「仲がいいのね」

 唐突に切りだされたそれに目を瞠る。ぱちくりと数度瞬きして、「……あー」誰と誰のことを言っているのか寸秒経って思い至った。振り返るとまだユリアの経営する仕立屋が見えるだろうか。ここらの路地はかなり曲がりくねっているから、屋根の先すらも見えないかもしれない。結っているのには頓着しないで波打つ毛髪をばりばりやりながら、カタリナは一つ頷いた。

「まあね。ユリアとはあたしがガキの頃からの知り合いだから――もう十五年にはなるだろうね」
「へえ?」

 話を振っておきながら特に関心があるふうでも無い。いや、桃色に咲いた唇が緩い弧を描いているから、もしかしたら楽しんでいるのかもしれないけど。
 ……どうにも昔話をするのは気恥ずかしいなあと、カタリナは思って頬を掻く。

「あの人もガプサ?」

 何でもないふうに彼女が言った。両脇に立ち並ぶ二階建て住居に何でもない視線を投げかけ歩きながら。……さり気ない話題に聞こえるよう、気を使ってくれているのだろうか。声の調子が少し低い。コツコツと革靴が煉瓦道を叩く音。

「うーん、こっちよりの中立ってところかな。だからこそ対立することもなく、普通にこうやって買い物が出来る。これから行くところもそういった店主がいる店さ。若しくは売上のために見てみぬフリをしてくれてる店だね」
「もっと旧教信者で固められているものと思ってた」
「十分固められてるさ。あたしらに理解を示してくれる人間は本当に少ない。特にここは首都だからね」

 そう言うと、「ふうん」と、サクラはやっぱり然程関心があるとも思えない相槌を打つのだった。唇に人差し指の爪を添えて、こてんと可愛らしく小首を傾げている。
 ……関心が無い、というか……
 頭の中で咀嚼している?

「さ、次の角を曲がるよ、サクラ。古着屋は大通りに面してるからね。正門付近並みの人ごみにはなっちゃいないだろうが、はぐれないよう気をつけて」
「分かった」

 頷いて半歩こっちに近づいた。
 ……、頭の良い子だ、としみじみ思う。
 この世界で生きるのに必要となる情報を、彼女は常に求めている。それを頭の中で整理して、もしものときはどうすればいいか、最悪の事態にならないためにはどう行動すれば良いかを常に念頭に置いている。
 ……頭の良い子だ。
 一体元の世界でどんな生活を送っていたのやら。
 ――どこか遠く、高いところで響いていたざわめきの主が角を曲がった瞬間目に見えた。真っ直ぐ大通りへ伸びる道中にそれと垂直に伸びた路地があり、そこを境にした向こう、大通り側には幾つかの屋台が一列になって並んでいる。広場に通じる道なら別だが、住宅地に続く道に好んで屋台を置く者は少ない。
 ぷん、と、食欲をそそる匂いがした。
 甘味たれをたっぷりつけられた焼き鳥の匂い。
 ……。

「……サクラさぁ……もしかしてなんか……食べたいものとかあったりする?」
「え? いや、別に」

 ……即座に首を横に振られてしまった。なんて欲の無い子だ。カタリナなどは今、焼き鳥が食べたくて仕方がなくなってきているというのに。いや、さっきご飯食べたばかりではあるんだけど……。
 まさか店の前にサクラを待たせ一人鳥肉を貪るわけにもいかないので、泣く泣く焼き鳥屋の前を通り過ぎた
 その瞬間、

「あ。……あーーーっ!!」

 真っ直ぐ前方から一つの大声が轟いた。
 大通りを行き交う人ごみの中、飛ばされた大声がわんと鼓膜を貫き一瞬わけも分からず面食らって

「……あっ」

 その正体を認めた瞬間、知れず唇からぽろりと音が零れ出た。
 一瞬時が完全凍結。声のあるじと見つめ合う。往来の真ん中、押しかける人の波に逆らうように仁王立ちして真っ直ぐこっちに、カタリナに向かって人差し指を突きつけている女の子。――見覚えがあった。ありすぎるくらいに。

「うえ……、マリア……」

 ぼそりと一言。それをかき消すように「――ッ、カタリナァァアアアアア!!」マリアの方が絶叫した。その場にいた全員がぎょっと目を剥き叫声の出処に視線の放列をくれたとき、しかしマリアの姿はそこにはなく、

「わ、やば」

 逃げないと、っていやでもサクラを連れてどうやって? 一瞬の逡巡が運の尽き。気がついたときには弾丸のように突進してきたマリアの両手に「ひっ」がっしり両腕をテネーレ(ホールド)されていた。二つに結った薄紫の頭髪が、真っ直ぐカタリナの目線の先に。だらりと垂れた前髪から垣間見える双眸は正しく悪魔のそれである。地を這うような声音が、ずぐり。カタリナの脹脛を鷲掴み、

「ここで会ったが百年目えぇぇ……!」
「ま、またそんな古い言い回しを……。異世界時代劇の影響か何か?」
「うるさぁい!! 今そんな話はしていない!」

 キッとした灰色のまなこで睨まれた。……泳ぐように視軸を逸らす。なんだなんだと遠目に見やる数多の人が右から左、左から右に捌けていた。すぐ右隣で屋台のおじさんが迷惑そうに睥睨してくるのを気配で理解。ほっぺたの辺りと鼻筋の辺りが熱烈な視線を受けてじりじりじりじり疼いている。
 ……気付かれないように、
 嘆息した。
 マリア・カッシネッリ。幼少の頃から一緒にいた、言わばカタリナの幼馴染である。現在ペシェチエーロの教会行政棟にスオーラ(シスター)として勤めている彼女は、仕事が休みであるにも関わらず襟元が大きく開いた漆黒のブリオーとカミチェッタ(ブラウス)という、完璧なスオーラ(シスター)姿に身を固めていた。
 カタリナよりも一つ年下であるなどと想像出来ないくらいのしっかり者だ。カタリナなんかの異分子からしてみれば、それは歓迎される要素ではない。加えて……マリアとは幼馴染が故の、ちょっとした因縁があったりする。

「いい!?」

 と、マリアがだんと大地を踏んだ。

「あんたがガプサなんかになったことで私がどれだけ肩身狭い思いをしているか! 幼馴染が異教徒なんて知れ渡ったら私の人生おしまいよ! 何でこんなのと幼馴染になんかなってるんだろうわけ分かんない! あー!! 一緒にスオーラ(シスター)になるものと信じて疑わなかった昔の自分を殴りたい! ぐちゃぐちゃにしたい!」
「……えーっとマリア落ち着いて」
「あんたに言われたくないっつーの!!」
「いった!」

 思いっきり二の腕を摘まれた。しかも両方。昔はそんな乱暴女じゃなかったはずだぞ。色々滅茶苦茶で慌ただしい奴ではあったけど。
 マリアの頭越しに、こちらのやり取りをしげしげと見つめるサクラが見えた。……今回も多分、会話の内容を理解してはいないだろう。仕立屋に入ってからこっち蚊帳の外に置きっぱなしなことが多くて申し訳ない。……とか思っていたら、くすっ、と小さく笑われた。仲良くは無いからね。少なくともマリアはそうは思っていないはずだ。
 幸いなことに野次馬の輪は出来てはいないが、かなりの人にさっきの会話を認識された。“ガプサ”とか“異教徒”とか、やっかいなところでやっかいな言葉を吐き出してくれたものだと思う。「マリア」低くその名を口にする。

「えーっと、マリアがあたしのこと隠したいのは分かってるんだけどさ、多分さっきので、相当の人にあんたとあたしの関係を把握されたと思うよ」
「なっ」

 マリアの時が止まった気配。両の瞳を大きく見開き口をわなわな震わせて、頬には二筋の汗がたらたらと。そこまで嫌か。
 よろっ、とマリアがよろめいた。テネーレ(ホールド)が解かれて内心密かにほっとする。

「わ、私としたことが……っ。ど、どうしよう、同僚に知られたらどうしたらいい? 絶対陰口叩かれるっ。私がいるから異教に傾倒する人が後を絶たないんだって思われるっ。どうしよう、ガプサのスピーア(スパイ)だって疑われたりなんかしたら……!!」
「いや、誰もそこまで想像力を働かせたりしないと思うよ」

 思わずツッコミ。キッ、とマリアが再び目力を強くした。
「何よ、カタリナは黙ってて。元はといえば、あんたがねぇ――」何十回目かになる小言をマリアが再び垂れ始めたとき、

「――泥棒!!」

 という激しい怒鳴り声が、唐突に顔面を突き抜けた。「泥棒! 治安部隊を呼んで!」女の声と思われる金切り声が再度鼓膜を強打する。
 ――大通りからこの路地までがざわめきの余波に満たされた。屋台のおじさんが身を乗り出す。大通りの人ごみが一斉に視線を左に向ける。どよめきの声が最も大きいのも左側。
 左――教会がある方か!
 それが徐々にこちらへ、カタリナらのいる方向へ近づいてきている。ということは、ということは泥棒は

「大変! 早く担当の人間を呼ばないと! えーっとえーっと、今日の巡回の責任者は――」
「って、まさかマリア担当呼ぶまで放っておく気? そんなの待ってたら泥棒なんてすぐどっか言っちゃうよ」
「じゃあどうするっていうのよ! 言っとくけど、一介のスオーラ(シスター)に泥棒と取っ組み合って勝てるだけの能力が備わってると思ったら、大間違いですからね!」
「何でそう自慢げに自分の無能っぷりをアッペッロ(アピール)するかなあ」
「む、む、無能ですってぇえ!?」

 ――つん、とシャツの袖を横から引かれた。
 怒りで真っ赤になったマリアの顔から視軸を外し、そっちの方面に目を向ける。鼻梁がまず先に視界に入った。美しい曲線を持った鼻梁。サクラがこちらに横顔を向けて、凛とした目で前方を――さわさわざわめく大通りの雑踏を見据、

 ――ざわっ!

 という音の塊が抜けると同時、ヒトの姿が真っ直ぐ右に突き抜けた。
 路地の入り口、一瞬映ったその様相はすぐさま家壁に呑まれて消える。ざわめきが右へ右へと流れ行く。「泥棒うー!」疲れた肉声は左から。
 ――頬を一筋汗が伝う。
 風のように駆けた男のその顔を、カタリナは瞬時に認識出来ていないでいた。唯一見えたのは赤い鞄。女物の真っ赤なボルサ(バッグ)。
 それから、
 それから――

「っ、マリピエロ! マリピエロ准尉は一体どこ!?」

 スオーラ(シスター)服をばたばたしいしい大通りへと駆け戻って行く女の背中を見送って、カタリナは一人記憶を辿る。
 さっきの男、
 あの泥棒のすぐ後ろ。
 大の男にぴったり張り付き駆けていく、一人の()が確かに見えた。オンダ(ウェーブ)のかかった黒髪を風に任せるがままかき乱し、足に張り付くゴンナ・ルンゲ(ロングスカート)を鬱陶しげに蹴散らして。多分泥棒を捕まえるために、全速力で走って去ったその女。
 ――少女の面立ちを持ちながら見事男の足に張っ付いて見せた脚力と、印象的な真っ赤な瞳が強くカタリナの目を焼いた。
 あの子、一体

「……――真佳(・・)……?」
「え?」

 ぽつりと漏らしたサクラの言葉が、煉瓦の道にすっと落ち込み小さなシミを残して消える。



プロフォンド・ロッソ・スカルラット

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