その思想が合致したものを仲間と呼び徒党を組んではそうでないものと距離を取る。仲間が多ければ多いほど力をつけ、そうでないものと距離を取るどころか人間社会から排除しようとまで画策する。男子が相手であれば正面から言い合えばいいだけの話なのに、女子ときたら怪しい雲行きを嗅覚で感じ取るや否や誰かしらを引っ張り込んで数の暴力に訴えかけ、その上自分たちは悪くないと信じて疑わないまま腕を絡めあって陰口を叩くのである。そんな女子があまり好きではなかった。
 いつからか、女子は「赤い目を持つ者は異端である」という徒党を組み、真佳は小学校高学年にして社会から迫害されるようになっていた。








「また怪我したの」

 と、呆れたように姫風は言った。またお前かとでも言いたげな顔である。そう言いたいのはこっちの方だ。せめて保険医がいてくれればクラスメイトと二人きりなんて地獄になることもなかったろうに、憎らしいことに今日もいない。
 神丘中学校の保険医は女性であり生徒に分け隔てなく接するがサボりとかには結構容赦の無い、極めて理想的な保険医である。奇跡的なことに小学校の頃の保険医もその類であったことを真佳は思い出した。

「階段で転んだんだよ」

 咄嗟に言い訳みたいなものが出てきたのが不快だった。転んだ現場は確かに階段だが、これは作為的且つ人為的なものであり別に真佳が間抜けなわけではない。が、真実を話したところで面倒くさいことになるだけだと思うので隠蔽した。姫風は何に疑問を抱いた風でもなく、表情を変えないまま薄く小首を傾げて「そう」とだけ言った。

「治療してあげましょうか」
「……別に、血が出たわけではない」

 数日前右膝に出来た傷跡はもう半ばほど塞がっていたが、完治とまではいっていなかったので普通の絆創膏を張っている。その左下に紫がかった打ち身があった。五百円玉にも満たない極々小さなものとは言え痛いものは痛いので湿布を貰いにきたのだ。姫風がいると知っていたら家に帰ってから張ったのに、と少し後悔した。放課後のこの時間に勿体無い精神が働いて保健室に来たのが行けませんでしたかカミサマ。前回の保健室の一件から姫風は真佳にとって苦手な部類の人間にカテゴライズされている。
 しかし薬品棚の前に立ったとき、今さっき突っぱねた言葉を猛烈に前言撤回したい気分に陥った。し、湿布はどこだ……。
 硬直していると左斜め後ろから姫風の声がかかった。

「……何してんの」
「べ、別に……」
「絆創膏の場所? ……ああ、血は出てないんだったわね、じゃあ湿布? それならこっち」

 口の中でもごもごと答える真佳に対して芯の通ったしっかりした物言いで応対して、隣の棚から湿布薬を引っ張り出してくれる。当たり前みたいに此方に渡されるそれに戸惑っていると、姫風はこくりと軽く小首を傾げた。いらないのか、なんて言い出しそうな顔に反射的に腕を伸ばして受け取った。

「あり、……がと、う」
「別に礼言われるほどのことじゃないわよそんなの。っていうか、」

 棚から離れて数日前も座っていたスチール椅子に腰を下ろしたと思ったら、既に出ていたらしい一枚の湿布を左手のアザに宛がっていた。クラスメイトの話を小耳に挟んだところでは姫風は確か弓道部に所属しているというから、それ関係の怪我だろうかとちらりと思う。

「困ってたんならそこらの人間に助けてでも何でも言えばいいじゃないの」
「…………」

 何も答える気になれず無言を貫き通した。時計の秒針が半周するときには自分も突っ立った状態のまま湿布のセロハンを引っぺがして患部にぺったり張りつけた。
 湿布のにおいを感じながら自然と小学校の頃を思い返していた。小学校高学年、直接的に向かってくる中学年の頃とは違っていじめが陰湿化してきたときのことである。
 クラスメイトからいじめを受けている中、一人だけ変わらず接してくれる子がいた。
 その子はいわゆるリーダータイプで、低学年の頃からそれなりに仲が良かったと記憶している。女子グループの中心的人材であり、生徒教師問わず人望のある彼女はクラスでも人気者の部類であった。彼女が声をかけてくるときはその他大勢の発する侮蔑の言葉も自然遠慮がちになったものだ。
 何度か学校で話しかけられた。何度か授業中に手紙のやり取りをした。誕生日を祝われた(真佳の通っていた小学校ではクラス全員の誕生日がリストアップされ教室前に張り出されていたのだ)。
 この頃、当時まだ真佳はそれほど屈折はしていなくて、良い意味でも悪い意味でも真っ直ぐな子どもだったので、他人を疑うという概念がそもそも存在していなかった。
 実際今思い返してみても彼女の言動は正しく友人と呼べるそれで、だからこそ余計にそれが好意によるものなのだと呆れるほど真面目に信じきったのである。
 いつものグループで罵詈讒謗の言葉を吐き捨て合っているのを見るまでは。
 悪罵の標的は真佳だった。
 ニンゲンの表と裏ほど信じがたいものはないと真佳は思う。助けを呼べと言われたってどうすればいいのだ。表情と人心の乖離するニンゲンに助けを求めて傷つかない保証は? 裏切られない保証は?
 ……あるわけがない。元々そんなもの、求めるものではなかったのだ。誰かに話したところで水掛け論になるのは必至であろうし、誰かと思想を共有したいとも思っていないからこそ真佳は口を閉ざしたのだ。
 姫風の視線が此方を向いたが、一瞥しただけですぐに視線を外されてしまった。口を閉ざしたことについて言葉を紡ぐ気は無いらしかった。
 セロハンをくず入れに放り込む。印刷用紙や絆創膏のテープなんかが蓄積した上にひらりと透明なセロハンが舞い落ちる。山を構成する一つとなったその横に、同じく透明なセロハンが舞い込んできた。脇から姫風の細く白い腕がゴミ箱の上に伸ばされていたので、姫風が持っていたものであることをすぐに悟る。悟ると同時に反射的に少し距離を取った。綺麗な顔を訝しげに歪めただけで追求はされなかった。誤魔化すように口を開く。

「……部活、行かないの。姫風さん」
「私? 行くわよ。湿布二枚使いましたって書いてからね」

 などと言いながら勝手に保健教諭の机の引き出しから付箋を取り出す姫風さくら。そんなものいちいち書かずとも、勝手に使ってそのままにして行ったニンゲンの方が多いだろうに律儀な奴である。それにしても湿布といいこの前の絆創膏といい、何時の間に保健室の備品の在り処を熟知するに至ったのだろうか。謎だ。
 思考に沈んでいるとそうしようと思っていたわけではなかったのに姫風が書きつけを終えてしまっていた。机上のペン立てに戻されたボールペンがからんと簡素な音を立てた。付箋はきっちりと椅子のまん前の見やすい位置に張られている。

「帰らなかったのね」

 と言われてちょっと悔しい気分になった。悔しいというか、忌々しいというのか。帰るのを忘れていただけで、別に自分の意思で残ったのではない。……と、心の中で異議を唱える。

「今から帰るよ。さようなら」

 そっけなさの見本みたいな口調で吐き捨てて踵を返す。背負ったままだった鞄が腰の後ろで僅かに跳ね、真佳が帰路を辿るのを少しだけ後押ししてくれる。背中を押されるがままに敷居を跨いで、……ちょっと考えてから、扉を閉じざまなるべく自然な動作に見えるよう視線を戻した。
 姫風はまだ同じ場所に突っ立ったままだった。
 突っ立ったままずっと此方を見つめていた。銀色のそれのせいで淡白な印象を受ける彼女の瞳に宿った感情は、
 ――無表情、だった。全くの。
 透明な眼差しに心を見透かされそうになって、そうなる前に慌てて両手で扉を閉めた。表裏の乖離。吐き気がする。あの無表情の下にどんな感情を抱えているのか、優しい言葉をかけながらどんな禍々しい感情を飼っていたのか! それを考えると恐ろしくて恐ろしくてたまらなく、黒い悪魔が今にも真佳を飲み込みそうでだからもう振り返ることなく一目散に逃げ出した。




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