鬼の面―後編―


「で、エレナは何でオレについてくんだよ」

 顔を精一杯持ち上げてジト目で問うと、エレナはやっぱり何ともなさそうな顔で「んー?」生返事。足の長さが違うので、佐太郎がどんなに早く足を動かしてもエレナの方は余裕の歩調でくっついてくるのが癪に障る。
 仕事屋という特殊な職種の人間であるならば、仕事の範囲内である殺人・窃盗等々全て罪に問われない。日本であるが日本ではない街と揶揄され和国と呼ばれる街。そこの住宅街だった。ここいらはビジネス街やショッピング街に比べて光源が少なく、星はぽつぽつと夜空に吊り下がっている。民家に挟まれた、そう広くはない路地なので車の騒音も聞こえない。目的地店はこの無駄にぐねぐねと折れ曲がった迷路みたいな路地の先にある。

「だってサタ、それ」

 と、佐太郎の背負ったリュックをエレナは指差して、

「持ったまんまだとまたお化けに囲まれるよ。霊は見える奴には寄ってくるもんだし、それに多分その荷物、ユーレイに狙われてる」
「なっ……!?」思わずリュックの紐を握り締めた。
「だからあたしが護ってやるって」
「……いいのか?」
「いいよ。任せろ」

 そう言ってぱっと笑うと、街灯に照らされた褐色の肌も相俟って活発な普通の女の子に見えた。「あ、ありがとう」ぼそぼそと礼を言うとエレナはまた笑った。夜なのに太陽を直視したみたいな、網膜に奇妙に残る明るい笑顔だった。

「なー、エレナ。エレナは昔っからその、お、お化けが見えるのか?」
「何だ、サタ、お化け怖いのか?」
「こっ、怖くねーよ!! 怖いわけねーだろ!!」
「ははっ、そっか。んー、そだなー、あたしは先天的だから。あ、えーっと、生まれつき見えるってこと。だからああいうのは慣れっこだよ」
「……囲まれたりとかしたのか?」
「流石にあんな量に囲まれたことはないけど、そうだなー、ちょっかいかけられたりはしょっちゅうだったなー。それで色々あったりもしたもんだ」

 エレナの口調はいつも通りだった。
 ただ単純に、目に映る星空や夜闇のノイズがかった民家やコンクリートの道について語ってでもいるかのような、そんな普通の声だった。

「嫌になったりしないのか?」
「なんで? 嫌だって思っても消えるもんでもないだろ。それに見えてなかったら今幽霊退治屋やってないし。そしたらサタとも会ってないぞ。嫌だろ」
「そ、そんな仲良くもなってねーだろ!」
「そうなの? じゃあいいじゃん、これから仲良くなれば」

 思わず口をぱくぱく開閉させる佐太郎である。あっけらかんとしているというか恥ずかしげもなくというか、ともかく彼女に照れ隠しや嫌味なんてものは全く通用しないらしい。何て真っ直ぐな女の人だろうか。

「サタってさぁ、運び屋か何か?」

 思わずぴょこりと反応した。運び屋であることは佐太郎にとって誇りであり、アイデンティティーであり、そして人生の核である。何があっても運び屋であることを認めてもらえれば心が躍る。
 運び屋とは世間一般に、仕事屋の一つに数えられる職業の一つだ。

「お、おう! 一人前の運び屋だ!」
「おー。凄いな。でも何で運び屋になったんだ?」
「祖父ちゃんが昔、運び屋で、それで! オレも祖父ちゃんみたいな運び屋になりたくてさ。だって祖父ちゃんすげーんだぜ。色んなこと知ってる」

 意気込んで言うと、エレナは少し笑みを零した。

「サタは祖父ちゃんが好きなんだな」
「おう!」

 舗装された道路に落ちる街頭の光が、ほんの少し範囲を広げたような気がする。祖父ちゃんみたいになるんだという思いが佐太郎の動きをきびきびさせた。このリュックも、無事に運びきるんだって。

「エレナは?」
「ん?」
「エレナは何で幽霊退治屋になったんだ? やっぱり尊敬する人とかいたのか?」

 跳ねる心を抑えることもせず尋ねると、しかしエレナは「んー」と小枝を咥えた口で生返事してちょっと困ったように小首を傾けてしまった。

「そういう能力があったからなったって感じだからなあ。尊敬する人とかはいないなあ」

 それでちょっとだけ、やっぱり彼女は笑うのだ。
 空気抵抗の無い生き方をしている。と佐太郎は思った。渡り鳥みたいに極力空気抵抗を少なくしようと努力しているとかではなく、この人はナチュラルにどんなに小さなしがらみも感じ取ってなんていないのだ。彼女の周りには闇の帳の重苦しい空気さえも存在し得ない。

「エレナは変な奴だな」

 正直な感想を言うと「え。う、うーん、そうなのか……?」ぶつぶつ独りごち本気で悩み始めてしまった。
 あんなに一杯幽霊に囲まれて、幽霊退治屋だなんていきなり名乗った女の耳は尖っていて、一体どんな非日常に放り込まれたんだと身構えて蓋を開けてみたら、なんてことはない。ただの普通の女の人じゃないか。

「なあ、エレナってさー、いつから退治屋――」

 後ろ襟首を掴まれた。
 と思ったときには既に後方に引っ張られ投げ飛ばされている。尻餅をついて一瞬呼吸が止まった。

「なにす――っ」

 エレナに抗議の言葉を投げかけ終えるその前に。
 斧が。
 ついさっきまで佐太郎のいた場所に斧が、降ってきた。

「んなっ!?」

 コンクリートに突き刺さったそいつからもう目が離せない。七十センチはある巨大な三日月形の刃が月明かりに照らされて不気味な鈍い光を放つ。そいつを掴む腕はひょろっとしていて、とてもこんな斧を片手で扱えるとは思えなかった。

「んー、うん、雑魚いのならあたしの魔除けで難なく跳ねつけられるけど、やっぱあんたみたいのは駄目だね。そもそも東洋と西洋とじゃお化けの性質や弱点も大分違う。どこまでいけるかなーって思ったけど、あんたレベルになるともう駄目か」

 小枝を咥えた不明瞭な口調でエレナは言った。佐太郎が斧に視線を釘付けられている間に抜いたのだろうか。いつの間にか右手にはサーベルが握られている。異国のまじないが彫られた、あのサーベルだ。
 街灯がぽつねんとした光を落とす、その中に照らし出されたのは――男とも女ともつかない、人の形をした“モノ”だった。骨と皮しかない体が古びてぼろぼろになった包帯に巻かれている。瞼はなかった。頭髪はまばらで、皮膚は赤い斑模様。まあるい目玉がむき出しのまま二つ、あるべき場所にあり、そしてそれは血走っているように佐太郎には見えた。血走った目でじっとこっちを見つめている。心臓を死人の冷たい手で鷲掴みにされた感覚。
 一歩。むき出しの足がこっちに寄った。心臓を掴んだ手に力が加えられた気がした。腕が飛んだ。
 ……誰、の?
 エレナが小枝の咥える位置を変えたのだけが目に入った。
 足の先に転がり落ちた腕に視線をシフト。赤い斑。切り口は肩の部分にあった。鋭利な刃物で切断されたまっ平らなそこから、血は流れてこなかった。肉もない。ただ、ただ、皮で包まれた細い骨を伝って蛆虫が這い出して、
 視線を逸らして口元を覆った。酸っぱいものが喉奥まで競りあがってきそうになるのを飲み下す。荒い息を繰り返すことで何とか酸素を確保しながら横目で見ると、もうそれはさっきの幽霊みたいにざらざらした砂粒に変わって夜風に吹かれているところだった。蛆虫は影も形も見えなかった。或いはそれは、本当は最初から無いものだったのかもしれなかった。

「宣言しよう。退治屋は、サタに指一本触れさせないままあんたを倒す」

 いつもの口調でいつもの表情で、何でも無いことのように言い放つ。斑模様の皮膚を持つ幽霊がそれに呼応するように高神エレナに視線をやって、
 ――斧を真横に一閃。
 けれど遅かった。
 そいつの行動はどれを取っても遅かった。
 予想でもしていたようにエレナは後方へ飛び退る。斧は重い。幾ら相手が幽霊でありひょろひょろの体であのでかい斧を扱えると言ったって、限界というものはある。エレナは相手が体勢を整える暇を与えない。どころか何の遠慮容赦もなくむき出しの目玉を頭蓋ごと真っ二つに斬った後、流れるような動作で斧を持つ腕をも切断して跳ね飛ばしてしまった。空中でじわりと腕が砂になる。ブルーグレイの夜空をキャンバスに、月明かりによってぎんねず色に煌くそいつは一見綺麗に見えるかもしれないが、何せものがものである。白いむちむちした蛆虫があの中をうぞうぞ蠢いているかと思うととても観賞する気にはなれない。
 車一台がようやっと通れる狭い路上では、既に決着はついていた。赤い斑の肌に真新しい線が加わっている。肩からわき腹にかけての斜めの一線。わき腹の部分にはまだ、エレナの持ったサーベルの刃が深々と刺さっている。一拍遅れて、
 ざぁっ……
 と、砂漠の土埃が風に巻き上げられるようにそいつの全身が多量の砂になって舞い上がる。それは砂というよりかは自ら発光する微生物に近かった。光の粒子に包まれる位置に在るエレナは、ただ無感情にその粒子を……否、何もないはずのコンクリート塀を見つめている。粒子なんて目に入っていないかのようだった。見慣れた景色だから、何の感慨も浮かばないというのだろうか。
 やがてエレナが顔を上げた。

「よし、宣言通り。サタ、怪我無いな? ああ、いきなし投げちゃって悪かったなー。お尻痛くないか?」

 向けられた笑みはたった数分前のそれと同じで人懐こかった。
 鬼。
 という言葉を思う。
 その言葉が相応しい人間がいるのなら、多分エレナがそれだった。ただし怖さは感じなかった。鬼は彼女の根底にはないからだ。
 一つ、ごくりとツバを飲む。立ち上がる。少し足元がおぼつかなかったが、二本の足でちゃんと立てた。

「痛くねーよ、あんなの。助けてくれてありがとな」

 しっかり頷いて彼女の目を見て礼を告げるとエレナは、そこだけ光が飛び散ってそうな顔で、笑った。それは少しだけ犬っぽかった。
 それから無事に指定の人物に荷物を届けて、エレナとはそこで別れた。佐太郎の代わりに荷物を持つ羽目になった男には、「これ、桃の木の小枝。魔除け効果あるから持っときな」と佐太郎に付いて来たのと同じように“気紛れな”世話を焼いていた。
 彼女はまた旅に出るのだという。また会えるかと佐太郎が聞くと、分からないと彼女は言って、笑った。一年後に来るかもしれないし、十年後に来るかもしれない。気紛れな彼女は時間にも縛られることはなく、ただ自分のペースで世界を渡る。
 けれど根底にあるのは鬼ではない。
 多分そう遠くない未来、彼女はまたこの街にやって来るだろう。そうして気紛れと偽って佐太郎の目の前にひょっこりと姿を現すのだろう。その時は祖父に会わせてやろう。きっと二人とも、話は合うと思うから。


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