幼馴染が怪我を負ったと聞かされた。頭を殴打されて重症だと。
 それを聞いたとき拓斗は何を言われているのか分からなくて、頭が真っ白になるのと同時に反射的に「嘘だ」と思った。何を言われているのか分からなかったのに、それは嘘に違いないと信じたのだ。後々考えるとこれはとても矛盾した考えだ。
 父親の運転する車に飛び込んで近くの病院まで走らせてもらった。その間心臓は嫌な具合に脈打つは他のことは考えられなくなるはで生きてる心地がしなかった。
 黒く波打つたおやかな髪にきらきら光る赤色の瞳を持った彼女ははっきり言って入院する回数が多い方に位置する少女だが、今回に限って彼女に怪我を負わせる張本人である“彼女”は関わっておらず、本当に全くの本物の(本物の?)事件だと言う。
 頭を殴打されてってどういうことだろう。転んだとかぶつけたとかじゃなくてわざわざ“殴打された”って言い方がどうにも引っかかる。この情報を流したのは真佳の祖母であるところの“彼女”だが、あの人は一体どんな考えを持って拓斗にこのことを告げにきたのだろう。わざわざ電話までして。
 胸騒ぎがする。
 真佳の心が血を流していなければ良いのだけれど。






 どこか人事の気分で枕に頭を埋めたまま傍らに立つ見舞い客に目をやっていた。やっぱりな、という感情が半分、見られてしまった、というのがもう半分。真佳がどんな感情を抱こうとも祖母の決定を覆すことは出来ないのは知っていたので憤りは憶えなかった。

「たくと」

 声をかける。びくりと少年の肩が震えた。寧ろあっちが怪我をしたのではないかというほどに蒼白な顔と見開かれたブルーグレイの双眸に見下ろされるのが何だか申し訳なくて此方から視線を外した。心配をかけてしまったのだと思うと何だか無性に泣きたくなった。クラスメイトに水をふっかけられても泣かなかったのに。
 マイが振り上げたパイプ椅子は真っ直ぐ真佳の頭部に直撃していた。あの後意識をなくしてしまったのでどうなったかは分からないが、先生の誰かが救急車を呼んでくれたのだろう。医者の話によると八針縫われたらしいが身に憶えが無いので実感は湧かなかった。それより大事になってしまったことの方が重要だった。手術代どうするのだろう。父は仕事の関係で海外に飛んでおり母親もそれについていっているので今真佳の近くにいる身内は祖母くらいしかいない。

「真佳」

 呼ばれてもすぐには視線をやらなかった。同情の目を向けられることも必要以上に心配そうな目で見られることもあまり好きではなかった。
 ぱた……ぱた……という濡れた音がしていることに気がついた。

「……何で泣いてんのさ」
「だっ、……だって真佳が怪我って、な、殴られたってっ」
「私が怪我すんのなんかしょっちゅうじゃない」
「違う、違うんだ、いつものと今回のとは違うんだ、だって撫子さんがっ」そこで少ししゃくりあげて「撫子さんはこんな心無いことはしないじゃないか」

 孫娘にカラクリ屋敷に放り込んだりマジモンの武器で襲い掛かってきたりするのは心無い行為とは言わないのだろうか。突っ込みたかったが拓斗があまりに真摯に言うのでその気も失せた。
 拓斗は昔から泣き虫だ。他人のことでもまるで自分のことのように傷ついて泣いてしまうから、だから拓斗にだけは気付かれたくは無かったのに。
 急速に感情が遠のいた。テレビの向こう側で拓斗が泣いている。そのことにもう何の感慨も浮いてこない。マイたちが言ったように若しかしたら自分には感情というものが欠落しているのかもしれないと考えた。
 泣かせてしまった。
 ただその事実だけが頭に残る。
 泣かせてしまった。
 私が。
 私が拓斗を泣かせてしまった。

「……まなか」

 ノイズに乗った拙い声が拓斗の唇から滑り落ちる。何、とも言わない。ただ枕の上でゆぅるりと首を傾げてその先を待った。捏色の前髪が邪魔をしてノイズでざらざらした液晶画面の向こうにある拓斗の目は見えてこない。

「真佳、なに……何があったの? 誰に殴られたの? オレ……」
「……誰にもやられてないよ。階段から落ちただけ」

 拓斗は何も言わなかった。ただ泣きはらした赤い目で物言いたげにしかし真っ直ぐに此方を見つめているだけだった。
 嘘だと真っ向から否定されなかったことが逆に真佳の罪悪感をちくちくと刺激するに至った。ため息。

「クラスメイトにパイプ椅子で殴られた」

 拓斗が息を呑む音がする。投げやりな視線を窓の外に投げていたので彼の表情は分からなかった。他に人の気配が無い一人部屋の病室に拓斗と二人だけで残されるとこの雰囲気がたちまち居た堪れなくなってくる。

「なんっ……、何で……?」

 何で。
 本当に何でかな。
 自嘲気味に応えたくなるのを必死で自制して軽く肩を竦めた。一呼吸、引き攣り気味の呼気を飲み込んだ。幼馴染といるのはただただ甘美で繭の中にいるようで、張り詰めた肩の力を抜いてしまいそうになる。それでは駄目だ。

「うーん、私がとても幸せそうなので妬んでいるのかもしれないねぇ」
「真佳」

 咎めるように短く名前を呼ばれて口を噤んだ。張りぼてに飾った笑顔を引っ込めると何だか気分まで急降下したような気分になる。ただの一般人に殴り倒されたと聞いたら祖母は何と言うだろう。世界中のどんな生物にも勝てるようにと真佳を育ててきた祖母なので、修行が足らんとか何とか一喝されそうだ。そう考えて少し笑った。味方はいない。自分でなんとかするしかない。祖母の態度が明確にそう物語っている。

「いじめられてるんだ私」

 一思いに言ってやった。今まで誰にも言ったことのなかった言葉だったので、何か変なふうになってはいないか心配ではあったが普通に言えた。ちょっと普通に言い過ぎて拓斗の方がそれについていけなかったくらいだ。
 次に尋ねられるであろうことは予想がついていたので聞かれる前に先に答えた。涙で濡れた頬を夜風が撫でる様を見つめながら淡々と話せていることにほっとする。

「クラスメイトの人たちに小五の頃から。中学上がって何とかなるかと思ったんだけどそのまま続いてしまってね。多分、目の色が原因なんだと思うけど……どうなのかなあ。こればっかりは本人に聞いてみないと分からないかなあ」

 後半はわざとおどけた口調で言ってのけたつもりだったが、病室の底辺に沈んだ空気は重くてじめじめしていて滑稽で無様なふうにしかならなかった。真夏のひんやりとした風が湿っぽい空気を速く入れ替えに来てくれるのを今か今かと待ったが、薄情にも真佳の髪をふいとなぞったままどこかへ消えてしまっていた。
 こういうときどういう顔をしていいのか分からない。笑顔でおどけて過ごす以外の方法を私は知らない。
 ベッドの脇に立つ拓斗のブルーグレイの双眸から少しずれた部分を真っ直ぐ見上げた。

「今回のもその類。でも大丈夫。もう痛くないよ。それに毎回こんな危ないことやられてるわけじゃないし、今日はたまたまなだけだから」

 まるでテレビの中の人間に微笑みかけるような微妙な心地でそれでも無理に頬を緩ませた。若しかしたら緩ませたどころではなく引き攣らせたかもしれないが真佳に確認する術はない。拓斗のじっとりとした上目遣いの視線が意味も無く真佳を後ろめたい気持ちにさせた。

「……なんで、」

 やがてぽつっと拓斗が言った。

「何でオレは今まで気付かずのうのうと生きてたんだろう」

 夜空のブルーグレイの瞳は今は捏色の前髪に隠れて欠片も見えない。それが無性にじれったかった。どうしても拓斗の顔を上げさせなければならない気がした。

「それは、だってしょうがないよ。私が言わなかったんだから」
「でも気付けたはずだ」
「前とは違うんだよ? 家は離れてるし学校で顔を合わせることもない。そんな中でどうやって他人の異常を感じ取るっていうのさ。無理だよ」

 拓斗が下唇を噛んだのが分かった。拓斗には微塵も非は無いのだと告げたつもりだったが逆効果……だっただろうか。どうしよう。こういうときどうすればいいんだろう。幼馴染が自分のせいで傷ついてしまったときに発するべき言葉を真佳は知らない。

「……もう、痛くない……?」

 搾り出すようなか細い声に咄嗟に何のことだか考えてから、頭の方に手をやって「うん、痛くない、此処のお医者さん腕が良いのかもね、何針か縫ったって話だけど全然痛くなくて、」これ幸いにとべらべら喋り散らす中身の無い応答は聞こえてでもいないかのように、拓斗の右の人差し指が、とん……と真佳の体に触れた。人差し指の下でとくんとくんと生きている生物の音がする。

「本当にもう痛くない?」

 真っ直ぐ覗き込まれたブルーグレイを受け止められる自信が無くて視線を逸らした。




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