百鬼夜行絵巻、という言葉を知らず知らずのうちに思い出していることに、宮部佐太郎は気がついていた。深夜、町を徘徊する鬼や妖怪や付喪神の行進を描いたというあれである。昔佐太郎が幼い頃、祖父に手を引かれて見たそれは博物館の展示ケース越しにあるくせに何だかとても恐ろしく見えて、祖父のしわくちゃな手を放すことが出来なかった。
 巨大な絵巻物が佐太郎を取り囲むようにぐるりと踊る。
 目の前にあるのはそれだった。
 もっと正確に言うならそれらは多分幽霊であり、そして、事実確かにそこにいた。

「ッ……」

 声が喉に張り付いて言葉が出ない。心臓が激しく鼓動を打つ度に口の中がカラカラに渇く。無いツバをごくりと飲み下したと同時に、足の力が抜けてへたりとその場に座り込んだ。砂が脛と着物に付着しただろうが感覚がない。麻痺している。
 踊っているのは何人だ? 本当に百いるのだとしたら、いや、それ以上だ。それ以上が確かに自分を取り巻いてあざ笑っていつ食ってしまおうかと話し合っている。佐太郎にはそう見える。ぼさっとした長い髪と肌が溶けたかのようなどろりとした体躯を持つ女が佐太郎の体を覆いつくさんとぐんと顔を近づけけらけら笑い、飢餓で死んだに違いない、骨格がむき出しの枯れ枝みたいな老婆がぞわりと首筋を撫でてくるくる回る。青白い肌の、不健康そうな男がぎょろっとした目で見定めるようにじっとりと射抜いて脇を去った。何百何千の目が夜闇に浮かんで光っている。キィ……キィ……とそれらを煽るような音をブランコが立てて揺れている。
 怖い。
 溺れるくらいの感情の波が押し寄せ最後に残った感情がそれだった。

「――甘いっ!!」
「……へ?」

 すっとんできた声に目を瞠る。目尻に溜まっていた涙は頬を滑って薄灰色の着物に落ちた。そいつがじわりと染みを押し広げている間に、
 ヒュン――
 風が唸るような音を立てて一閃。真一文字に薙がれた湾曲した刃が肌の溶けた女の腹を割いた。実態のあるものが斬られたような生々しく鼓膜に残る音はしない。ただ刃が空を切る音。それだけだった。なのに化け物の腹は確かにぱっくりと裂け傷口の方からだんだんだんだん、粒子の群れに変換され散っていく。まるで土埃がもとある場所に還るようにざらざらと。土で出来た人形でもなかったはずなのに。
 人形でなかったその証拠に甲高い呻き声が佐太郎に耳に確かに残った。聞きようによってはそれは悲鳴だった。精一杯搾り出された、断末魔の叫びだった。
 肌の溶けた女の霊と立ち代るように佇立したのは、どうやら女の人のようだった。最初に見えたのは青い色をしたひし形の模様。マントの柄だ。白地に青が模様として入るシンプルなマントだった。佐太郎が生まれ育った区域でこういった現代離れした洋装をした人間とは会ったことがない。街外れの田舎区域だから、ということもあるだろうが。

「少年、怪我はない?」

 何か咥えてでもいるのだろうか。どこか不明瞭な口調での問いかけに、佐太郎は首を振ることで応えた。相手はこちらに背を向けているのだから見えるはずがないのだが、恐怖で喉が引きつって言葉を発せそうもない。
 幸いなことに女性には意図が伝わったようだ。女性と言うにはその口調は明け透けで遠慮がなく、ボーイッシュな感じを受ける。

「そ。なら良かった」

 そこに怖気づいた様子はなかった。
 西洋刀の峰の部分を自身の肩に預ける彼女は次に不敵に開口する。サーベルの刃に異国の文字で何かが彫られていることにその時気がついた。まじないか何かだろうか?

「さって。あたしを知らない奴はいる? 幽霊退治屋、高神エレナ。最高ランク保持者のあたしに勝てるってんなら全員まとめてかかってきな!!」

 恨みつらみを帯びた何百何千の目を一身に受けて、臆することなく言い放った。


鬼の面―前編―


 結果として、彼女はあの何十、何百と寄り集った幽霊らを言うほど時間もかけずに抹殺してしまった。中には逃げ出した者もいたかもしれないが、エレナの強さに尻尾を巻いたのならそれは彼女の手柄と言える。

「いやー、全く。あたしが通りがかって良かったね、少年。下手すりゃ引きずられてるところだよ」
「ひ、引きずられるって……どこに?」
「どこでもないよ。彼らの感情に引きずられるって意味だから」

 ……よく分からないが、幽霊の仲間にされる、ということだろうか? あんな恨みのこもった眼差しを自分もずっと湛えていなければならないなんて怖気が走る。
 エレナの戦う様を見て幾らか冷静になったのか、声は難なく出た。喉は渇いたままだったので少しひりひりしたが、我慢出来ないほどではない。
 立ち上がって砂を払った。公園の地面は当たり前のように舗装なんかしていなくて、おかげで着物が泥だらけだ。普段から泥まみれになって遊んでいるので気にはならなかったけれど。

「それよか、幽霊見える奴なんて久しぶりに見た。へーえ、あんた見えるんだね」
「あ、あんな」怖い、と言おうとしたのを慌てて飲み込んで「あんなもん普段から見えてるわけないだろ……!」
「へ? じゃあ後天的霊感所持者? でも何らかの要因がないと見えるようにはならないはずだけど」

 それまでの怖さも相俟ってぶっきらぼうになる佐太郎を意に介した風もなく、高神エレナは何ともなさそうな顔で何やらぶつぶつ言っている。口調が不明瞭なのは、彼女が小枝のようなものを常時口に咥えているからだ。
 全体的に異国籍な感じがする女だった。
 褐色の肌に茶色い髪、赤い目。ピンク色したノースリーブとデニム地の短パン、足元を覆うウエスタンブーツという格好はまだ普通っぽいのに、それにマントを羽織っているものだからどことなく旅人のような印象を受ける。それを更に世間離れして見える要因が、マントにくっついた飾りと額飾りだ。どれも大きさの違う宝石のようだった。ラピスラズリ、だっただろうか? 何しろ十歳の男児、宝石には興味がないので詳しいことは分からない。よくよく見ればこいつはノースリーブの胸元にもひし形のがくっついていた。これで左頬に「了」によく似た赤い文様が浮いているとなれば警戒心の強い日本人が近寄りがたくなるのも当然。
 更に言うと彼女の耳――
 尖っていた。
 まるで悪魔か何かのそれのように。

「ああ、分かった」

 唐突に彼女がぴょこんと手を打ったので、彼女をじろじろ観察していた佐太郎はついついびくっと心臓を飛び上がらせた。ばくばく脈打つ心臓を押さえて「な、な、な、なんだよっ! いきなり声出すなよなっ!」抗議してみるが彼女は聞いた風もない。

「あんた何か持ってるだろ。普段持ってないもの」
「何か、って……」

 自然、意識は背負った巾着型のリュックサックに向いていた。十歳にして運び屋を営む佐太郎がこのリュックに入れるのは、いつだって“特定の人に渡してくれ”と頼まれた依頼物だと決まっている。
 奪い屋、の三文字が頭に浮かんだ。奪い屋は奪うよう頼まれたブツを奪って依頼人に持っていく仕事だ。

「ああ、そうか、リュックの中。うん、多分それだ。そいつ、魔力か何かがこもってるんだね。だから持ってるあんたが、一時的に霊が見えるようになったんだ。ははっ、そういうモンも久々に見た。あまり出回ってないんだよー。貴重な経験したねぇ、少年」

 真夏の太陽みたいにからっと笑う彼女を見て「笑いごとじゃねーよ!」ついついツッコミ。だってあともう少しで幽霊の仲間入りになることだったし、それに、その……怖かったし。勿論そんな感情他人に、それも女に知られるわけにはいかないので胸の中で呟くだけに留めた。

「お前……なんなんだ?」
「ん? さっき聞いてなかった? 幽霊退治屋、高神エレナ。文字通り幽霊を専門とした退治屋やってる。本来なら依頼されて初めて退治するもんなんだけどね、あたしは退治してもいいかなと思ったときにしか退治しないからあんまり依頼は受けないんだ」
「……金稼げねーだろそれ」
「人間お金なんかなくても生きてはいけるもんだし、いいじゃん」

 いいのか……? いや、本人がいいのならいいのかもしれないけれど。
 半眼でエレナを見上げながら微妙にもやもやしてしまう佐太郎である。

「ところで少年、名前は?」
「は?」
「名前だよ、名前。知らないと呼びづらいだろ」
「よ、呼びづらくてもいいだろ、別に。知り合いになるわけでもないんだし……」

 と、そこまで言ってしまってから、佐太郎は「あっ」と思う。
 まだ助けてもらったお礼をしていない。
 今更言うのはあまりにも格好がつかないし言いづらいことこの上ないが、しかし彼の尊敬する祖父は言ったのだ。「佐太郎、礼と謝罪はな、きっちりせねばならん。感謝の気持ちも謝罪の気持ちもな、面倒臭がらずにきちんと相手に伝えなさい。それだけで人と人との間にあったかいもんが出来るもんだ」。
 俯いてから目線だけで相手の様子を伺った。エレナは相変わらず何ともない風な能天気顔でこっちを見つめ返している。彼女がちょっとだけ首を傾げた。

「あ、あ……」
「あ?」
「あ……、ありがとな。お、遅くなったけど。さっき。助けて……くれただろ」

 精一杯そっぽを向きながら搾り出すようにそれだけ言った。ちょっとだけ沈黙が降りた。
 やがて、

「ふっ、ははははは。あははははははははっ」

 夜闇を割くような笑い声。何かと思ったら腹を抱えて笑っている。腰の鞘に仕舞われたサーベルが笑い声に合わせてカチャカチャカチャカチャ音を立てる。
 一拍置いてから、佐太郎は頬がかぁっと熱くなるのを感じた。

「……なっ、なっ、なっ、何が可笑しいんだよっ! 折角こっちがっ」
「あはははは、いや、悪い、ごめんごめん。や、いや、だって」目尻に溜めた涙を拭って(どれだけツボにはまってるんだ失礼な!)「っはー、あんなワケの分かんないモン見せられて、しかもあたしみたいな怪しー奴が礼言われるとはさ。予想外すぎんじゃん」

 佐太郎はぽかんと口と目を大きく開けた。

「……あんた、自分が怪しい奴だって自覚あんのか?」
「しっつれいな奴だなー。まあそりゃあどこのコスプレ野郎だって思われても仕方ないだろ。あたしは女だからこの場合“コスプレアマ”になるけど。あたしだったらまず真っ先に“なんだこいつ”ってなる」
「じゃあ何でそんな格好してんだよ……」
「魔除け」
「魔除け?」
「そ。言ったろ、幽霊退治屋だって。あっちの世界に長く触れてると幽霊側からもあたしの方にコンタクト取りやすくなるんだ。ユーレイ取りがユーレイになったら洒落になんないだろ。だからこれ、ほとんどぜーんぶ魔除け」

 マントについたラピスラズリ(多分)をちゃらりと指で弾いてやっぱり何とも無い風にエレナは言う。何でもないような服飾品でも、エレナにとっては何でもなくないのか、とちょっと納得した。

「……宮部佐太郎」
「ん?」
「名前っ。エレナが聞いたんだろっ!」
「おお。そっか、宜しくな、サタ」

 へへっと笑ってエレナは言った。
 胸の辺りがぽかぽかしてくるのを感じて、佐太郎も歯を剥き出して一緒に笑った。


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