生体には体内に入ろうとする異種細胞を排除しようとする本能的な機能があるという。
 例えばアレルギー反応。アトピー性皮膚炎はそのひとつであるとされ、特定抗原が体内に入るとそれを排除しようとして炎症が起きる。特定の魚種を食べるとジンマシンが起きたりするのも異種排除の現われで、妊娠初期にツワリが起きたりするのも他人の細胞が体内に入り定着しようとするのを排除しようとする動きであるのだそうだ。
 だとしたら私は、

「秋風さぁん」

 胃の奥がざわつくような音が聞こえて振り返った。校舎のてっぺんに吹く獣が唸る音にも似た風の音に聴覚が引っ掻き回されて上手く音を拾えない。テレビの液晶画面に映ってでもいるかのような平板な顔をした少女が三人、下卑たにまにま笑いを浮かべている。
 ――だとしたら私は
 何の生体に入り込んだ異種細胞だと言うのだろう。










 少し想像して欲しい。今、とある少女が昼食をぱくついている。
 コンビニのビニール袋をがさごそやって惣菜パンを引っ張り出し周囲の視線など意に介したふうもなく素知らぬ顔で袋を開け失恋した女の子並みにやけっぱちな感じでパンの表面にかぶりつく。彼女の肩に流れる十分な水分を含んだ黒髪はいつもは癖がかかっているのに今回ばかりはよどみもなく背に垂れていて、それを受け止める紺のセーラー服もすっかり濡れそぼって色が変わってしまっていた。要するには全身ずぶ濡れなんである。
 いつもと同じ時間にいつもと同じ教室のいつもと同じ席でいつもと同じように昼食のパンをぱくつく女は外から見ればさぞかし浮いてみえるのだろう。
 ……でももう慣れた。
 最初の数分はちらちらとこちらを伺っては顔をくっつけ合うようにしていやらしい忍び笑いをたてていた女子もいまや鬱陶しそうな視線を突き刺してくるだけになった。あちらさんはどうやらもっとおびえて惨めったらしい態度を取った真佳を見たいらしい。でもだって、テレビの中で起こった出来事を一視聴者が心底悔いたり嘆いたり出来るはずもないのでそれは無理な相談だ。と、いうことを小学校の時からずっと態度で表していたつもりなのだけど一向に理解してもらえないのは彼女らが言語交換不可な異星人だからであろうか。

「て」

 こつんと何かが後頭部を軽く打った。
 いきなりのことであったので怒るとか怖いとかいうよりもただ呆然とした一音が喉奥から滑り出る。
 振り返る。挑発するような目をした男と目が合った。確か同じクラスの人間ではなかったはずだが、特に不自然ではない。今はお昼休みだし。
 特にこれと言った感情が思い浮かばなかったので表情筋を固定させたまま視線を外した。床に切り刻まれた消しゴムの残骸が落ちていた。勿体無い。
 ちっという音がした。あからさまに此方に聞こえるように吐き出された吸着音が首裏にべったりと張り付いた。何気ない感じで気配を探る。どうやらもうこっちにちょっかいをかけてくる気は無いようだ。別の男と悪態を吐いているらしい男の言動に知れずいれていた肩の力を抜いて、こっそりと震えた息を吐いた。コンビニで買ってきたペットボトルの中身の湖面に二つの赤い目玉がじっとこっちを見つめていた。

 生まれつき癖のある胸まで伸ばした黒髪と日本人然とした顔立ちに肌。秋風真佳を異種俗の群れに放り込んだら間違いようもなく黄色人種に分類されることであろう。しかし世間一般の東洋人とは明らかに違う部分が真佳にはあった。それは他の子とは絶対的に違うところ。一目見ただけで他とは違う“異質なもの”であるという印象を周囲に深く深く刻み付けてしまうところ。
 真佳の目は赤色だった。
 例えるならばルビーやガーネットの類がはめ込まれているような、そんな独特の色を持った瞳を真佳は生まれながらに持っていた。被虐を受けた原因は間違いようもなくこれであると真佳は確信している。彼らがその内側に自身の“常識”を身に着けたときから風当たりが悪くなったのを憶えてる。思えば、それ以前から彼らの親御さんから薄気味悪い視線を向けられていた。早々に気付くべきだったが、それに気付くのにはまだその時の真佳は幼すぎた。
 何にも気付かずただ無邪気に無闇に人を信じる子どもは、真佳を不気味に思う人間にはどう映ったことだろう、と擦れた頭で自虐的に考える。それすらも何だか他人事なのが可笑しかった。
 透明な泡になりたい。誰も自分のことは見ないでいい。自分の存在は無視してくれたらもうそれだけでいい。助けも救済も必要ない。
 どこか回路が一つ繋がっていない状態で諦観気味に考えるほどには、この時真佳は世界を信用してはいなかった。



 彼女らにとって秋風真佳は異端である。
 彼女らの常識ではニホンジンの目は黒であるべきだし、学年総出の差別を受ければ登校拒否に陥るべきだし、嫌がらせをされたら泣き喚いて縮こまって教室の隅で悲観に暮れていなくてはならない。その全てから外れた真佳は彼女らの言うところの異端児であり、彼女らの世界の中では迫害されて良い存在なのである。だから校内に位置する校舎裏で半円を描くように取り囲んでくる彼女たちが罪悪感を持っているふうでは無いんだと思う。校舎の冷たい壁に背中を押し付けながら麻痺した頭で考えた。

「ねーちょっと聞いてる? 教室びしょ濡れにしてくれたこと詫びろって言ってんだけど。掃除当番のミホがあんたの机の周りゾーキンがけしなきゃなんなくなったんですけどぉ〜?」

 マコというのは主犯の一人で、つまり昼休み時に真佳にバケツの水を引っ掛けた張本人である。自業自得。自分の靴のつま先を睨みつけながら毒を吐いた。理不尽な要求に応えて謝罪するほど真佳は臆病ではなかったが、その代わり正面から嫌だと突っぱねられるほど強くもなかった。
 頭のてっぺんにいらだたしげな舌打ちが降りかかって目を瞑った。真っ暗。何も無い。何も見えない。肌にまとわりついてくるようなべたべたした夏場の空気の不快感だけが心に根強く残っていた。

「何とか言えよ!」

 鳩尾すれすれのところから壁を伝ってびりびりと響いていく感覚。すぐ傍の壁を蹴られたのだということに遅まきながら気がついた。奥の方でがちゃがちゃと何かを漁る音がする。肝を冷やす。いや大丈夫。すぐ終わる。こうやっていたらすぐ終わる。次目を開けたときには何にも起こらない、嬉しいことも楽しいことも無い代わりに恐ろしいことも悲しいことも起こらない“日常”で、だから此処でじっと我慢していればいい。それだけでいい。じっとじっとじっとじっとじっと。
 ふっ、
 と
 嗤うような吐息がべたつく空気に突っ込んだ。

「あんたさあ、何が起きても平気そーな顔してキモイんだよ。カンジョウが欠落してるみたい。目だけじゃなくて頭もイカレてんじゃないの?」
「ねーマイー。ホントにカンジョウ欠落してるかどうかあたしらで検査してあげね?」

 下卑た声。笑い声。「さんせ〜い」何らかの嫌らしい感情が込められた同意の言葉。
 それが殺気であると気がつくのに時間がかかった。
 例えるならば子どもが何の呵責も感じることなく蟻の頭と胴体とを引きちぎるかのような、それはとてもとても歪んだ殺気であったから。
 目をあける。
 顔をあげる。
 一般的な女子中学生が華奢な腕で歪んだパイプ椅子を振り上げていることの異常性に思考回路が追いつかず、それを事実と認めたときには既に視界には闇しかなかった。



赤い目をした女がいた。
そいつは私と同じ顔で私と同じ目を細め私と同じ唇で三日月形の弧を描いて言ったんだ。

本当にこのままでいいの、と。







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