日本歴史を担当する教師の抑揚の無い声が子守唄みたいに耳に入ってきてまどろみを感じ始めていた。授業終了時刻まで三十分。神丘中等学校では四十分授業が六コマで一日のスケジュールを構成しているので、授業が始まってからまだ十分程度の時間しか過ぎていないことになる。あと三十分……果たしてその間寝ずに終業チャイムを迎えられるかどうか。
 教室は、
 静かだった。
 湿気でべたつく空気の中面白くもなさそうな声で滔々と紡がれる日本の歴史が、この中で唯一確固たる音と認識されるものとして君臨している。時折チョークが音を立てる小気味良い音がした。窓の向こうで雨音がアスファルトを叩くくぐもった音が聴覚にひっそりと忍び込んでくる。
 とろとろとした脳みそで何気なさを装って教室中に視線を巡らせた。誰も何も話していなかった。だからといって全員が全員眠りこけているというわけではないのがあまりに奇妙だ。
 いつもなら彼らは真佳や教師の悪口の一つや二つ話題に出しては下卑た笑いを立てる。授業中でもお構いなしに人差し指をバチに見立てて太鼓の要領で机をダムダムと叩くし、機嫌が悪いときなどは小さく千切った消しゴムを投げてくる奴もいる。気の弱い教師が管理する日本史の授業なんかは、お昼時のファミリーレストラン並みにがっちゃがっちゃと煩くなるのに、可笑しなことにそいつらは授業開始時刻から一言も話していないのである。いや、日本史だけではない。朝からずっとそうだった。
 昨日、何かあったのだろうか。一時限目と二時限目の休み時間で千利に付き添われて早退した真佳には、その後何があったのか知る由も無い。しかしこいつらが黙するなど天地がひっくり返るほどのことでも無い限りありえないことである。
 ……そういえば。
 昨日の朝、拓斗が迎えに来てくれてからどうやって学校に行ったのか憶えていない。気が付いたら学校にいて、屋上に一番近い階段踊り場にいて、千利がいた。それ以前の記憶にはうっすらとした霧がかかっていて、実態を掴もうとするとするりと逃げられる。
 その間に何かがあった?
 それはクラスメイトらを遠ざけるのに十分な理由で、彼らはそれを恐れている?
 漠然とした確信はあった。あの空白の時間に何かがあった。
 しかしこの時の真佳はまだ他人事の気分で、それほどの危機感は抱いてはいなかった。自分が何もしていないという妙な自信があった。彼らに自分の言葉は届かない。だから自分が何かを仕出かしたわけがない。
 実際はその真逆であったことを、そう時間も経たないうちに嫌というほど思い知ることとなる。







 満たされた腹に教科書とノートと筆記用具だけを抱えて席を立った。五時限目の始まりまでまだ余裕はあるが、此方を気にして声を潜められると妙に居心地が悪かったので早く離れてしまいたかった。今なら席を離れている間に勝手に机の中のノートを見られもしないだろうし(彼らは気付かれていないつもりらしいが、以前真佳がノートに落書きした絵についてくすくす笑っていたのを聞いたのだ)。
 雨雲で覆い隠された光の代替えとして、廊下と教室には一定の間隔で設えられた蛍光灯がちりちりと灯されていた。廊下のそれは教室のものよりも若干薄暗く、どうやら長い間使い込まれているらしいことが容易に知れる。他の誰も廊下には出ていないのか辺りはひっそりと静まり返っていた。くぐもって聞こえる雨音と廊下の隅っこにしつこくこびりついた闇が、真佳を自然と慎重な足取りにさせていた。今必要以上に音を立ててしまったら、ぴんと張り詰められた世界の均衡が崩れてしまいそうで。
 結局昼休みになるまで誰にも声をかけられることも無く、この日は真佳にとって久しぶりの静穏な一日になろうとしている。誰も親しげに話しかけてくれないどころか目も合わせてもらえなかったが、それで良かった。一人でいい。誰かが自分の代わりに傷つくくらいなら一人で。それは明瞭としない記憶の中でただ一つだけくっきりと根付いた感情だった。
 味方はいらない、仲間もいらない、これからずっと一人で戦って一人で生きて一人で死んでいけばいいと思う。若しかしたら何十年も前からそう思っていたのかもしれなかった。どうしてそう思うようになったのか分からない。分からないがただ誰かにそうするように教えられてたみたいに、今朝は拓斗と鉢合わせしないうちに学校に来た。昨日の朝に見た傷一つ無い綺麗な顔(・・・・・・・・・)に浮かんだ拓斗の笑顔が、曇っていないことを切に願った。
 彼も来年になればこの中学に通うことになる。試しに目の前に迫った音楽室に拓斗がいるところを想像してみた。男友達に囲まれて、少し困ったようなはにかみ笑いを零している。或いは音楽室に並べられた座席に腰を下ろし、新しく買い与えられたリコーダーで必死に『エーデルワイス』を演奏しようとする。その隣の男の子が拓斗に世間話を持ちかけてきて一緒に先生に注意される。
 想像上の拓斗の周りには暖かい光で満ちていて、なんだかふわんと幸せな気分になった。自分がいなくとも拓斗の周りには彼と一緒にいてくれる子がいるのだ。嬉しいことだ。

「秋風さん」

 しっとりとした静寂を、自分を呼ぶ声で引き裂かれた。
 先ほど前後を見渡したときは誰の姿も見当たらなかったので少し不意打ちを喰らって驚いた。不自然なくらいの親しげな声色と揃いの笑顔でもって真佳を呼びかけた女の顔に、見覚えがある。小学校の頃からの知り合いだ。親しい間柄というわけでは全然全く無いのだけれど。
「ちょっと、止めときなよ」彼女の後ろを付いてきていた女の子二人が鋭く囁いたが当の本人は気にしたふうもない。

「次の授業まで時間あるし、ちょっと話せない?」

 そこらへんで売り払われている仮面をそのまま張り付けたみたいな笑顔のまま、こてりと可愛らしく小首を傾げて見せる。真佳みたいな天然のものをそのまま流しているんじゃない、アイロンで調えられたのであろうことが伺える、肩上で切りそろえられたウェーブの髪が一緒に揺れた。細くて柔らかい髪質を良く取り巻きに羨ましがられているのを憶えている。
 その取り巻きが不安そうにちらちらと見守るのを横目に見ながら、

「……いーよ?」

 呟いた言葉に剣呑な空気は込めても友好的な雰囲気は微塵も見せなかった。それが何故なのかも自分自身よく分かっていなかった。




「秋風さん、男子に何かしたんだって聞いたよ? 本人たちは何も言わないけど痣作って帰って来たって」

 痣? 痣って何だ? それがどうやって自分が何かしたということになるのだ? いつも何かをされるのは真佳の方で、彼らは常に加害者であるのに。
 問いかけるというよりかは事情の飲み込めていないきょとんとした顔をしていると、彼女はこてりと小首を傾げた。ウェーブのいれられた黒髪がまた肩口で揺れた。

「秋風さんと一緒にどこかに行って、それから帰ってきたときには痣だらけって聞いたけど」

 さっぱりワケが分からない、という顔をする。彼女たちの前で自分は大概無口だった。自分の痕跡が彼らの癪に少しでも障ってしまったら痛いことをされる。心の奥底に根付いた確信は、いじめられて四年が経っても払拭されるどころか色濃くなって真佳の心にこびり付いている。誰にも見られず誰にも認識されない空気になりたかった。
 はらはらと見守る取り巻き二人の間で、変わらない無害そうな顔で彼女は言った。

「……そっか。憶えて無いんだ。じゃあまだいる(・・)んだね」

 ……“いる”?
 怪訝に眉を顰めると彼女の取り巻きもそれと同じような顔をした。構わず彼女は話を続ける。さっきまでの優等生然とした話し方ではない、捻くれたような声色でもって。
 いやだ、これ。
 頭の中でけたたましく警鐘が鳴り響いた。無性に逃げたい気持ちになったが、音楽室のある廊下の端まで引っ張ってこられているので逃げ場が無い。唯一の逃げ場には引き攣り気味の笑顔を張り付けた彼女と、その取り巻きが陣取っていた。

「知ってるんだから。まだ中にいるの分かってるんだから。あんたが男子に怪我させたんでしょ? 出てきなさいよ、隠れてないで出てきなさいよッ」
「ちょ、何? ミエ、どうしたの、何言ってんの……?」

 右側の子が慌てて制止の言葉をかけた。真佳を助けたというよりは、自分の友人の様子があまりに異常なことに困惑しているといった感じだった。真佳はその異常すら考えている余裕も無い。頭の中で乱反射する警鐘に吐き気がする。

「これ」

 彼女が右の手のひらを全員に見えるように差し出した。真っ白な綺麗な肌でコーティングされた何の変哲も無い手だった。手のひらの中心を線を描くように指先でなぞる。そうされて初めて、手相に埋もれるようにしてうっすらとした線が引かれていることに気が付いた。

「あんたにやられたんだよ。一生消えない傷作られてあの時あたしがどんな気分だったか分かる? 分かんないでしょ、分かんないよねぇ!?」

 肩に流れる髪を加減なしに引っ張られて「つ、」小さく悲鳴が漏れた。整った彼女の顔が醜悪に歪む様に背筋をぞくりとした何かが這い上がってきて突き抜けた。手のひらの傷。真佳の中に“いる”ニンゲン。男子に怪我。警鐘がより一層けたたましく鳴り響いた。駄目だ、これ以上は駄目、

 ――ヨく言ウなぁ……

 コールタールに似たどろどろした声がした。
 暗く立ち込める雨雲の影響で整然と並んだ窓ガラスが鏡みたいに今の状況を良く見せる。その中の一つで赤い目の女が三日月型に裂いた唇で微笑っていた。真佳と同じように女子中学生に髪の毛を掴み取られた黒髪の女が、ミエの肩越しににやりにやりと微笑っていた。
 頭の中は凪のように静かだった。手遅れなのだと理解した(・・・・・・・・・・・)

 ――真佳、ネェ、真佳。憶えてる? ワタシがこの子ヲ刺シた理由。忘れチャった? 忘レさせたモンねぇ。キミは酷く傷ツイていタもの。だカラ、ワタシが押し付けラれた。

 中学一年の頃の話だと鏡に映った私は言う。
 朝学校に行ったらロッカーに突っ込んであった体育館シューズと体操服が無くなっていた。その頃からいじめは続いていたので誰かに持っていかれた可能性は十分にあって、だから“真佳は”躊躇も無く教師に無くなったことをそのまま伝えた。自分がされたことを誰かにありのまま話すことに躊躇いを憶える子では無かったからだ。
 事情はクラス全員に伝えられた。心底心配したような顔で「家に持って帰ったんじゃないの?」と声をかけてきたのがミエだった。そいつが犯人の一人であったと、そう日を置かないうちに真佳は教師から聞かされた。体育館シューズと体操服は近くの川に流された後だった。
 それに感情の防波堤が決壊して“ワタシは”、
 ミエの手を刺し貫いた。

「とっとと出てきなよ、殺人鬼!!」

 ぱちん、と頭の中で何かが弾ける音を聞いた。
 地面が揺らいで立っていられなくなってでもその場に座り込んでしまうともう逃げられないような気がして、半ば突き飛ばす形でミエの手を振りほどいた。異常な執念でもって強く握られた拳に髪を何本が持っていかれた。
「ちょっと!!」憤怒の声に彩られたミエの声を断ち切るように一目散に逃げ出した。




 鬼莉(きり)という名に憶えはあった。それはずっと内側から真佳に語りかけていた女の名だったから。そいつはいつも赤い目を異様なくらいに光らせて真佳の身に起こったことを嬉しそうに楽しそうににやにや眺めている女だった。しかしそれは飽くまで真佳の妄想の産物でしかなく、実在しないどころか実体すら持たない意味の無い存在であるはずだった。
 なのに耳の奥深くであのコールタールの声が今の真佳の醜態を見てくすくす笑う声がじっとりと染み付いて離れない。それは真佳の頬を叩きつけて嘲笑う雨粒と少し似ていて、その全部から逃れるためにむちゃくちゃに腕を振り回して路上を走った。腕に抱いていた教科書はいつの間にか手元に無かった。多分走っている途中にどこかに放り出してしまったのだろう。

「真佳ぁ」

 濡れそぼって質量の増した真佳の長い髪を一束遊ぶように持ち上げて鬼莉が言った。「うるさぃ……」声を張り上げたつもりだったそれは思ったよりもか細くて、アスファルトを叩く雨音にいとも容易く掻き消された。

「ねぇ、真佳? どこマで逃げるノかなぁ? どレだけ逃げたって無駄だよぉ? 真佳はワタシからは逃げられないんだから」

 髪先をくるんと回して鬼莉は言った。「うるさいっ」無理やり空気を搾り出したので肺がじくじくと痛んだ。それすらも嘲笑うかのように鬼莉は赤い目を恍惚に細めてにやにやと笑う。水分をたっぷり孕んだ紺のセーラー服が嫌な具合に肌にまとわりついて、重く足に絡みついた。それに抗うように真佳は走る。
 昨日男子にしたことをもうすっかり思い出していた。今までどうして忘れていたのか、それは確かに自分の記憶であったのに他人から唐突に植え付けられたみたいな違和感がずっと拭えないでいる。でも、あれは自分がやったことだ。自分が彼らを殴って、沈めて、それから脅した。本気で殺す気でいた自分に戦慄する。あんな、抵抗も出来ない一般人を殺そうとしたのだ――。考えていたくなくてより強く雨で濡れた地面を蹴った。思い出したくないことが次々と頭に閃いていく。裏切られたこと、好意を踏みにじられたこと、液体洗剤を口元に押し当てられたこと――お昼に食べたカレーパンが食道をせり上がってきて走りながら口元を押さえた。どうして忘れていたのか今なら分かる。忘れなければ到底生きてなどいられなかった。
 酸素を求めて浅く素早く呼吸した。脳裏に浮かび上がる、痣をこしらえた拓斗の繕ったみたいな笑顔に引っかかり気味の呼気を繰り返す。自分のせいだ。自分のせいでああなった。自分のせいでと責める一方で同時にこうも思っていた。拓斗は本当に自分の味方であったろうか? 気が付いた次の瞬間には真佳を裏切って安全圏に身を置く算段だったのではないか? いやそんなはずは無い。拓斗に限ってそれはない。しかしこれから先嫌われることでそうならないとも限らない。だってそもそも私が真佳が好かレるはずなんか無イんだから――途中から自分の声と鬼莉の声とがごっちゃになって何がなんだか分からなくなって、ぐちゃぐちゃになった頭のまま脚をもつれさせてすっ転んだ。頬に直に触れる、雨に塗れた冷たいアスファルトの感覚を最後に感じてそのまま
 意識を手放した。




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