退院後第一日目の登校早々職員室に呼び出された。
 この一週間の間に頻繁に見舞に来てはくれていたものの一時間目の終わりから早速呼び出しを喰らうとは思っていなかったので少々面食らった。
 二年生の真佳のクラスの担任教師は髪に白髪の混じり始めた四十歳くらいの男で、英語を担当しているこの教師を嫌うものは多いが真佳は特別嫌いというわけではない。間違っていることを真正面から間違ってると告げる、良い先生だ。故にこそ嫌われる要因にもなっているのだけれど。

「キツく言っておいたからな」

 と、先生は入院中も何度か口にした言葉を舌に乗せた。それは裏返せば自己満足の罪滅ぼしなのかもしれないし、単に真佳の不安を払拭しようとしてくれているのかもしれなかったが真佳の心には何も残らなかった。好きとか嫌いとか以前に、そういえばここ最近他人に対してそういう感情を抱いたことが無かったのだとこの時気付いた。

「先生方もよくよく見てくれると約束してくれたし、もう今後こんなようなことが起きないよう最善を尽くす」

 あんなのに負けるなよ、秋風。と先生は言う。やっぱりそれにも何か心が揺さぶられた感覚は得られなかったが、ただ薄い笑顔を張り付けて「はい」とだけは答えておいた。自分のことながらどこか機械的な言動だったがそもそも他人に対して自然に笑顔を作る方法など当の昔に枯れていた。
 漸く解放されたときにはもう二時限目まであと五分を切っていた。何だか足が重い。仮病を使って保健室に入り浸るのも手ではあるが逃げたと思われるのだけはどうしても嫌だった。
 精神統一するみたいに肺の中の酸素を二酸化炭素に換え切ってから廊下を歩いた。
 あんな事があった後の一日目である。心配するまでもなく彼女らもこの日ばかりは大人しくしているだろうと予想はついていた。あいつらは結局自分たちが一体どういうことをしているのかきちんと理解しているのである。だからこそ“いじめられる側が悪い”なんて歪んだ正統性を作って自分の身を護ろうとする。教師の目が厳しい今はあからさまな態度は取らない可能性の方が高かった。
 大丈夫。
 とくとく鳴り響く心臓から耳を塞ぐように心の中で繰り返す。
 大丈夫、大丈夫、大丈夫……言い聞かせるのは多分、経験に基づいた確率よりも体に沁みこんだ痛覚と恐怖が勝っているからだ。人間の感情というのは理性では到底制御出来ないもので、だからこそ何でこんなものがあるんだろうとそう思う。理路整然たるデータで克己出来たら良いのにな。何でこんなモノが存在するのだろう。要らないのに。






 さわさわとさわめく声が聞こえる。ノートに鉛筆を走らせながら真佳はそれを聞いていた。さわさわ、さわ……葉擦れの音か妖精の囁きを想起させるこの擬音は正しく無いかもしれない。それはそれほど綺麗なものではなかった。
 ……入院するんならもう来なかったらいいのに……
 誰かが言った。
 ……普通登校拒否っしょ……
 ……迷惑がられてんの分かれよ……
 ……あたしなら絶対無理、学校とか来れないよー……
 声のした方に目を向ける。ささめく声と一緒に聞こえていた忍び笑いが面白いくらいに引っ込んだ。視線を戻す。ノートに綴られた自分の字面だけを見る。
 後ろから消しゴムのカスが飛んでこないだけマシだ。というのも教師が頻繁に真佳の方を見るわけだからちょっかいをかけないのが第一の理由で、反省したり叱られて自重しているわけでは無さそうだけど。
 さわさわ、さわ……。
 さわさわとささめく声が聞こえる。ざらざらしたノイズ質の集団に溺れてしまう。精神が少しずつ少しずつ喰われてしまう……
 パンッ
 という乾いた音に蜘蛛の子を散らすみたいにノイズ質の集団が弾け飛んだ。
 教壇に立つ教師の一人が眼鏡の奥にあるスカイブルーの双眸をにっこり細めて立っていた。音の発信源は間違えようも無くそいつだった。

「ナカムラくん、次のところ、読んでくれますか?」

 疑いようもない綺麗な笑顔でさらりと。優等生面した男子生徒が椅子を引いて立ち上がった。実際のところ定められた順序では彼が次の音読に指名されるのは何も可笑しなことではなく、だからすぐにあのささめきが戻ってくる。ビックリしたあ。何か言われるかと思ったあ。ねー。
 しかし一度脅かされた彼女たちが再び危険な橋を選ぶことはなく、二時限目は真佳にとってはとても和やかに過ぎていくのだった。よくよく考えずとも教師がこのささめきに気付いていないはずが無いことはすぐに分かるもので、恐らくはそれが彼女らのささめき声を制したのだろう。実際その場に立たされて怒られると人間は反感を覚えるが、怒られる一歩手前で脅されると自然と鳴りを潜めてしまうものだ。
 頬杖をつきながら何気ないふうを装って教壇に立つ現国教師に目を向けた。フレームレスの眼鏡の奥で常に穏やかに細められているブルースカイの眼差しに別の色が乗せられているような気がしたがその正体は掴めないまま授業終了の鐘は鳴った。




「お嬢」

 休み時間が始まって早々教室から抜け出した真佳は早速国語教師に呼び止められた。呼び止められるとは思っていた。多分、真佳がこうして外に出なければ実際机の前まで来て呼び出していたのだろう。そういう様はクラスメイトには見せたくない。
 ネクタイを緩めながら十分近づいてきたのを見て真佳は軽く肩を竦めながら少し微笑った。

「安藤センセ、ガッコでそれはNGです」

 おどけた調子で茶化してやると、千利は真面目な顔のまま表情筋を一ミリも動かさぬまま「申し訳ありません」一言謝った。何故、茶化さないでくださいと少し困ったふうに言ってくれないのだ。このままでは話が本題に入ってしまう。

「お嬢」
「大丈夫だから」

 至って真剣な眼差しで射抜いてきながら開かれた千利の口腔に先手の言葉を突っ込んだ。

「ああゆうのは言わせとけばいいんだよ。別に命に関わるものでもないし。もう殴られるなんて失態も犯すつもりは無いから安心して。っていうか、油断なんかしなきゃ私があいつらに負けるわけないでしょ。“戦闘兵器”としての“最高傑作”がそう簡単に負かされると思ってる?」

 引き攣る頬を抑えながら笑顔を繕って言ったので変な顔になっていたかもしれない。しかし認めるわけにはいかなかった。大丈夫じゃないことを認めるわけにはいかなかった。
 心配の言葉をかけられることも同情の目を向けられることも情をかけられることも誰からもされたくなかった。だってそれを認めてしまったら負けを認めることになる。大勢で一人を狩るような卑怯な人間にだけは負けたくないと思うほどには、真佳は多分負けん気が強かった。だって今、自分は一人で戦えてる。

「……お嬢……」

 千利が言った。子どもの我が侭を持て余してるみたいなそんな声だった。

「命に関わる関わらないが問題ではありません。貴方が辛い思いをしているであろうことが心配なんです。耐えられないのなら俺に話してみてください。必ずお守りしますから」

 視線を合わせるように腰を曲げて発せられた言葉に何だか冷めた気になった。
 一人の人間がたった一人の人間をいじめから守る唯一の手段は一日中ぺったり張り付いていることだ。罵言を吐かれたらその場で諌め暴力を働かされそうになったら体を張らねばならない。それは教師という人間が背負うべきキャパシティを大きく超過する行為ではないか。
 無理だ。教師にいじめは止められない。そもそも期待なんて抱いていない。そんなことくらいいじめられて数ヶ月経てばすぐに分かる。だから一人で戦っているんじゃないか。助けを求めるのが無駄だから。

「……千利。今の貴方は教師だ。私のボディガードになるようにとの命は、貴方の上司であるお祖母ちゃんからは下っていないよ」

 自分のそれより高い位置にある目を上目遣いで睨んで凄むように言った。辛いとも耐えられないとも言わない。だって辛くも無いし耐えられなくも無い。一人でだって戦えてる。

「……お嬢、」

 チャイムが鳴った。
 次の授業は確か千利は別のクラスでの授業が割り振られていたはずだ。

「それじゃーね、安藤センセ。私は学生の本分を全うせねばならないのでこれで失礼します」

 もどかしげに口を噤んだ千利を横目に教室の扉に手をかけて、それから何の躊躇も無く地獄の底に逃げ出した。




 その後六時間目が終わり次第早々に荷物をまとめて教室を飛び出したので、千利に出くわすなんて事態には陥らずに済んでいた。二時限目の千利の牽制が効いたのかクラスメイトも目立った行動は起こさない。ただ時々、此方に視線をやっては何かを言い合っているようなくすくす笑いが張り付いてはいたけれど。
 学校指定の野暮ったい黒の鞄を背負いなおして家路を辿る学生の群れと同じ方向に足を向けた。気だるげでありながらどこか高揚した独特の空気に押されて前に少したたらを踏んだ。いや、物理的に突き飛ばされた。といっても極軽く。
 無感情無表情に振り返った先にいたのは見知ったクラスメイトの男子生徒で、そいつはこっちの反応を楽しむみたいに一瞥をくれてから他の友人の肩に手を触れた。「ターッチ!」「てめっ、ずりぃ!」「こっち来んなよ汚ぇよ」結末を見届けてやる義理は無かったので踵を返してすぐにその場を後にした。
 息を吐く。大丈夫、息は震えていない。一人でだって戦える。
 鞄の肩ベルトを握り締めてそのままロビーも一直線に突き抜けて校門へ飛び出すと、入道雲を纏った青い空と湿気を纏った初夏の風が肩に降りかかった瘴気をぱらぱらと払い落としてくれた気がした。外は好きだ。嫌なことは何も起きない。

「真佳」

 声が聞こえてぎくりとした。そうだ。忘れていたが今の真佳には、千利以外にも防御線を張るべき相手がいるのだった。今朝方、内心大いに渋る真佳を引きずるみたいにして中学校まで連れて来られたのはまだ記憶に真新しい。

「……拓斗」

 振り返った先に立っていたのは小学校の帰りに違いない、半そでのシャツにジーンズという私服姿の拓斗だった。走って此処まで来たのだろうか。頬は少し上気していて息も上がっている。
 罪悪感がちくりと疼いた。此処までされて突き放せるほど鬼になり切れない自分の性格を心の底から罵った。

「一緒に帰ろ」

 屈託の無い顔で拓斗は笑う。危惧も恐れも意地もプライドも何もかもを押し込めて頷くのに時間がかかった。肩ベルトを強く握りこむ。正門前でごった返す人ごみの中拓斗の方に歩いていく。
 視界の隅でさっきの男子たちが塊になって玄関前の階段を下りてくるのが確かに見えた。その内の一人と目が合ったような気がしたが、すぐに目を逸らしてしまったので実際のところはどうだったのか、真佳にはてんで分からなくなった。




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