後方からすっ飛んできた黒板消しが肩口を叩いて弾かれたように地面に落ちた。もわっと立ち込めたチョークの粉はまるで爆煙のようではあるがセーラー服を白く汚されただけで別段命に関わるようなものではない。数度はたいただけで無視を決め込み歩みを進める。

「チョークの粉まだ取れてないよーぉ。きったなーい」
「水かけてきれーにしてあげよーかぁ?」

 意地の悪い忍び笑いが飛んでくるがそれも無視。クラス全員分のノートに触れた手に力を込めて奥歯を噛む。どうしてちょっと職員室に寄るために出てきただけでこんな目に合わねばならないのか、は、考えたってどうしようもないことなのでこれも無視。退院から四日目、元の状態に戻ってしまうまでにまだ持った方だと言い聞かす。

「シカト?」
「何それありえなくね? 折角のあたしらの好意を、さぁっ」

 最後の一音に力を込めて何かがぶん投げられたと思った時にはノートの変わりにそいつを片手に握り込んでいた。

「あ」

 視線を前方に固定したまま自分の浅慮さに声が漏れた。手の中に握りこんだそれは感触からして消しゴムに違いなく、つまり真佳にとって害にはなりえない物体だった。あまりにも唐突に投げられたものだから害のあるものか否かの判別を気配から読み取る暇が無かったのだ。
 それに固まっていたのは向こうも同じで、こんな化け物染みた条件反射に対して幸いなことにすぐには反応がこなかった。消しゴムを握り込んでいた拳を開く。花の形をした消しゴムが地面に落ちる前にはもうノートを両手で抱えて駆け出していた。






 化け物と呼ばれるのが嫌だったが赤い目をしている時点で呼ばれない可能性は既に限りなくゼロに等しく、だからせめて外見のこと以外の部分では普通であろうと振舞った。普通の女の子は野生動物との一騎打ちに打ち勝ったり他人の殺気に敏感だったり銃器の扱いにこなれていたりはしないものだ。
 だというのに、畏怖の目で見られることの無いよう必死で避けてきたのに、さっき、……うっかりボロを出してしまった。
 職員室前に置いたノートの山からふらふらと離れつつ頭の中でめまぐるしく思考を展開させる。もしもこれで家のことがバレたら? いや、人間というものは往々にして非日常に鈍感なものである。ちょっとそれらしい片鱗が見えたところで気のせいで済ませてくれる可能性の方が高い。人は非日常に対して無意識に排他的である。
 ちょうちょ結びにしたスカーフの下でとくとくとがなり立てる心音が息を潜めたのを感じて心の底から安堵した。冷や汗をかいていたせいでセーラー服が肌にべたついて気持ちが悪い。
 今頃彼女らは真佳が消しゴムに触れたことやシカトしたことについて口汚い言葉をかしましく吐き捨てていることだろう。
 学校指定の鞄を背負いなおす。斜陽差し込む人気の無い渡り廊下を冷めた気持ちで歩き出した。
 ホームルームの後、ノートを持ってくるようにと頼まれたのだ。ならその足でと鞄を持ったまま出てきたことが良かった。このままあいつらの顔を見ずに帰れると思うと清々する。

 ――殺しちゃえばいいのに。

 誰かが言った。
 いつの間にか自分と向き合う形で少女が一人佇立していた。ウェーブのかかった黒髪から覗く赤い目をにんまりと細めて、繊月に開いた唇から十三歳の少女らしからぬ呪いの言葉を口にする。

「生きたまま両目潰して全身の皮と爪を剥イでじわじわじわじわいたぶってやレる権利を貴方は持ってるでシょう? あの子たちに受ケた痛みぜぇんぶ返した世界は綺麗だロうなぁ。何かに怯えるこトもない、相手の機嫌に振り回さレることもナい、それはとっ……っても素敵なセカイ」

 つい、とたおやかな指先で顎のラインをなぞられて二つの意味で背筋が粟立った。至近距離からうっとりと此方を見つめる赤い瞳に夕焼けが同色の色を塗る。鮮血のように煌くそいつは正しく悪魔のそれだった。窓の外で運動部の掛け声が日常的に聞こえることが目の前の非日常を浮き出させるのに一役買っていて、まるで世界全てが彼女に味方してでもいるかのようだ。ということは、世界は真佳の敵ということになる。
 肩ベルトをきつく握って、肩口が白く汚れた彼女のセーラー服を自分の体で押しのけ先を行く。当然のように靴音を響かせてくっついてくるのには全て気付かないフリをする。
 付かず離れずを維持する彼女に薄気味悪さを感じた。追いついてくるか追い越して行くかしてくれればまだ良いものを、影みたいにくっついては声無き声で真佳に訴えかけるのだ。どれだけ逃げても無駄だよ、真佳。ワタシからは逃げられない。

「まーなか」

 変な抑揚をつけて彼女は言った。狩りを楽しむ肉食獣さながらの口調に生理的な嫌悪感が真佳の心を支配する。

「真佳、あの子たちのこと好き?」

 あまりに気持ちの悪いことを言われたので全身が総毛立つ感覚に襲われて目の前がくらくらした。あれらに愛想を振りまく自分を想像してしまったのだ。あいつらに好意を抱く理由など欠片も無い。なんて心悪いことを言うのだろう。
 後方に飛ぶ窓ガラス越しに刺すような視線を放つと彼女は恍惚とすら言えるほど満足げに、チェシャーの猫のようににやにや笑った。

「だよねェ、キライだよねェ。そりャアそうダよねぇ」

 そう言ってくつくつと、それから徐々に高らかに、楽しくて仕方が無いとでも言うように真っ赤な目をこれでもかとひん剥いて馬鹿みたいに体を揺らしてそいつは嗤った。すぐ真横を一年男子が何事も無かったみたいに通り過ぎて階段を上って行った。まるで彼との間に世界の境界があるかのように、彼は何にも気が付かない。
 浅いため息を吐き出すと共に耳障りな哄笑を引っ込めて、恨めしげな視線を此方の背中に突き刺したまま女が言った。前方の窓ガラスの中で、耳元まで裂けんばかりにつり上がった口元ににったりとした笑みが浮かんでいる。背筋がぞっと粟立った。

「――ねぇ。何でキライな人間を庇ってルの?」

 コールタールの声色が真佳の心に纏わり付く。地面を這って寄って来た黒々とした粘ついた液体が両足を持っていこうとする。

「コの世界カラ消してしまエばもう痛くなルことも無いノに。真佳の命を否定スるのはイナくなるのニ。もう何にも脅えル必要の無い綺麗な世界が待ッテるのに」

 慎重に並べ立てられたぺったりした声が首裏に張り付つく。それはまるで幼子にとっておきの物語を言い聞かしているかのような口ぶりだった。コールタールの吐息が真佳の聴覚まで奪い取ろうと触手を伸ばす。目の前がちかちかと明滅した。

「簡単だよ?」

 彼女は言った。
 背骨を貫通した白い手で心の臓を握り潰されてしまいそうなほどに強く強く真佳の背に白い指先を押し付けて、含みを持たせた口ぶりでゆっくりと。

「此処に、ナイフを突き立てるだけ。それダケであの女の口は永久的に閉ざさレる」

 背中を突く指先に力がこもった。指先だと思っているものは本当は銃口だったのかもしれない。
 息が詰まる。どろどろしたものを孕んだ声音に飲み込まれそうになる。地面が揺らいで両足がどこか遠くにあるみたいな錯角。目の前が暗く、フェードアウトするみたいに暗くなる。

「真佳?」

 声変わりすら迎えていない少年の声がすこんと聴覚を貫いた。途端ずくずくと内側に浸み込んできた黒っぽいノイズが弾けて跡形もなく掻き消える。気が付いたら真佳は平行を保った地面の上で、ただぼうと突っ立っているだけだった。後ろを振り返る。赤い目の女はもういない。

「何? 何かいるの?」

 廊下の角からひょっこりと顔を覗かせた拓斗が怪訝そうな顔をする。いつもの下校時間を過ぎても中々出てこないから中まで様子を見に来たのだろう。そのまま近寄ってこようとするので、「何でもない、虫が飛んでただけ」早口で言ってそれを制した。拓斗は不可解そうな顔をしたがそれ以上は追求してきたりはしなかった。ありがたいことだ。
 視線を前方へ跳ね上げた。
 いないはずの赤目の女が窓ガラスの中で真佳の後ろに佇立して、ずっとにまにま笑っていた。




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