体育祭のリレー練習で故意に押しのけられて膝を打った。
 精神を飛ばしていたので咄嗟に受身が取れなかった。砂利の張り付いた膝には無様な擦り傷が出来た。あっという間に血が滲む。
 鬼莉が真佳の前に立ちはだかってから二週間が過ぎていた。
 十四日という時日は鬼莉が与えた恐怖を風化させるには十分な日数であり、つまり必然的に真佳へのいじめは再発していた。それに対して反撃らしい反撃に打って出ることもしていなかったことが余計に彼らを天狗にさせたようだった。

「そこーぉ、大丈夫かーぁ?」

 先輩と思しき人が遠目でかけてくれた声にすぐには応えず立ち上がって砂を払った。うだるような夏風に晒されて傷口がひりひりする。

「保健室行ってきます」

 ぎりぎり先輩に聞こえる程度の声量で言った。くすくすという意地の悪い笑い声が聞こえて視線を向ける。バツが悪そうに目を背けるわけでもなくあからさまに小ばかにしたようにこっちを見下す女子数人を冷めた目で一瞥しただけでつま先をあっちへやった。「なにあれぇ」「うざっ」「きもっ」聞こえよがしに舌を打つ人間には壁で仕切って存在を許さないようにした。そうすると何もかもが他人事のように聞こえるのだということに気が付いた。
 殴っても良かったが真佳はそれをしなかった。どんな事情があるにせよ先に手を上げた方が悪者になるという世間のルールに則っているだけで、優しさで拳を収めたわけではなかった。どうせならあちらが百パーセント悪い状況で被害者ぶって泣いて非難するのが大人たちには有効だと学んだだけだ。いじめられる側にはその権利がある。
 膝上丈に裁断されたジャージの下から覗く、まあるい傷跡を庇うように保健室までの道を歩いた。肩の上で低いところで二つに結った、波打つ黒髪がひょこひょこ跳ねた。








 室内を隠すように設えられたパーティションから目だけを出して偵察した。消毒液のツンとしたにおいと清潔感を前面に押し出した結果生活臭の感じられなくなった十畳の空間には、薬品棚が壁際を全部覆い尽くそうとするかのように存在感を放っていてその場を必要以上に狭苦しく見せている。パーティションの影からは見えないがもっと奥には真っ白のシーツが張られた簡素なベッドが二台あることが想像できた。最近休み時間には保健室に入り浸っている真佳にはそれは容易なことだった。
 怪我人や病人のために用意されたそれらとは違う、スチールデスクが部屋の真ん中に二つ、向かい合わせるかのように置かれていた。保健室の先生と、それから保健委員が“保健だより”を作成する際に使う机だ。ファイルとパソコンが並べられたそこだけが息をしている唯一のものだった。
 ――いや。
 実際には息をしているものはもう一つあった。
 スチールデスクと揃いの簡素な椅子に腰を下ろして書き物をしている。女の子だった。先生ではない。息を殺して凝視する。規則では染髪は厳禁だが髪にカラーを入れている奴は結構いるので、彼女の茶髪が一体誰を指すのかすぐには分からなかった。下級生や上級生なら敵ではないが、もし同級生なら……。
 気配を感じ取られたのだろうか。女がこっちに振り向いた。日本人では到底ありえない上品な銀の光を目の当たりにして漸く女の正体に思い至った。それは真佳だけでなくあちら側も同じのようで、「秋風さん?」少し拍子抜けしたような声で彼女は真佳の姓を呼んだ。
 これは先生から聞いた話だが、真佳が丸々休んだ七日間の最終日、真佳の所属するクラスに転校生が来たのだそうだ。教室に行ってみると成る程確かに、それまでは空白であった場所に一卓の机がありそこには大層綺麗な女の子がいた。
 陶器を思わせる滑らかな白い肌に鋭い上品な光を内包した銀の双眸、同年代の女の子がやったようなお粗末な染髪などではない天然ものの柔らかそうな茶髪。女子だけでなく男子からも送られてくる熱い視線を対岸の火事みたいに受け流して文学小説に読みふける彼女は確かに今まで出会ったどの女の子よりも美しかった。帰国子女らしいのだと、クラスメイトが浮ついた声で噂してるのを小耳に挟んだ。それが彼女、姫風さくら。
 その彼女が、保健室で何かに記入していた。そこは保健委員の子が座る席ではあるが、一学期の終わりに転校してきた彼女は保健委員どころか委員にすら所属していないはずである。
 何をやっているのだ、といううろんな目で姫風を見た。転校生してきたばかりの彼女にまだ恨みは無いが、ニンゲンの特に女子は仲間内で群れて意見を同調させる傾向にあることを真佳は知っているので、警戒線は敢えて解除しなかった。それに、転校生には前に痛い目に合わされたことがある。
 真佳の視線に気付いたのか姫風は自分の手元に目を落として、それから微妙に、何で口に出して言わないんだとでも言いたげな表情で片眉を跳ね上げつつ、

「下級生が体育祭の練習で怪我して連れてきたら先生いなかったから、私が治療して帰した旨メモに書き記してるんだけど、アンタは此処で何してんのよ」

 真正面からつんけんした態度を取られてちょっと怯んだ。梅雨時の湿気みたいなねちっこい敵意なら日中浴びている真佳だが、からっとしたむき出しのそれには不慣れなのである。

「……怪我したから、治療に」

 下級生の子を介抱したという姫風に告げるのは何となく癪に障ったが、別に隠すことでもないので素直に告げた。パーティションから顔を出してさり気なく室内を見回す。ベッドにも誰かが潜んでいるような膨らみは無かった。姫風一人のようだ。敵意溢れる集団に放り込まれると萎縮する真佳だが、たった一人から浴びせられる敵意であれば跳ね返す自信があったので警戒線は解かないまま保健室に上がりこんだ。
 露になった真佳の血みどろの膝小僧に姫風がこれでもかというほど眉間にシワを刻んで、それから呆れたような物言いで、

「アンタ、ホントに中二?」

 失礼なことをのたまった。
 あけすけで直球ど真ん中な言の葉に渋面を作りつつも反論はしない。この年で擦り傷をこしらえるなど真佳としても不本意であり情けなくもあった。祖母に言ったら多分受け身はどうしたとどやされる。

「此処座んなさい」

 とても尊大な調子で姫風は言った。自分の座っていた場所を退いて指し示す。偉そうな態度なのに不思議と反抗心は生まれなかった。お母さんと昔近所に住んでいたお姉さんの顔がふと脳裏を過ぎって消えた。
「なん、で?」反抗心は生まれなかったが微妙にたじろぐ。

「治療したげるっつってんのよ」
「自分で出来るよ」
「……沁みるから嫌とか言って消毒しないまま絆創膏張って終わりそう」

 冷ややかに言われて黙り込んだ。図星である。今度は反抗心が沸き起こった。何でそう親しくも無い人間に分かった風な口を利かれなきゃならないんだ。実際分かられているのだが。

「ほら、昼休み終わるわよ」

 スチール椅子の表面を手で叩いて催促されて渋々ながら漸く姫風の方へ歩み寄った。歩み寄りながらも上目遣いで彼女の顔をじっとりと注視している。もしも肉食動物のようにその肢体を前傾させ攻撃の意思を示したのであれば、今すぐにでもその白く細い首を刎ねねばならない。
 意外なことに真佳が椅子に腰を下ろすまで、姫風は悪意を表には出さなかった。触れざるを得ない文言でおびき出されたが最後、真佳が触れた位置を黴菌源として黴菌の押し付け合いをするのかとも警戒したのだが。まあ、此処には姫風しかいないので押し付け合いは出来ないか。
 姫風が脇に置いた救急箱をがさごそやるのを全身を強張らせて大人しく、しかし炯々と目を光らせ待った。例えるならそれは子どもである。注射が大嫌いな子どもが次に医者に何をされるか分からないから警戒の眼差しで見つめる子ども。

「あった」

 と姫風は独りごちて真佳の方へ向き直った。手には大判の絆創膏と、それからちゃっかりと消毒薬が握られている。沁みるから嫌だというのに。

「何むすっとした顔してんのよ、中学生でしょうが」

 露骨に呆れた声色で吐き捨てられて尚更もやっとした気分になった。中学生なのはお互い様だ。年下扱いされるいわれはない…………のだが、消毒薬が傷口を濡らして下方で構えたティッシュに吸い込まれていく感触に短く悲鳴を上げてしまっては説得力の欠片も無かろう。これが赤チン全盛期だと沁みる痛みが倍以上になっていたのかと思うとぞっとする。
 最後に痛々しい傷を覆うように絆創膏がぺったりと貼り付けられた。「はい、終わり」ぱちんと絆創膏を叩かれた。思わずまた悲鳴をあげそうになったがあやうく押し留めているうちに、姫風は消毒薬を仕舞った救急箱を戻す途中でゴミをゴミ箱に放り込んで戻ってきていた。全くもって無駄の無い動きで。まるで熟練の主婦みたいだ。
 そんな彼女をじっとりと見つめていると、姫風が何だかとても怪訝そうな顔をした。怪訝そうなというよりは、ちょっとイラついてるみたいな。

「何? 言いたいことあるなら遠慮せず言ってみなさいよ」

 天井近くから鉄槌を振り下ろすみたいなざっくりした物言いに嫌な記憶をフラッシュバックさせられてもにょっと口ごもった。こういう居丈高な言い方はクラスメイトが真佳に対してする言動の共通的なパターンで、だから反射的に身を竦めてしまうのだ。
 ちらりと姫風を上目遣いで見る。視線を外す。また見上げる。
 こいつはスパイとして送り込まれただけ? 味方を装って真佳の心情を探っていじめのネタをあら捜しするよう命じられた類か? それとも、
 自分を虐げない人間だと、思っていいのだろう、か?

 ――馬鹿だネェ、真佳。

 声が聞こえた。
 コールタールの粘ついた声が首裏にのっぺりと張り付くように。

 ――今まデそうやって期待して裏切られて此処まで来たよ。それでもまだ信じルの? 人を? 他人を? 何のタメに?

 かぶりを振った。発作的に呟いた何でもないという言葉はとてもとても硬いものだった。
 そう、とだけ言って姫風はあまりにもあっけなく、真佳の方に背を向けて保健室を後にする。メモは書いたしついでにスパイ先には良い印象を抱かせることに成功したし、そりゃあもう用は無いだろう。
 膝小僧にくっついた大判の絆創膏に指の腹を這わす。治療のときに触れた人の手の温もりがまだ感触として残ってる。




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