窓から差し込む町灯りにぼんやりと照らされた薄暗い病室に、扉が開閉する金属質の音は大きく響いた。上体を起こしたベッドの上から少し遅れて音のした方に視線を向ける。廊下から差し込む眩しいほどの光の筋が細くなってやがて途切れた。入ってきた人影はいない。一瞬考えた後、視線を低い位置に映すことで漸く訪問者の姿を目に留めることが出来た。
 銀の髪をひっつめて色素の薄い茶色い目をした全長六十センチの祖母がちまちました足取りで此方へ向かっているところだった。眉間に新たなシワを刻んで「何で電気なんぞ消しとるんじゃ」とかなんとかぶつくさ言いながら、ベッド脇に設えられたスチール椅子にぴょこんと飛び乗って腰を下ろす。祖母にしてはやけに普通の登場に少なからず意外に思った。今日は天井から銃弾と共に舞い降りたり窓辺へヘリコプターから飛び移ったりはしないらしい。お祖母ちゃんらしくなくて逆に不気味だ。
 真佳がぼんやりと思考に沈んでいるのをいいことに、お祖母ちゃんは勝手に人の冷蔵庫を物色しては勝手に見舞い品のリンゴを持ち出して懐から取り出したフォールディングナイフで器用に皮を剥き始めた。この人の衣服の中は年中無休で武器庫である。どうでもいいけどリンゴは拓斗のお父さんが持ってきてくれたものだ。
 暫く、しゃりしゃりという皮の剥かれる音だけが消毒液のつんとしたにおいの充満する病室を支配していた。

「真佳」

 祖母に呼ばれて思わずぴくりと反応した。一般人に攻撃を許すなどとか何とか怒られるかもしれないし、修行が足らんとか言って幼少期並みの洒落にならない猛特訓に駆り出されるかもしれない。それをずっと考えてた。
 それから祖母は何も言わなかった。一度言葉をかけられたが故に今度の沈黙はやけに重たく居心地が悪くて、窓の外に逃がしていた視線を恐る恐る祖母に向けた。祖母のしわくちゃの小さな手にフォールディングナイフはいやに大きく、危なっかしいはずなのにやきもきした気にはならないのは、祖母ほど武器の扱いにこなれている女性はいないであろうことを理解しているからだ。

「さっき拓斗が来ておったじゃろう」

 呼び出したのは祖母のはずだがどこか空々しい他人事みたいな感じで言うのが意外だった。祖母は基本的に自分の成したことから逃げるような言葉は吐かない。それが良いことであっても悪いことであっても。
 だからそれが虚構ではなく事実の方のフォルダに分類するのに少し時間がかかった。

「拓斗がな、お前を送り迎えしたいそうじゃ」

 意味が分からない。真佳は怪訝に目をぱちくりさせる。

「怪我が治っても学校はあるじゃろう。それの送り迎えをしたいんだと。小学校と中学校の始業時間は同じ時間帯じゃから、真佳には少し早めに登校して欲しいと言っとったぞ」

 と、語る祖母は何だか少し楽しげだった。頬も若干緩んでいる。ニコニコというよりはにまにまという擬音語が似合ってしまうのがあれだけど。「好かれとるのぉ、ベタ惚れじゃのぉ」からかい口調に真佳は何の反応も返さなかった。

「……そう」

 手元に視線を落として自分の指先をじっと眺めた。拓斗らしいと言えば拓斗らしい。彼なりに自分の出来る精一杯で真佳の重しを軽くしようとしてくれているのだ。それはとても清くて真っ白で、周りに黴菌扱いされている真佳が気安く触れてはいけないような気がした。

「……さて、怪我のことじゃがな、全治二週間だそうじゃ。一週間後には退院出来るらしいが」そこで一度言葉を切って、「行けるな?」

 祖母の視線は相変わらずリンゴに注がれたまま、病室に入ってから祖母は真佳の方をちらりとでも見ることはない。
 実行犯の話も真佳の学校での立場も一度も口にはしなかった。心の奥底で深く深く安堵する。自分を強く強くと育ててくれた祖母には、何だか弱みは見せたくなかった。
 半分ほど剥かれたリンゴを見つめて力強く頷いた。

「行けます」

 強がりと言うよりは、これは単なる意地だった。自分を被虐する者のために休んでやる義理も登校拒否になって高校受験に支障をきたす道理も無い。自分の人生は他の誰にも左右させはしないのだと、これはそういう意地だった。





 八等分に切り分けられたリンゴのうち四つを真佳に押し付けて、祖母は病室を出て行った。祖母の傘下にいる人間であろう人物が病室の近くに付いていてくれているのを気配で感じるので、其方に任せて祖母は仕事に戻ったのかもしれない。
 リンゴには手を触れないまま、ベッドの上で窓のずっと向こうに見える町灯りを眺めていた。煌々と点る家の明かりやビルの明かりに対して星の光は殆ど見えない。窓の下で救急車のサイレンが遠く遠く聞こえて通り過ぎた。
 いつの間にか、窓ガラスに映りこむように一人の女が立っていた。
 病室の出入り口に最も近いその場所で、赤い目をぎらぎら煌かせて女は此方を見つめていた。真佳の赤い目と彼女の赤い目が窓ガラスを介して交錯する。

「きずつけられちゃったね」

 と、女は言った。コールタールを思わせる粘りけのあるそれが、つり上げられた唇の隙間からじっとりと滲み出て真佳の心を淀ませた。

「気が付いた? あの時いっぱい血が出てたんだよぅ? 次ガッコウに行くとき校舎裏行ってみたらいいんじゃないかなあ? 拭いても拭いても拭いきれない赤黒い血がまだ地面にたあっぷり残ってると思うから。若しかしたら白い白い校舎にもへばりついてるかもしれないねぇ? あの子たちそれをどうしたんだろう? 証拠隠滅のために拭いたのかなあ? それともそのまま怖くなって逃げたのかなあ?」

 さも楽しそうに引き攣った笑い声を立てる女に眉間のシワを濃くすると、彼女は一層恍惚とした顔で笑うのだった。子どもに絵本を読み聞かせるようにゆっくり語られるコールタール状の声に想像力が喚起されて彼女の語る情景がリアルに呼び覚まされていく。血塗れた校舎。倒れた自分。責任から逃れるように喧しい足音を響かせてそこから立ち去る女たち。
 シーツを掴んだ手に力を込めた。ほの暗い闇の中、きつく握られた拳が白い色を帯びて病室のシーツに同化して見えた。

「真佳は本当に良い子だよ。コロせる力があるのにその力を使おうともしない。良い子で可愛くて臆病者」

 鋭利に尖った刃を心臓に突き刺されてでもいるかのような、“言葉”であるのにそれは明らかに凶器のそれだった。なに、初めての感覚ではない。言葉が凶器であることはもうずっと前に分かっていたはずだ。その度に真佳は無感情にそれを受け流し聞き流さねばならなかった。まともに喰らってしまったら生きていられる気がしなかったから。

「ねェ、真佳」

 彼女が言う。女が男を誘うような艶っぽい深みを帯びた呼び声にしかし真佳は一層きつくシーツを握った。彼女の甘言に乗ってはいけない。真佳は無感情にそれを受け流し聞き流さねばならない。いつものように。
 数メートル離れたところにおりながら、耳元で囁くような甘い声音で彼女は言った。

「ワタシが殺シテきてアげようか」

 肌にまとわりつく湿気のようにじっとりとした声色に弾かれたように病室の入り口に目を向ける。そこに彼女の姿は無く、そして当然ながら窓ガラスの方にも何も映っていなかった。ただ夜闇を背景にうっすらと白い病室の様子と目を見開く真佳が映りこんでいるだけだった。
 荒い呼吸を整えるようにパジャマの襟元を手繰り寄せる。手が少し震えていた。
 拳の下で煩いくらいばくばくした音が聞こえてる。決して鳴り止まない心音に語りかけるように、息をする。







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