ある時、じいちゃんが言った。

「佐太郎。お前は少し、人の暗部というものに疎い嫌いがある。何れそれが、お前自身疎ましくなることもあるだろうが、しかし恥じることはない。人を信じることが出来るということは、決して短所ではないのだということを、忘れてはいけないよ」

 じいちゃんの言葉はいつもオレには少し難しくて、その全てを理解するのにはまだまだ経験という奴が足りないけれど、でもじいちゃんにどんな言葉を貰ったのかは、一言半句までしっかり頭の中に刻み込んでいる。
 いつかこの先長い人生の中で、ああ、あの時のじいちゃんの言葉はこういうことだったのかと理解出来ることがあるんだろう。オレはそれを、とても待ち望みにしている。



宮部佐太郎、運び屋看板の軌跡



「じいちゃん、オレ、九歳になったら運び屋の仕事を始めたい」

 九歳の誕生日をもうすぐ迎えるかという頃、オレはじいちゃんにそう話した。じいちゃんは幾つもの深いシワの一つみたいな目と口を少し開いて、意外そうにこっちを見た。
 オレの家ははっきり言って貧乏だ。先祖代々受け継がれてきた日本家屋は狭いわけではないものの、畳はもう何年も変えていないため日焼けで茶色く変色しているし、障子だって幼い頃オレがお遊びで破いてしまった後が今も変わらぬまま残っている。家具は昔っからの使い古しで、時々動作が怪しくなる黒電話や古い型の洗濯機や掃除機を長年大事に使っている。テレビは今時珍しいブラウン管で、リモコンはなくテレビ本体のダイヤルをかちゃかちゃ変えてチャンネルを変えるという年代物。父ちゃんがやっている農家の仕事から得る収入では、どうしたってギリギリの生活を続ける他ない。
 じいちゃんの隣の席で安い白米をもそもそ食べながら父ちゃんが渋い顔をした。今日も朝ごはんの前に野菜の世話をしに行っていたのだろう、頭に使い古してべろべろになった手ぬぐいを巻いている。顔は年々日に焼けて黒くなっていっているような気がした。

「佐太郎、お前はまだ八歳だろう。仕事なんて大人になったら嫌でもやらなきゃならなくなるんだから、今は遊ぶことだけに専念していなさい。生活のことは父さんに任せとけばいいんだから」

 父ちゃんは箸を持った手の中指で丸眼鏡のブリッジを押し上げる。そうは言うものの、朝早い農家の仕事と並行して夜遅くまで内職の仕事をしているせいか、目の下の隈は濃く、全然父ちゃんには任せてなんておけないというのがオレの正直な意見である。

「違うんだ、父ちゃん。オレが自分で、運び屋をやりたいって思ったんだ」
「佐太郎。仕事ってのはな、ごっこ遊びとは違うんだぞ」
「ごっこ遊びじゃねーよ! ホントにオレは――」
「佐太郎も浩太郎も、少し落ち着きなさい」

 じいちゃんのよぼよぼした掠れ声に父ちゃんと二人して口を噤んだ。じいちゃんは付け合せの沢庵をぼりぼりやるだけの時間を置いて、目を伏せて長く細い息を吐く。宮部家に代々受け継がれてきた灰色の髪は昔の記憶にあるそれよりもすっかりまばらになった。シワも深くなったし、腰も曲がってきている。それでもじいちゃんはいつまでもオレの中で大きい人のまま、変わらない。

「……そうか、運び屋なあ……。佐太郎は運び屋になりたいのか」
「おう! じいちゃん、昔やってたんだろ? 物置に看板あるの、オレ、前に見つけたんだ。それを継ぎたい。じいちゃんが背負ってた看板を、オレも背負いたいんだ」

 じいちゃんは何やら感慨深そうに目を細めて、うんうんと何度も頷いた。オレが何か話をするとき、じいちゃんはいつもこうやって静かに耳を傾けてくれる。
「そうか。そうか……」なんだかいつもより湿った声でじいちゃんが言った。

「佐太郎。運び屋ってぇのは危険な仕事だぞ。お客さんから頼まれた荷物を、時に危ない連中に奪われそうになったりするもんだ。こっちも相手も、いわゆる裏の仕事って奴だからな。もしかしたら殺されるかもしれん。殺されなくとも、うんと怖い目に会うかもしれん。運び屋っつーのはな、そういう仕事だ。分かるか?」

 居住まいを正す。正座して腿の上に置いた拳をぎゅっと握る。

「分かるよ」
「佐太郎――」

 父ちゃんが何事か言おうとしたのを、じいちゃんが手で制した。
 かちゃん、と、ヒビの入った箸置きに箸を置いてじいちゃんがしゃんとオレを見る。オレも思わずもう一度居住まいを正した。

「いいだろう。あの看板、お前に託そう」
「親父っ」

 歓声を上げそうになったのを父ちゃんの声に制された。父ちゃんは非難するようにじいちゃんを見ていたが、じいちゃんは静かにそれを受け流す。まるで柳の木のようだ。

「浩太郎。佐太郎ももう九歳になる。意思を尊重してもいい頃だ。それにこいつ、覚悟はあるぞ。はは、お前が九つの頃はもっとひ弱で、佐太郎みたいには中々言えなかったもんだ。お前の息子は大したもんじゃないか」
「そういう問題じゃないだろうっ。危なすぎるっ」
「ああ、危ないなあ」

 声を荒げる父ちゃんに対して、じいちゃんは飽くまでどこ吹く風といった感じで、まるで父ちゃんが何を言うか既に分かってでもいるかのようだった。暖簾に腕押しとは正にこのことを指すのだろう、と、オレは最近覚えた言葉を思い出す。
 じいちゃんはたっぷり時間を置いてからシワに埋もれた唇を開いた。

「運び屋は危ない職業だ。人に騙され利用されることもある。麻薬や拳銃、爆弾、死体だって運ぶことも多くある。長く運び屋をやっていると、人が信じられなくなるときもあるだろう」

 じいちゃんは息を吐いた。じいちゃんの言葉は朝のだらけた空気の中にしっとりと染み込んで芯を入れる。何となく冬の朝に似ている気がした。

「だがな、佐太郎、忘れるな。運び屋を本当に必要としている人間は必ずいる。家族や恋人や朋友や、そういう人たちとの掛け渡しを探している人間は必ずいる。じいちゃんはな、そういう人たちの荷物も幾つも運んだ」

 じいちゃんの目はどこか遠くを見つめていた。運び屋だった頃の話をするとき、じいちゃんはいつもこんな目をする。子守唄の代わりにずっと昔から聞かされていた言葉だ。オレはじいちゃんのこの話が大好きで、いつも強請って聞かせてもらった。

「人と人の架け橋になりなさい、佐太郎。じいちゃんからはそれだけだ」

 何もしなくともすっかり細くなった目を更に細めて、眉尻を下げてじいちゃんは微笑った。どことなく満足そうに見えたのは、オレの気のせいだったかもしれない。でもオレには間違いなくそう見えて、多分それで十分だった。
 父ちゃんの方へ視線を投げる。父ちゃんは声を荒げて反対していたから、自然伺うような上目使いになった。父ちゃんは何も言わなかった。黙ってこっちを、丸眼鏡の向こうからじっと見ているだけだった。
 眉をきゅっと寄せて唇を一文字に引き結ぶ。

「覚悟は出来ているんだろうな」

 父ちゃんが静かに言った。
「うん」オレは頷く。

「仕事ってのはな、生半可な気持ちでするもんじゃない。途中で止めたは利かない。分かるか?」
「うん」

 頷くことに迷いはなかった。死ぬかもしれない危ない仕事だって覚悟はしていた。おとぎ話みたいな、そんなかっこいいもんじゃない。泥水這いつくばって爪の隙間や口の中まで泥んこまみれになる、運び屋ってのはそんな仕事だ。これは空想の物語じゃない。オレにだってちゃんと分かる。
 父ちゃんが息を吐いた。と思ったらいきなり顔をくしゃっとさせて、

「そうかぁ。俺の息子がもうこんなに立派になぁ。ついこないだまで佐太郎、お前こーんなちっちゃかったのになぁ」
「ちょっ、父ちゃん泣くなよっ」

 おいおい泣き出す父ちゃんに逆にこっちがびっくりした。母ちゃんがいなくなってから弱気を見せなくなって、父ちゃんも成長したのかなと思ってたのに……。
 いつの頃の話をしているのか両の手のひらで明らかに赤ん坊サイズを示しながら男泣きする父親に、やっぱり父親だけに任せられないと決意を顕にするオレである。

「うん。うん。よし、佐太郎がそう決めたのならそうしなさい。父ちゃん応援するからな。頑張るんだぞ」
「あ、当たり前だろっ! じいちゃんの看板を継ぐんだぞ、頑張らないでどうすんだ!」

 食卓を挟んでがしがし乱暴に頭を撫でる父ちゃんに強気に言い返す。じいちゃんは満足そうにも眩しそうにも見える顔で、「浩太郎は相も変わらず泣き虫だなあ」なんてほけほけ笑う始末である。オレが折角男としての決意を見せたってのに、じいちゃんも父ちゃんも変わらず子ども扱いなんだからなあと不満を感じずにはいられない。
 けれどこの日だけは素直に撫でられておくことにした。
 きっともうすぐ甘えていい年を過ぎてしまう。働くってことはそういうことで、大人になるってのはそういうことだ。
 だからまだ、もう少しこのまま。
 父ちゃんの豆だらけの手と、じいちゃんのシワだらけの手に守ってもらえる時間に終わりが来るまで、もう少し、このまま。


あとがき

耳子さんよりリクエストいただきました、「宮部佐太郎と家族の話」です! 耳子さん、リクエストありがとうございましたー! とても楽しく書かせていただきました!
佐太郎の家族は祖父の父だけ。他の家族については不明状態ですね。何が一番楽しかったって、古ぼけた家具の描写と佐太郎の父が男泣き始めたところです(笑)
そんなこんなで、佐太郎は祖父の看板を継ぎ運び屋になりました。
最後にもう一度。耳子さん、リクエストありがとうございました! ここまで読んでくださった方にも、多大な感謝を。

望月さな(Twitter

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