そういうような次第でもって、真佳はほかの複数名の仲間と共に、朝日が昇る前に村長宅を抜け出した。唯一村長宅にいておかしくない人間のルーナが率先して先導してくれたおかげで、行きよりもスムーズに事が運んだと言ってもいい。ルーナとは村長宅の二階でお別れし、真佳はさくらやヤコブスと一緒に、村を囲む森の縁まで引き下がった。振り返ってみても村長宅に大きな異変は格別無く、建物自体が寝静まってでもいるかのようにひっそりとそこに寝転がっている。
 変に頭の中で擬人化してしまったために、村長のほかより大きい家屋が突然大口開けてあくびして起き出すところを想像してしまったが、夜の帳が見せる怪しい夢だということは明らかだったので、視線を外してそんな幻想はすぐに振り払ってしまうことにする。

「大丈夫なのか」

 と、さくららに視線を戻したタイミングでヤコブスが丁度口にした。その大丈夫なのかは当然というか何と言うか真佳に向けて発せられたものじゃなく、さくらに向けて言われたものだ。声色が明らかにほかとは違って柔らかい。

「大丈夫って、何が?」

 嫌にさっぱりした声でさくらが問う。

「明日、死体を検分すると言ったろう」
「そんなに大層なものじゃないわ。死亡推定時刻すら断定出来ないものだもの」
「しかし村長に接触するのはするのだろうが」
「……心配してくれてるの?」

 ヤコブスが渋い顔をして、それを見たさくらがしたり顔でにんまり笑った。さくらと対するヤコブスはどうにも強気になりきれないんだなとここで改めて確信する。それを見てヤコブスがますます渋い顔をする。
 シーソーゲームみたいなそのやり取りは興味深かったが、それ以上に真佳はヤコブスに賛成だった。真佳を庇うみたいな発言を村長の前でするということは、真佳が教会に捕まったとき、さくらだって無事では済まない可能性が生まれ得るということだ。
 真佳の件でさくらまで割を食う必要は無い。真佳としては当然そう思うのだけど……。

「そんなつまらないこと、気にしなくても全然いいのに」

 口角を上げて、今度はにんまりとかいう笑い方じゃなく、くすっと音を立てて小さく笑った。やけに耳に残る艶めかしい笑い方。

「つまらないことって、君な……」
「真佳の無実を期間内に証明出来さえすればいい」

 ……真佳は短く息を吐く。
 真佳の件でさくらまで割を食う必要は無い。真佳としては当然そう思うのだけど……さくらが自分の平穏のみを考えて行動するはずが無いのだということも、同時に知っているのであった。こればっかりはどうしようもない。一度言ったらさくらは聞かない。
 絶句しているヤコブスを前に、不敵に放胆に笑って見せてさくらは己の言葉を継いだ。

「――最初からそういう話でしょう? 私の立場がどうなろうが関係無い。どの道真佳が捕まったらその時点で詰みなのよ」

 ――真佳が捕まったところで、この先の旅路に用事があるのはさくら一人だけなのだから、真佳を放って旅を続けておけばよいものを、そういうことを出来やしない人間なのだ、さくらは。だから真佳は、さくらと共に今日に在る。

「……逃げ道を自分で塞ぐというのか、君は……」
「だってそもそも真佳を置いて旅を続けるつもりなんて、これっぽっちも無かったもの」

 ヤコブスが大きく吐息した。溜息、と言うのにふさわしい、実に疲れ切った吐息であった。

「……本当に全く、無茶をする。君たち二人」
「真佳も含まれているみたいな言い草ね?」
「そうだとも。君たち二人、全くとんでもなく厄介な道に俺たちを引きずり込んでくれたもんだ……」
 少し笑ってさくらが言った。「下りてくれても構わないのよ?」
 同じく笑って、ヤコブスが。「ここで下りられるものなら、ここまでついてきているものか」

 …………真佳はとてもびっくりしていた。あのヤコブスが、とても素直に、さくらだけじゃなく真佳まで仲間みたいに扱っている……。明日と言わず今からでも槍が降ってくるんじゃないか? と、失礼とは思いながらも割りと本気で考えた。
 ヤコブスのそういう柔らかい態度が物珍しくて割って入るのを躊躇したが、事はそうも言ってもいられない。用事が済んだのならここにいる理由も無いのだし、誰かに見つかって怪しまれる危険性を極力減らしておくべきだ。

「ハイちょっと失礼」

 とは言え実際どうやって割り込もうかと考えていた真佳の横から、ひょいっとスカーフに包まれた頭を二人の間に滑り込ませて女が言った。カ・ルメである。

「青春大いに結構だしとても美しい光景だけど、私たちはそろそろお暇したほうがいいと思って。彼女が明日、村長に掛け合うのだと言うのなら、なおさら今私たちと一緒にいるところを誰かに見られるわけにはいかない」

 きょろきょろと瓶底眼鏡の奥底からその場を素早く見渡しながら。真佳の斜め後方では、ジークが黙って周囲の音に耳を澄まして鋭い眼光を四方八方に向けていた。視界の端で捉えただけで、すぐに視界からジークを外す。

「何が青春だ」

 苦渋を含んだいつもどおりの声色でヤコブスがカ・ルメにやり返す。

「行くとも、無論。ここに長居するつもりは無いからな……グイド」
「はいはーい、大丈夫。ヒメカゼちゃんのことは心配しないでー。おれが無事に送り届けるよー」

 手をぱたぱた振ってグイドが言った。グイド、さくら二人と別れて、真佳は再びヤコブス、カ・ルメ、ジークと共にあのテントが沈んだ崖下へ帰り着くこととなる。明日の夜、どこで落ち合うかは恐らくヤコブスが直前に伝令を送ると思うので、真佳もさくらも今は知らない。この一日でお互いどこまで話を進められるか、分からないからだ。
 一日の間、お別れになる。また。でも感慨は抱かなかった。
 お互い顔を見合わせて、「じゃあ」「うん――」やり取り終了。よく考えたら、別に学校から家に帰るときだって大体それくらいの別離期間だったのだから、別に感慨を抱く必要なんて無いわけなのだ。場に走る緊張感だけがどうにも気持ちを逸らせる。先へ先へ、どこまでやったら物足りるのか分からないから、やれることを出来るだけ――って。
 でも大丈夫。さくらが言ったのだ。真佳の無実を期間内に証明出来さえすればいいんだ、って。真佳とさくらが存在していて、成し得ないことなどきっとこの世に無いはずだ。だから大丈夫。
 己の心臓にさくらの一言を重しにつけて、息を長く、長く吐いた。大丈夫――。

「じゃあ明日。私も頑張ってみたりする!」
「現場に来れないで何を頑張るのか分からないけど……まあ、頑張って」

 片手を軽く上げられて、それが別れの合図になった。真佳が身を翻して走り出したタイミングが、偶然カ・ルメと重なった。


規定



「すごいいい人じゃん、〝サクラ〟さん」

 顎の下で結んだスカーフを、ほどきにかかりながらカ・ルメが言った。走っている最中で振られた頭半分の世間話に真佳は両目をぱちくりさせる。

「それは、うん、そう見えたんならいいんだけど」
「そう見えたらって、君が一番思ってるだろ?」
「……何かそうゆう、そーゆーのは何か……」

 恥ずかしい……ということを口の中でもごもごと。ほとんど声に出していなかったので風にさらわれたと思ってはいるが、相手が狼人族なので聞かれている可能性は多分にある。

「ふーん、まあいいけど」

 実際どうでもよさそうにカ・ルメが言った。
 というか、結んだスカーフの結び目が思った以上に硬かったらしく、そっちをほどくのに懸命になりすぎて会話に意識を割けなくなった、というのが恐らく正しい。瓶底眼鏡の上の眉毛が、見事なまでの逆八の字になっている。耳が塞がっているのが気になるにしても、何も走っている最中にやらなくても。いつかの時点で派手に転ぶんじゃなかろうなと戦々恐々していたら、自分の左隣にヤコブスがついたのが気配で分かった。右側にいるカ・ルメから視線を転じて、ヤコブスのほうを振り返る。

「……」
「……」

 さっきさくらと二人殊勝な会話を繰り広げていた男とまるで別人みたいなしれっとした顔で進行方向を見据えていた。もしかしてこいつ、自分と同じで二重人格なんじゃないだろうなと一瞬本気で考えた。

「明日の死体検分、グイドも同行するように言っておいた」

 ……ヤコブスのほうから先んじてかけられた言の葉に、真佳は一瞬きょとんと目を瞬かせることになる。そんなこと、いつのまに――と思ったが、真佳がさくらと別れの挨拶を交わしている一瞬の間にしていたのか、と思い至った。時間的にそこ以外には考えられない。

「やつの記憶力、またぞろ頼りになるだろう。とは言え明日の夜には来なくていいと伝えておいた。隠密任務だ。人数は少ないほうが安全だし、その少数精鋭も出来れば小柄で俊敏なほうが融通が利く」

 と言って、走りながら自分の唇に手を当てた。普段煙草が引っかかっているのと同じ位置であったので、この数時間でもう煙草が恋しくなったのかと考えた。ヘビースモーカーめ……。

「……ヤコブスが私に今後の予定を話してくれるとは思わなかったんですけど」
「……? 話すべきだと思ったことなら俺は話す」

 いや今までを振り返ってみろよとよっぽどツッコミを入れてみたかった。今日の村長宅までの道のりだって、真佳は途中まで全然聞かされていなかったのだ。……まあ今回の件に関しては、聞かなかった真佳にも責任はあるのだが。聞き出したのか相談したのかは知らないが、少なくともカ・ルメには共有されていたために。

「……そこまでしてくれるとは思わなかった」
「何がだ?」
「今回のこと……。村長に過剰に接触したら私と無関係とは言えないでしょ。グイドまでつけてくれるとは思わなかった」
「ヒメカゼが強情だったのでな」

 疲れたように溜息。これまでさくらの頑固具合を見飽きている真佳からすれば、その溜息に含まれた切実さがよくよく分かるというものだ。

「俺もそこまでするつもりは無かったが、万一のときにでもヒメカゼが応じないのであれば仕方がない。貴様と一蓮托生してやってもいい。……と言ってもこっちは些か状況が異なるのでな。異教徒と断罪される前に奴らを連れてとんずらさせていただくが」
「それはもう、私もさくらもそうしてくれたほうがありがたいと思ってるけど」

 自分の無罪が証明出来なかった廉でヤコブス含めた全員が処罰、最悪の場合死刑なんてことになったりしたら、真佳もさくらも一生後悔することになりそうだ。そういう意味では、枢機卿殺人犯を幇助したなんていうお門違いな理由でマクシミリアヌスにも処罰が下りそうだと思っているので、出来れば彼にも己を優先してほしいのだが……。マクシミリアヌスの場合説得しても首を縦には振らないだろうなという、諦めにも似た確信がある。
 ちら、とヤコブスがこちらを見た。金の眼が一瞬こっちを射抜いてきたと思ったら、またすぐに前に戻された。

「……君もヒメカゼも、己が大変なときに他人の心配ばかりするのだな」

 呆れた果てたかのように、吐息混じりに一言。

「……それはお互い様では? 別に私のことはスルーして自分は関係ないを貫けばいいのに、みんなして私が無罪であることを証明しようと躍起になってさあ」
「君のためではない。俺のためだ。君が殺人犯になったら俺が困るので、仕方なしに協力してやっているに過ぎん」

 だとしても、と真佳は思う。
 それにしたってデメリットが勝ちすぎる。いくらさくらの目的を果たさせるためと言ったって、そのために自身の身や、あまつさえ身内まで危険に晒す可能性のあることを、そうまで率先してやろうと考えるものだろうか。
 ……正直な話、真佳自身、さっきのギリギリまで考えていた。万が一にも自分が首都に連れ戻されそうになったとき、さくらをヤコブスに押し付けて、さくらの用事が済むまで自分はたった一人の実行犯として逃げ回ろうということを。
 結果として、さくらに真佳から離れる意思が強情なまでに無かったためにこの企みは行う前から失敗に終わったわけである。これに関しては予想のついたことだったので、まあ良しとするにしても……。
 真佳を切るという最終手段が出来なくなった今、それでもなお己を犠牲にしてでも手を貸してくれる理由は一体どこにあるのだろう?

「ヤコブス、もしかしてなんだけど」
「何だ?」
「さくらのこと、恋愛的に好きだったりする?」
「……………………」

 唾棄するような心底呆れ果てた目を向けられた。

「年の差を考えろよ」
「いやだってこの国で結婚できる年齢とか知らんし」
「可能年齢だのの話でも無いだろうが。貴様以前も狼人族の男のほうにそんなことを言っていたが、恋愛のことしか頭に無いのか?」
「ふ、不本意……! だってそれしかヤコブスがここまで手を貸してくれる理由が思いつかなかったからじゃん!」
「……? 俺が貴様らを手助けする理由に正当性が必要か? 貴様らにとっては渡りに船の話だろうに」

 ぐっ、と真佳は言葉に詰まった。ちくしょう、堪能な日本語を使いやがって……。五百年前の異世界人が一体どういう理由でそんな言葉を残したのかは知らないが、日本人離れした男の顔から日常生活で使われる機会があまりない言語が飛び出てくるたび、何だか胃の腑の辺りがふわふわと落ち着かない気分にさせられる。
 実際ヤコブスの言うとおり。真佳やさくらの視点で見れば、助けてくれると言っているものをわざわざ遠ざけて勝ち筋を見失う意味が無い。詮索は愚行。つつかずに済む藪をつついて蛇を出すより、都合のいい好意を単なる好意と受け取って勝ちを貪欲に狙うことのほうが賢い人間の生き方だ。
 でも知ってる。
 真佳もさくらも、賢くなんて生きられない。

「……助けてくれる人たちの事情は確認したい。最悪、私たちのせいで命を落とす人まで出るかもしれない。人の命を懸けているのに、そこがなあなあでは動けない」

 硬い声でそう告げると、ふん、と鼻で笑われた。
 ……いや、あるいは、普通に笑っただけだったかも? 高く伸び上がった木々の葉っぱが邪魔をして、森の中まで月の明かりは届かない。

「成程。君たちはそれでいい。だから俺も手を貸してやってもいいと思った。それで満足か?」
「……最後の一言がなかったら」

 今度は音がしなかった。ただ、隣を走る影の纏った空気が一瞬緩んで、薄暗がりの向こうに辛うじて見える金の双眼が一瞬すうっと、細められたように知覚した。
 ……〝君たちはそれでいい〟……か。宵闇に染みたヤコブスの言を、もう一度頭の中で繰り返す。
 腹は決まっているらしかった。というか、さくらとの会話でとっくに腹を決めていたのだろうに、真佳のほうが怖気づいた。誰かの人生を歪めてしまう、ということに関して、随分と臆病になっていた。
 ……でも、そうか。〝仕方なしに〟で無いのであれば、それでいい。
 ――真佳も腹をくくるべきときだ。自分を切って周りを守れたらそれでいいなんて選択肢、絶対に許されない局面に来たということを。
 真犯人を見つけ出す。この事件の謎を究明する。全員で――。
 ずっと言葉にしてきたことを、改めて。
 周囲に満ち満ちる森のにおいを意識しながら考えた。

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