「死んでしまえば良いのにって、考えたことはある?」


 ぼくはふるふると首を振った。
 目の前の彼女は気にした風も無く微笑む。褒めることも罵ることもしない。容受したようにも見えるが単にぼくの意見などどうでも良いと思っているだけかもしれなかった。


「そう、私はあるわ」


 さらりと口にした彼女は瞳を妖艶に細めルージュの引かれた唇に弧を描く。
 歪みの知らない黒の長髪がさらりと彼女の肩にかかるのをどこか遠い意識の中見つめていた。
 白い肌を際立たせるかのように真っ黒なワンピースを着たその女性を見ていると何故だかは知らないが「死神」の二文字を思い出してしまう。
 ただ単に黒を好んでいるだけなのだろうに。そんな馬鹿げたことを思うなんてどうかしている。
 どうかしていると言えば、塾の帰りに薄暗い公園で見ず知らずの女性と毒にも薬にもならない会話している今この時間をぼくが過ごしていることも、どうかしているとしか言いようが無い。
 普段ならば缶コーヒーなど購入せずに真っ直ぐ家路を辿るのに。
 疲れてでもいるのだろうか?


「…あら、聞かないのね」


 何を?
 どうかしていると思いながらも問わずにはいられなかった。このまま自宅へ戻り日常に戻るのは何となくだが憚られたのだ。
 非日常を、もしかしたらぼくは求めていたのかもしれない。


「死んでしまえば良いのにと思うのなら、何故殺さないのか――って」


 薄くつり上がった女の口端を瞠った目で見やれば、その女性はぼくの反応を楽しんでいるかのようにクスリと一つ小さな微笑を零した。
 けれども先ほどの言葉が冗談だとは思っていない。
 あの目が本気だったことは、ぼくにだって分かる。


「あら、不思議そうな目。でも私にとっては尋ねて来ない君の方が不思議だわ。殺人はフィクションの中のお話? 違うでしょう。ニュース番組でも着けてみなさいな。どこで誰が殺されたかなんて当たり前のように語られている。自分に身近な人間が自分を殺さないなんて言い切れる? 今も君を狙っているかもしれないのに」


 ベンチに座る僕と目線を合わせるかのように腰を屈ませた彼女はそんなようなことを淀みの無い口調で滔々と口にして、目を細める。
 それはぼくの反応を窺っているかのようにも取れた。
 どのような反応を示すのか興味があるらしい。まるで知的好奇心の旺盛な学者のような眼差しでぼくを射る。
 けれど数秒で飽きたのか若干不満げな顔で背筋を伸ばしぼくの顔から距離を取った。


「ありえないとでも言いたげね? 馬鹿ねぇ、世の中に絶対は無いというのに。その絶対に縛られていたんじゃあ、貴方生き残れないわね。いつだって自分が危殆に瀕している状況だと考えることをお勧めするわ。多少神経は磨り減るでしょうけど、仕方の無いことよ。生き残るためにはね」


 とは言われてもこの比較的平和な日本諸国で危機感を持てと言う方がどうかしている。ただの平凡な中学生であるぼくを殺す人間がいる? ――やはりありえない。
 そう告げたならば目の前の女性は笑みを深くしてぼくに顔を近づけた。


「――人は皆破壊衝動なるものを持っているものよ」


 濃艶な笑みに若干たじろぎ魅入られたように彼女の瞳を凝視した。ベンチのすぐ傍にある公園灯に照らされたそれは、まるで宝石のオニキスのようで。


「日常を壊したいという欲求があるの。行動に移さなくても良い。ただ、思うことはあるでしょう。特に君、根詰めてそうだものね。無意味に暴れて部屋を滅茶苦茶にしたいだとか思ったことは無いかしら。若しくはそうね、男の子だもの。好きな子を滅茶苦茶にしたいとか、そういうことは思わない? 後先のことは考えず現時点の感情に身を任せて何かを壊してみたくなったこと、ない?」


 無い、と、はっきり断言は出来なかった。
 それでも首肯も出来なくて、彼女の瞳からふいと視線を逃がして答える権限を放棄する。
 彼女はやはり気分を害した風も無く、寧ろ上機嫌に忍び微笑いを漏らした。


「ふふ、まあ良いわ。ともあれ言いたかったのは、破壊衝動を持った人間は何をするのか分からないということよ。刃が人肉に沈む感触に溺れる人間だっているわ。それに言ったでしょう? 絶対なんてこと、この世の理にはありゃしないのよ」


 流石にありえないとはねつけることは出来なくなった。
 眉間にシワを寄せる。本当に自分の周りに危害を加える人間がいないのかどうか怪しく思えてきて言い知れない感覚が体の中を駈け巡った。


「そんなに難しく考えることないわ。この世界に住まう全員が破壊衝動を他者に向けるとは限らないから。絶対に殺されるとは限らない。けれど絶対に殺されないとは限らない」


 それは矛盾しているように見えて一本筋が通っていた。
 人の人生に幾つもの可能性があるのならその答えもありえるように思える。
 絶対に好かれるとは限らない。絶対に嫌われるとは限らない。
 無数に入り組んだ可能性は一介の人間乃至動物などの力では覆すことも出来ず、それを人は運命だの宿命だのと言うのだろう。


「あら、分かってきたじゃない」


 くすくすと、彼女は楽しそうに笑う。鈴が転がるような忍び笑いに呼応するかのように彼女の肩にかかった黒髪がそこから落ちた。


「私としては、運命や宿命と呼ぶよりも偶然や必然と呼ぶ方を好むけれどね。そんなに厳かなものじゃあないわ。ただの可能性の束。それだけよ」


 その束が何よりも恐ろしいものなのだが。
 心中で呟くと同時にぼくは軽く吐息した。
 いつの間にか見ず知らずの女性と違和感無く会話している自分がいることに気付いたのだ。
 そうしていつの間にか、彼女の言葉で頭を働かせ考えさせられている。最初話しかけてきたときは暇つぶしに聞き流してやろうかと考えていただけだったのに、可笑しなものだ。
 けれどこれも可能性の収束した結果だった。


「さあ、それじゃあ君に聞くわ。これからどうする?」


 凄艶な笑みを浮かべ無邪気に邪に問うてきた彼女を一瞥して、目を眇める。
 これからにどのような可能性があるというのだろうか。


「可能性なら沢山あるわよ。君が此処から家に帰る又は帰らない、私と離れる又は離れない――ぶっ飛んで私を殺す又は私に殺されるってのもありね?」


 ふっと片方の口端をつり上げて笑えば彼女も何故か満足そうに口角を上げた。
 唇を開く。喉奥から言葉を引っ張り出して舌に乗せる。そうして空気を振るわせる。
 どのような可能性を得るかはいつだってぼく次第。


◆あとがき◆

どうやら女の子の方を私は気に入ったようです。でも名前無い。仮にオニキスちゃんと呼んでおこうと思う。若しくは死神ちゃん。
この子は勝手に話しかけてきた子なのでやはりその分順調に物語を紡げました。いつかどこかの短編で出てくるかもしれない。
人の≪可能性≫は何十年経っても無限にあるのだというお話。
≫Lemon Lotus(index)


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