路面を叩く霧雨の向こうに何かが見えた。くたびれた感じのスニーカー。よく周りがはいているのではない、マジックテープで止めるタイプのやつである。小学校の頃から使っている見慣れた奴だ。その頃の真佳はまだちょうちょ結びが出来なかった。
 視線を上にやる。白く霞んだ視界の中で白い靴下に覆われた日本の足が見え、更にもう少し頑張ってみると学校に指定された通りの膝丈までのスカートがあった。天から落ちてくる細かい雨はそいつのスカートにも十分なほどの雨水を吸わせていたので、実際の紺色よりも一層色の濃い見慣れない制服みたいだった。
 雨水と一緒にアルトの声が振ってきた。それは確かに真佳の声であったが自分の声じゃないような気がした。

「ワタシはずっとそれを持ってタよ……真佳が忘れてしまってからモずーっと……」

 コールタールに似たねちっこい声音が真佳の頬を優しく撫でて湿気のように吸い込まれた。

「お嬢」

 眼鏡の奥から覗き込んでくるスカイブルーの瞳に語りかけられた。どうやら自分は目を開けたらしかった。男の後ろには見慣れた自分のマンションの天井が映っている。頭がずきずきして全体的に体がだるい。額の上に冷たい何かが乗せられていることに気が付いた。

「良かった。目、覚ましましたね」

 千利に言われてもぼうっとした頭ではすぐには状況は掴めなかった。一拍遅れてから思考回路が追いついてきてぷつりと途切れた最後の記憶が掘り返される。雨の中転んで倒れて、それから――
 それから、記憶が無い。

「鞄を置いたまま姿が見えないと聞いて探したんですよ。雨の中倒れていたので少し風邪を召されています。早々に見つけられなくて申し訳ありませんでした」

「……いや、それは……」いい、と言った自分の声は何だか酷く掠れていた。喉に焼けるような痛みが走って軽く咳き込む。千利が悲痛そうに眉根を寄せて目を細める。

「……私、どんだけ寝てた?」
「二日ほど」
「それまでずっと、……看病……?」
「仕事がありますから残念ながらずっとでは。ただ、部下に付いていてもらっていました。その後は俺が傍にいたので、七割くらいは付かせてもらっていました」

 ちょっと冗談めかしたことを言って千利は笑った。真佳も笑ったが、途端脳の焼け焦げみたいなものに触れた気がしてすぐに笑みを引っ込めた。風邪で頭がぼうっとしていて思考がはっきりしないが、安易に笑ってはいけない気がした。

「大丈夫ですか、お嬢」

 ちょっとの時間を置いて千利が言った。なにが、と目線だけで問いかける。頭がぼうっとしてぐるぐるする。あの時、私は雨の中何時間くらいいたのだろう。

「風邪のことですよ。勿論」

 勿論と銘打っておきながら他の何かが潜んでいるような気がしたが無視をした。

「どうかなあ。このまま死ぬことは無い、と、思うけど」

 途中でけほごほと咳をしたせいであまり説得力があるようにはならなかった。生理現象なので仕方が無いが空元気を取り繕っているふうに見られるのはあまり好きじゃないので、内心自分の体に文句を言う。
 千利の手が濡れたタオル越しに額に触れた。ひんやりとしたタオルの感触を押し付けられて目を細める。急速に眠気が襲ってきていた。

「お嬢。お粥がありますが」

 多分食べた方が良いのだろうか首を動かすのですら億劫で、真佳は曖昧な返事をすることで遠まわしにそれを拒否した。「せめて水は飲んでください」諦めたような千利の言葉に流石に一口だけ飲んだ。生ぬるい口内に冷水は真佳が思っていた以上に歓迎された。もう一口。
 此方の体がだるいことを理解しているらしくペットボトルの口を唇から離すとすかさず千利がそれを受け取りにきてくれる。出来た男だなあ。ぼんやりした頭でぼんやりしたことを考える。
 重くなった瞼を支えきれなくて目を閉じた。絵の具を塗りたくったみたいな闇の中でちかちかした意識が急速に下降していく。千利の自分を呼ぶ声が最後に聞こえた気がした。








 次に目を開けたとき千利はいなかったが、代わりにと寄越した世話係がベッドの傍らに座っていた。夕方から時計が深夜を指す頃まで寝ていたおかげで若干気分は良かったので、作り直してくれたお粥と薬を飲んで横になった。何かあってはいけないからと世話係はそういう置物みたいにベッドの傍らに付き添ってくれている。心配性だなあと真佳は思う。
 体調が良くなったことでふやけた思考がはっきりしていた。自分が一体何を忘れていて何を思い出してそれを誰に押し付けていたのか今はもう鮮明に思い出せる。だからこそ鮮烈に真佳の胸をじくじくと蝕む。息をするのがひどく痛い。
 他人を刺して殴って、殺すと低く愉快に脅かした。
 教師受けする優等生で品行方正な女の子に騙されて裏切られた。
 自分のせいで大事な幼馴染を傷つけられた。
 他にも沢山、沢山あった。今まで忘れていたもの、押し付けていたもの全部全部頭の中で息づいて、もはやどれが痛くてどれが怖くてどれが嫌なことだったのかも分からなかった。自分は今ひどく混乱しているのだと思う。考えようとすると胃の底がふわふわむずむずして、脳みそがぐるぐるして眩暈がして吐き気がした。
 ただ一つだけ分かったのは、
 自分は強くあらねばならないのだということだ。
 それだけが今の真佳を支える唯一のものとなった。逃げるつもりは無かった。理不尽な責め苦に泣き寝入りできるほど真佳はお人好しでも寛大でもなかったのだ。誰にも負けないくらい強くなって一人で生きていけるだけの強靭な意志でもって耐える。どんなにか泣いたところで誰も助けてなんてくれないんだから。そういうことでしょう、鬼莉。
 部屋の隅で沈黙していた闇がざわりと蠢いただけで彼女はいつものようには返さなかった。でも多分それで良かった。
 ベッドの脇で舟をこぎ始めている世話係を横目に、掛け布団を顎まで引っ張り上げて目を閉じた。さっきまで眠っていたので目は冴えていたが構わず睡眠モードに切り替える。蓄えられるときに体力と精力を蓄えておいた方が良い。風邪が治ったら戦が始まる。

 翌日、昼過ぎ。ご飯を食べて薬を飲んで体温を測ってみると微熱程度にまで下がっていて、次の日には平熱になっていた。ぶり返す恐れもあるからと様子見でその日も休み、結局土日を含めて一週間を丸々休んだ。長期的な休みが続くと決心が鈍るので早々の復帰を望んでいた真佳にとってはじりじりした一週間となった。

『おはよ、真佳。具合もう大丈夫?』

 いよいよ登校の復帰となるその日、どこから情報を仕入れてきたのか朝のいつもと同じ時間に拓斗が迎えにきた。想定は出来たことだったのであまり驚かない。ただ、インタフォンから聞こえる雑音の入った無邪気な声はちくりと真佳の胸を刺激した。

「おはよう、たくと。風邪はもう大丈夫」
『そう、良かった』

 小さな液晶画面の中で拓斗は綺麗に笑っていた。特に顔立ちの整っているとは言えない拓斗のそれは世間一般の定義する“綺麗”とは違っているかもしれなかった。だってそれは鑑賞を目的とされる芸術作品とは違って、私利私欲の一切混じらない真っ白な笑みだ。それを穢そうと考える奴はきっと悪魔のようなどす黒い心を持っているに違いない。

『準備出来てる? まだなら待つよ』
「うん……」

 曖昧な返答をしてから肺で空気を一杯にした。肺がきりきりと悲鳴をあげる。それは多分真佳の中に唯一残った白い心の悲鳴だったが、あらかじめ用意しておいた台詞を舌に乗せるのに躊躇は無かった。

「……私ね、もう大丈夫だから。もう迎えに来てくれなくてもいいよ」

 一拍の間。
 心臓がいつの間にか早鐘のように暴れていた。今にも肋骨と一緒に真佳という器を突き破ってシャバを謳歌しそうな勢いである。しかし真佳は努めて平静を装った。緊張で荒くなる吐息が送話口から漏れないように細心の注意を払う。液晶画面の中で表情を失っていく拓斗の顔が見ていてとても痛かった。

『……そっか』

 想定していたよりあっさり引き下がってくれたのが意外だった。次に何と言葉を紡いで良いのか分からずに黙りこくる真佳の代わりに、ただ流れるだけの沈黙を拓斗が切り捨てた。

『分かった。ごめん』

 何が“ごめん”なのか分からなかった。口をぱくぱくさせて喘ぐがその様子は一方的に画像が送られてくるだけのインターホンでは伝わらず、代わりに別の何かを拓斗に伝えたらしかった。

『助けられなくて、ごめんね』

 ビックリして一瞬言葉が詰まったときには拓斗の姿は液晶画面から消えている。狭い範囲しか映せないこいつを此処まで呪わしく思ったことがあっただろうか。受話器を置くのももどかしくセーラー服のまま扉を蹴り破ろうとしたが、しかし常識的に考えて八階と一階との距離感はあまりに遠く結局途中で諦めた。八階から飛び降りてそのまま走って追いかけられるなどという芸当は、いくら真佳とて出来る自信は無い。
 走り逃げられたときには発作的に追いかけなければという感情が先に立ったが、最終的にはこれで良かったような気もした。これから永遠に傷つけるなら、この一瞬だけで全てを終わらせておいた方が良い。拓斗には頼らない。逃げ場があってしまっては、一人で強くはなれない。
 久しぶりに一人で鞄を抱えて一人で歩く登校路はとても長くて、そしてつまらない道だった。




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